第216話 梓美の母親について 前編
京都への襲撃事件が起きてから、数日が経過した。碓氷雅樹はいつものように、学校へ通い続けている。
上京学園の設備には一切の被害はなく、生徒への犠牲は出ていない。京都府全体としても、損害は軽微だ。
強いて言えば、妖異対策課のサーバーが今も復旧作業に追われているぐらいだ。少なくとも、雅樹の認識では。
ただ1つだけ、気になっている事が彼にはあった。ここ最近、永野梓美が学校へ一度も来ていない事だ。
また何か、調査の為に派遣されているのだろうか。最初はそう思っていた。しかし、連絡しても梓美からの返答はない。
(忙しいのかなぁ? あんな事があったばかりだし)
襲撃事件の際に、未知の航空機が使われたと雅樹は聞いている。妖異を上空から投下させた、特殊なステルス輸送機だという。
そんな物まで出て来たからには、相当な規模の調査が行われているのだろう。雅樹でも、容易に想像が出来てしまう。
もしかしたら、妖異対策課と行動を共にしているのか。安易に連絡を取れないような、危険な場所に居るのだろうか。
予想なら幾らでも思いつくが、どうにも落ち着かない。いつも学校で、顔を合わせていただけに引っかかる。
梓美とお昼を食べて、友人達と会話する。それが今や雅樹にとって、日常となっていたのだ。例え出会って半年程度でも。
GWが明けてから、路上で絡まれていた梓美と出会った。制服を着崩した、派手な装いの可愛らしい先輩。
学校の人気者で、多くの男子生徒から、憧れの目線を向けられている。ウェーブの掛かったゆるふわな長い茶髪。
大きな目はパッチリとした二重瞼で、綺麗な形の鼻と唇を持つ美少女。普段から明るくて、誰とでも仲良くしている。
雅樹も最初は戸惑っていたが、慣れていくにつれて、一緒に居るのが当たり前になった。今では少し、気になる女性。
実は雪女だと知った時は、雅樹もかなり戸惑った。今でこそ、当たり前に受け入れているけれど。
「おい、どうしたんだ碓氷? ボーっとしているみたいだけど」
昼休み、いつも通り友人達と食事をしている雅樹。梓美について考えていたら、友人の相葉涼太が声を掛けて来た。
他にも女子バスケ部のエース、井本深雪や男子サッカー部の有名人、宮本一真も集まっている。机をくっつけて、各々弁当箱を広げている。
「ああ、いや。最近、梓美先輩が学校に来てないなって」
ただ何気なく、思っていた事を口にした雅樹。しかし何やら、場の空気がいつもと違う。雅樹は少し疑問を覚える。
普段通りならば、確かにそうだと真っ先に涼太が言い出す筈。昨日だって、梓美が居ない事を嘆いていた。
だから、いつもと変わらない会話が、続くものだと思っていた。雅樹の思っていた返答とは、全く違う言葉が紡がれた。
「誰だ? 梓美先輩って? 可愛いのか?」
「そんな名前の先輩って、いたっけ? 何年生? 私は記憶にないなぁ」
「へ~、碓氷って、転校生なのに先輩と仲が良いのか」
友人達の言葉に、雅樹は固まってしまう。まるで梓美という存在を、最初から知らなかったような反応をする。
想像とかけ離れ過ぎて、雅樹の手から箸が落ちる。机の上で、硬質なプラスチックの転がる音が響く。
「……え? 皆……何を言って……」
最初は揶揄われているのかと雅樹は思った。しかし、どうやらそうではない。本気で3人とも、記憶から梓美が消えている。
昨日までは、同じ会話をしても問題は無かった筈なのに。そして雅樹は、1つの可能性に思い至る。こんな事が、起きる理由。
有り得ない事ではないと、生徒の中で雅樹だけは知っている。生徒全員の記憶を、改竄出来る存在と暮らしている。
雅樹は食べかけの弁当をそのまま片付け、帰る準備を始める雅樹。突然の行動に、友人達が困惑している。
「お、おい碓氷? どうしたんだ?」
意味不明な行動を取り始めた雅樹へ、友人を代表して涼太が尋ねる。雅樹が今まで見た事もないような、深刻な表情をしていたから。
「悪い皆、今日は早退する。先生に伝えておいて欲しい。あと相葉、俺の机を元に戻しておいてくれ! じゃあ!」
「お、おい碓氷!」
困惑したままの友人達を背に、雅樹は急いで学校を出る。異界の校内でしか、廊下を走った事がなかった雅樹。
校則を守ろうとする生真面目な彼が、この日、初めて破った。出来るだけ早く、大江イブキに会わねばならない。
どうして学園の生徒達から、梓美の記憶を突然奪ったのか。何故今日になって、そんな事をする必要があったのか。
最後に見た梓美の姿。違和感を覚えた自分の直感が、今は悪い方へと向いている。知らない何かが、動いている気配。
もう二度と、梓美とは会えない。そんな嫌な予感だけが、雅樹の中で広がっていく。梓美の笑顔が、雅樹の脳裏に浮かぶ。
(やっぱり、何かあったんじゃないか!)
梓美は何も言わなかった。何でもないと言っていた。しかし、そうでは無かったのだ。何かしら、言えない理由があっただけ。
雅樹には伝えられない何か。イブキが大勢の記憶を改竄してまで、無かった事にした梓美の存在。そして何故か、彼だけは覚えている。
どうして自分だけは、記憶を消されなかったのか。何故かそれが、凄く意味のある事に思えた。雅樹は急いで探偵事務所へ戻る。
10月の昼、気温はまだ夏とそう変わらない。汗をかきながら、雅樹は必死で階段を駆け上る。もう見慣れたドアを、勢い良く開けた。
「イブキさん!」
雅樹が駆け込むと、室内には見慣れた美女の顔がった。パンツスーツ姿のイブキが、デスクに座っている。
その向かい側には、昔から知る剣客美人、那須草子も立っていた。ちょうど今から、話を始めようとしていたらしい。
「……そろそろ、来ると思っていたよ。視なくても分かった」
「やっぱり! どういう事なんですか!? 何故学校の皆が、急に梓美先輩を忘れているんです!?」
思い切り食って掛かる、とまでは言わないが、珍しくイブキへ向けて、糾弾するような態度を見せる雅樹。
珍しい姿に、草子が驚いている。雅樹がここまで、身内に向かって勢いのある態度を見せるのは稀だ。
「分かっている。ちゃんと説明するから、マサキも座ってくれ。玉藻前にも、聞いて欲しい話だ」
「……分かりました」
「……まー君と関係するなら、話ぐらい聞きましょう」
雅樹はまだ興奮したままだが、一旦応接用のソファに座る事を決める。草子も大人しく、雅樹の隣へ座った。
応接用のテーブルと反対側のソファ、そしてデスクを挟んで視線を合わせる雅樹。イブキがじっと、雅樹を見ている。
「……君の記憶も消そうか、私はギリギリまで悩んだ。最終的に、梓美の意志を尊重した。だから生徒の中で君だけ、梓美の記憶を持っている」
「なんでまた、そんな事を?」
どうにも開幕から、不穏な空気が漂っている。自分が予想したように、本当にもう梓美とは会えないみたいじゃないか。
雅樹のそんな予感が、頭から消えてくれない。まるで今から、故人の話を始めるみたいだと雅樹は感じてしまう。
不安な気持ちだけが大きくなる雅樹へ、あの日の真実が語られ始めた。黒澤会と思われる者から、届いた手紙があった。
恐らくは学園に投下された、巨大な怪鳥に仕掛けられていたと思われる事。そしてその手紙は、脅迫状であった。
「少々複雑な過去があってね。梓美は元々、東日本の生まれなんだ。あの子の母親は、今も長野県で暮らしている」
「あら? そうだったのね。私は会った事がないけれど」
「マサキは知らないだろうけど、お前なら知っているだろう? 妖異が人間との間に、子を成すのは恥だとされていた時代を」
まだ人間が、単なる食料として扱われていた時代。人間と妖異の子が、より強くなる可能性があると、知られていなかった頃。
梓美の母親は、そんな時代に梓美を生んだ。愛した人間の男性との間に、子供を作った。イブキの下に居るのは、隠す為でもあったのだ。
「その母親を、人質……人間じゃないから、適切な言葉ではないけれど、利用されてしまった。まさかこんな人間みたいな手を、打って来るとは私も思わなかったよ」
イブキが手に持っている手紙を、ふわりと風を操って雅樹と草子の目の前に届ける。梓美へ宛てられた、脅迫状を雅樹は見た。




