奇跡は起こすもの
自分の顔がアップで映った。それも、自分でもぎょっとするくらい、色めいた表情で。
『あら、ここ、剃り残してるわ。……ふふ。かーわいい』
視線の方へと顔が動いていき、髪が見えるだけとなって、ちゅっとリップ音が鳴り響く。それからまた正面に戻ってきたかと思うと、今度は焦点も合わないほどに近付いてきて、再びリップ音がした。
『ねえ、これからは私が剃ってあげよっか。ま、い、あ、さ。どーぉ?』
聞くに堪えないほど甘ったるい、まるでハートを撒き散らしてそうな声音。
私はそこでようやく硬直から抜け出し、シーベルを突き飛ばして、慌てて画面の前に立ちふさがった。あぜんとしている彼を怒鳴りつける。
「プライベートの映像と音声は閲覧禁止って言ったでしょう!?」
「俺のせいじゃねーよ! あんたが勝手にファントムの勤務時間変えるから、こういうことになるんだろうがっ。ってか、あんた護衛連れ込んで何やってんだよ!!」
彼も怒鳴り返してくる。そうしたやりとりをしている間も、私の背後では、どんどん事態が進行しており、音声から類推するに、いまやR15指定が必要な様相を呈しているようだった。
「ちょっと、はやく止めなさいよ!」
「だったら、そこどけよ!」
「いやよ! 見えちゃうじゃない!」
「そこにスイッチがあるんだよ! 俺だって見たかねーよ! 変態女、ほら、消してやるから、どけって」
ぐい、と肩を横に押される。私は焦って、シーベルをつきとばした。
シーベルが勢い余ってしりもちをつく。カッと怒った彼の口から雑言が飛び出す前に、私はスカートの裾がひるがえるのもかまわずに、彼の腰を足で押して! 押して! 押しやった!!
「なっ、この暴力女っ。蹴るってどういう料簡だ!!」
「うるさい、足で押しただけでしょう、ちっさいこと言ってんじゃないわよ、この出歯亀! もういいから、出ていきなさいよ! 出てってったら、出てけ、出てけ、出てけーーーーーっ!!!!」
「誰が出歯亀だ、クソッ、暴力女、好きにしろ!!!」
シーベルは赤黒い顔色で怒鳴り散らして部屋を出て行った。
……赤かったのは、怒りからだけではなかったにちがいない。
私は画面へと向き直って、とうとうR18な場面を繰り広げているそれを前に、羞恥に震える指で停止スイッチを探した。
十分後、戻ってきたシーベルは、腕組みして怒っていますポーズを取っている私の前に、微妙に私から視線をそらして立った。
「あー。陛下。うちの機体に虐待を加えるのはやめていただきたいんですがー」
「苛めてなんかいないわよ。いやがらなかったもの」
正々堂々と答えてやる。するとシーベルはすぐに礼儀正しさをかなぐり捨てて、食ってかかってきた。
「拒否権のない相手に強いてんだから、虐待だろうがっ」
「べつに強いてなんかないわ。嫌なら従わなくていいって教えたし」
「その意味もわからん相手に言ったって、意味ねーって言ってんだよっ」
「そんなことないもの。笑ってたもの」
「……笑ったぁ?」
シーベルが目を見開く。
「笑った、……と思うわ。唇の端が、両方とも上がったから」
「ほんとかよ」
「ほんとよ」
「いつだよ。何したらだよ」
「聞くな、出歯亀!!」
シーベルは、苦いものを口にしたような表情で黙り込んだ。嫌そうに横を向いて、短い溜息をつく。
「……あー、まあ、本能を司る脳に感覚的な刺激を与えるのは、感情を誘発する方法としては悪くないと思う」
沈黙が落ちる。私は腕をといて、彼に問いかけた。
「……ねえ、感情を取り戻せると思う?」
「さあな。俺にはなんとも言えん、専門外だ。ただ、奇跡は待ってるだけじゃ起こらないからな」
私は瞬間、目をぱちくりとし、それから苦笑した。
「何だよ」
「彼も同じようなこと言ってたわ。奇跡は起こすものだろ、って」
そう言われて、別れたのだ。私はそれをずっと、女王として頑張れと言われたのだと思っていた。私が女王らしい女王になれるのは、奇跡みたいなものだから。
でも、もしかしたら、彼は違う意味で言ってくれていたのかもしれなかった。
あの時は、二人で歩む未来は描けなかった。とても許される状況ではなかった。だけど、いつかその状況を変えてみせると、奇跡を起こしてみせると、そう思ってくれていたのかもしれなかった。
最後の最後まで、私を思ってくれていたというのならば。彼ならきっと。
もっとちゃんと自分の気持ちと向き合えばよかったと、後悔がわきあがる。辛さに忘れようとばかりして、大切なことに気付けないまま、彼を逝かせてしまった。
深い悔いに、物思いに沈みかける。ところがその時、思いがけない言葉が掛けられた。
「ああ、そうかよ。だったら起こすんだろうよ、奴は」
シーベルは投げやりに言って、コンソールの前に行った。
「……ったく、面倒くせーことしやがって。ほら、教えろよ、どの時間帯がまずいんだよ。それ以外をチェックするから、正確なのを教えろよ」
つっけんどんに、心底面倒そうに。自分がどれほど重要なことを言ったのかも、きっとわかっていないで。だって、シーベルにとっては、それが疑いようのないことなのだ。当たり前のこと。
……奇跡は起こすもの。だから、彼は奇跡を起こすのだと。
「そうね。奇跡は起こすもの、なんだものね」
私は、誰にともなく、……いいえ、三年前の記憶の中の彼に、そう囁く。
「なんだって? もう一度言ってくれるか?」
よく聞こえなかったらしいシーベルは、的外れなことを言った。私はなんでもないと答えて、シーベルの求めに従って、スケジュール帳を取り出して、正確で詳細な情報を与えることにした。
奇跡は待っているだけじゃ起きない。
心の底から求めて、求め続けた先にしか、ないものだろうから。
だから、きっと、奇跡とは起こすもの。
***
十九年後。
「だから、あなたは、本当にお父さんとお母さんの愛の結晶なのよ」
私が語り始めた時から、はぁ? という眉間に皺を寄せて口を半開きにした厭そうな顔を、一秒たりとも変えることなく、すべてを聞き終えた息子は、私が黙ってもたっぷり一分以上沈黙していた。
やがて口を閉じて、顔を大儀そうに横にそらし、それから目をつぶって、長い長い溜息を吐き出した。
「私は何も聞かなかったことにします」
「なに言ってるの。あなたのお父さんはそれは立派で素敵な人だったって、今話したでしょう!」
「そうだったとしても、倫理的に問題がありすぎます。脳死状態の人間を人体実験でアンドロイドに仕立て上げて、しかもそれを襲って、……ッ」
息子は口元を押さえて、気まずげにさらに視線をそらした。私も、もじ、とする。そこを指摘されると、ちょっと気まずい。
「とにかく、私は知らないことにしておきます。お母さんも、これから先も、秘密だと言い張ってください。……その方が美談に聞こえなくもないんじゃないですか」
「……ああ、そうね。秘密の恋人、とか? なんかロマンの香りがするわね。ふふふ」
息子は、ちらりと呆れた目線をこちらに送って、おもむろに立ち上がった。
その姿を惚れ惚れと見上げる。息子は髪や目の色、顔も私に似ているけれど、体型や運動神経は、本当に彼によく似ているのだった。
「では、もう行っていいですか。……試験前なんですよ」
「いいわよ」
私も立ち上がって、扉の前まで息子を送っていく。
「試験頑張ってね」
「だったら、話す時期を考えてください」
「今度は気をつけるわ」
頬に別れの挨拶のキスをすると、息子も素直に返してくれた。
これで、次に息子に会えるのは、いつになることやら。
私は息子が廊下の角を曲がって見えなくなるまで見送った。体型が似ているせいか、歩き方まで彼にそっくりだと思いながら。
そして、その足で控え室に行って、引っ込んでいた補佐官たちに声を掛け、私は日常の業務に戻ったのだった。