第214話 様子のおかしい梓美
冷泉翠の乱入で、巨大な怪鳥は倒された。タダ働きを嫌う彼女は、碓氷雅樹をしっかり喰らった。
荒々しく口付けをされ、感情と精気を吸われてしまった。雅樹は今、無の心で倒れている。他の妖異達と比べて、翠が一番荒々しい。
満足そうな彼女の背後では、灰の山がサラサラと風で消えていく。少し離れた場所で、乾英子が電話をしている。
「そう。さっき落ちて来た塊を調べたいのね? 分かったわ。暫く異界は維持しておくわね」
何やら事態が進行しているらしいが、雅樹はボーっとしている。周囲の情報が、あまり頭に入って来ない。
どことなく違和感があるような、ないような気がしている。どうしてそう思うのか、考えるだけの気力がなかった。
大江イブキや那須草子が相手なら、ある程度の余裕を残してくれる。だが翠は、一切の容赦がないのだ。
彼女は吸えるだけ吸っていく。海のハンター、もしくはギャングと呼ばれるシャチの祖先が、進化した存在なだけあった。
凄まじい疲労感が、雅樹を包んでいる。精気は生命力と直結しており、一気に吸い尽くされると大きな疲労を感じる。
イブキや草子のように、丁寧なタイプだと多少の疲労感と、若干の快楽を覚える。雅樹が慣れて来た、というのもあるだろう。
永野梓美と一条愛宕も、どちらかと言えば丁寧だ。絶妙に心を乱されつつ、ゆっくりと無の境地へ至っていく。
たまにイブキは、悪戯心が刺激されたのか、激しい時もある。それでも、翠と比べればかなり優しい方だ。
一言で表すならば、一気飲みだろう。素早くペットボトルの水を、飲み干すような吸い方。おまけにペットボトルが潰れても、気にしていない。
異界の空を眺めながら、雅樹は少しずつ回復している。そんな彼を眺めながら、翠は笑いながら雅樹へ話し掛けている。
「なあ碓氷、そろそろアタシで童貞を捨てる気になったかい?」
「……不安しかないので嫌です」
「大丈夫だって、死なずに終われるさ。多分ね」
絶対に嫌だと、雅樹は徹底して拒否している。翠が魅力的な女性だと、雅樹だって思っている。
イブキや草子と同程度に、美しい女性だ。豪快な面はあるものの、ただ暴力的なだけではないと知っている。
人間の為に、動いてくれる妖異でもある。結構な姉御肌で、面倒見のいい一面も持ち合わせている妖異だ。
スタイルだってかなり良い。性欲の解消だけで考えれば、翠は最高級の相手と言ってもいい存在だろう。
雅樹だって年頃の男子高校生なので、真っ当な性欲ぐらい持っている。だがそれでも、翠の相手は怖かった。
人魚は見目麗しい者が多く、外見だけなら深窓のご令嬢に見える者も居る。しかし、例外なく貪欲なハンターだ。
美女と性的な関係を結べれば、もう死んでも構わない。そんな男性なら良いかもしれないが、雅樹はそう思わない。
もし恋愛として誰かと関係を持つなら、少なくとも翠だけは対象外だ。好きになった結果なら、仕方ないとは思っているが。
いずれにしても、翠と関係を持てば高確率で死ぬ。その覚悟も無しに、人魚と安易に関係を結んではいけないのだ。
雅樹が翠を拒否しつつ、回復を待っているところへ、新たな美女達が参戦する。宇治から駆けつけた、イブキと草子である。
「……はぁ、遅かったか」
「まー君! 貴女、また手を出したわね!」
翠の襲来に気づいたイブキ達が、急いでやって来たが少し遅かった。イブキは呆れ返り、草子は激怒している。
ダウン中の雅樹を、草子が甲斐甲斐しく労る。同時に翠へと猛抗議を開始。いつものやり取りが始まった。
そこで雅樹は、ようやく違和感の正体に気づく。先程から、梓美が妙に静かだ。普段通りなら、真っ先に翠へ抗議する筈。
例えば英子は、いつも通り雅樹を嫌悪の目で見ている。またイブキではない女性に囲まれて、チヤホヤされているからだ。
見慣れた光景の中で、梓美だけなぜか様子が違う。遠くを見つめながら、固まっている。梓美から明るい空気を感じない。
「梓美先輩……梓美先輩?」
「……え、あ? ごめん雅樹君、どうかしたん?」
「いや、何だかいつもと違うなって……」
近くに立っていた梓美が、雅樹の方を向く。ニコニコと笑顔を浮かべているが、何か違う気がしている雅樹。
梓美の全てを語れる程に、雅樹は梓美を知らない。春に知り合って、秋を迎えた程度の期間を過ごしただけ。
千年以上生きている梓美の、過去なんて知らない。どうやって生きて来たのか、少し知っているだけだ。
人間の父親と、雪女の母親を持って生まれた。それしか知らず、両親がどんな相手か薄っすらと聞いた程度。
家族と過ごした時間を、幼い頃の梓美を、殆ど聞いた事はない。どうして京都で、イブキの配下をしているのか知らない。
「あ~うん、ちょっと考え事をな」
「怪我とか、してません?」
「大丈夫やって、何でもないから」
右手を振って否定する梓美。雅樹は彼女が、左手で何かを隠したような気がした。だが次に左手が見えた時、何も持っていなかった。
気のせいだろうかと、雅樹は訝しむ。しかし梓美にだって、悩む事はあるだろう。知られたくない事も、当然ある筈。
しかも相手は女性であり、踏み込んでいい事か分からない。センシティブな話かもしれないし、無理に聞き出すのは憚られる。
何より雅樹がずっと、誰にも聞けていない疑問があった。妖異の女性も、人間のように生理があるのか。産めるなら、あるのではないか。
嫌らしい意味ではなく、辛い日があるのなら、気遣いが必要だろうと考えての事。だが、普段側に居る妖異は女性ばかり。
「体調不良、とかでもなく?」
「妖異が体調を崩すなんて、滅多にあらへんて」
直接女性陣に向かって、妖異も生理があるのかなんて、聞ける筈もない。それとなく触れる程度で、留めておく雅樹。
結局真相は分からないままだが、とりあえずこの場は良しとする。少なくとも、体調不良や怪我の類でないと分かった。
それからの梓美は、ずっと明るく振る舞っている。雅樹を巡った争いに、普段通り参加している。翠への講義も始めた。
じゃあやっぱり、自分の気のせいだったのか。気力が回復し始めた雅樹は、それ以上考えるのを止めた。どうせ考えても、分からないから。
女性という存在は、やっぱり複雑で難しい。自分達男性と違い、簡単に分かる相手ではない。雅樹は自省も含めて、苦笑している。
この時雅樹が感じた、違和感は間違いじゃない。梓美以外の誰も、気づいていない出来事が密かにあった。
事が起きたのは、巨大な怪鳥が倒された直後だ。翠が雅樹を捕獲していた最中に、一通の便箋が突然梓美へ飛んで来た。
何故こんな物がと、彼女も最初は訝しんだ。しかし宛名には、永野梓美の名前が書かれていた。ならば、自分宛ての手紙だ。
恐らく怪鳥が倒されれば、発動する妖術でも仕組まれていたのだろう。そう思って、梓美は封を切り中身を確認する。
黒澤会と思わしき相手が、一体自分に何の用事があるというのか。純粋な興味があり、彼女は特に警戒せず開いた。
「お母さま、とりあえず私は、生徒達への対応を始めます」
「ああ、ここは任せるよ。翠、お前はとりあえずこっちへ来い」
「何だい? アタシにお説教でもしようってのかい?」
「ここが誰の支配圏か、分かっているのか君は?」
雅樹の周囲が騒がしくなり、もう誰も梓美の方を見ていない。届けられた手紙など、誰も知らないままだ。
英子の手伝いに呼ばれた梓美は、雅樹の側を離れていく。今もまだ、草子に介抱されている最中だった。
彼女にとって、雅樹が特別な相手だったのは本当だ。本気で碓氷雅樹という少年を、心から愛している。
だが今、彼女の前に提示された条件は、雅樹と共に居る未来を許さない。異界を出る直前に、梓美は僅かな涙を流した。
彼女の唇が紡いだ言葉は、別れを示すためのもの。バイバイという悲しき一言が、雅樹の耳に届く事は無かった。




