第9話 久しぶりに
あの日、真夜さんと出会ってから結構な日が経った。
仕事中もふとした瞬間に彼女の儚げな笑顔や、あの夜のぬくもりが頭をよぎる。また会いたいな、なんて考えてしまっている自分に気づき、慌てて首を振る。
(ふぅ……いけない、仕事に集中しなきゃ)
キーボードを叩く手に力を入れていると、頭上から明るい声が降ってきた。
「ほーしのっ! 今日、このあと飲みに行かない?」
声をかけてきたのは上司の橘さんだった。真夜さんのことで頭がいっぱいになりかけていた私にとって、それは丁度いい気分転換の誘いだった。
「はい、ぜひ! ちょうど呑みたい気分だったんです」
◇ ◇ ◇
賑やかな居酒屋の個室で、ジョッキを軽く突き合わせる。
「「かんぱ〜い!」」
「星野、急な誘いに付き合ってくれてありがとな」
「いいえ、私もすごく嬉しいです。ありがとうございます」
そう言って目を合わせると、橘さんはご機嫌そうに頬を緩めた。
「んふふ〜。星野さ、最近ちゃんと笑えるようになったよなぁ」
「えっ? 私、前からも普通に笑っていたと思いますけど……」
「うーん、たしかに笑ってはいたんだけどさ。なんていうか……何かを必死に隠して、無理して笑ってるのかなって感じだったから。だからさ、今の笑顔を見てると私は本当に嬉しいのよ!」
言葉に詰まった。自分では隠せているつもりだったのに、彼女にはお見通しだったのだ。
「……よく気づきましたね。たしかに最近、自分の人生がようやくスタートしたというか……毎日を楽しく感じられるようになったんです」
「うんうん、わかるよ! 目にちゃんと光が差してるもん! もしかして……良い人でもできたのかしら? ふふっ、話ならお姉さんがたっぷり聞いてあげるわよ!」
悪戯っぽく笑う橘さんを見て、胸の奥がじんわりと温かくなる。
橘さんはいつも私のことを気にかけてくれる、とても優しい人だ。会社の上司というよりは……幼い頃、私を可愛がってくれた「近所のお姉ちゃん」のような存在。
少し酔いが回ってきたのか、橘さんは私の顔を覗き込んで言った。
「星野ー! あんたって本当に綺麗よねぇ。モテるでしょう? 全然困らないでしょ。羨ましいわー!」
「橘さん、もう酔ってきたんですか? 橘さんこそスタイル抜群で『仕事ができるカッコいい女性』って感じでモテモテじゃないですか」
ほっぺを少し膨らませて茶化すと、彼女は「ふふふ、そうかなぁ」と顔を真っ赤にして照れてみせた。職場では凛としていて頼もしいのに、お酒が入るとこんなにも愛らしい。そのギャップに、思わず笑みがこぼれる。
「ちょっと、橘さん飲みすぎですよ? 何かあったんですか?」
「私はねぇ……かわいいかわいい部下の星野がぁ、明るくなってくれたのが嬉しくて呑んでるのさぁぁ……!」
語尾が怪しくなり、舌が回りづらくなっている。相当回っているようだ。
案の定、そのまま「う〜……」と唸ると、彼女はテーブルに突伏してスースーと寝息を立て始めた。
「あ……寝ちゃった」
私の変化を、自分のことのように喜んでくれていたんだ。
その優しさに触れ、やっぱりこの人はあの日々のまま変わっていないのだと実感する。
(懐かしいなぁ……昔から本当にお人好しなんだから)
空虚で抜け殻のようだった私を、幼少期から変わらず温かく見守ってくれていた近所のお姉ちゃん。
数年前、この会社に入社した時、彼女が上司として目の前にいた時は本当に驚いたものだ。
「本当に……ありがとうね……薫子お姉ちゃん……」
愛おしさがこみ上げ、私は机に頭を伏せている上司の髪を、幼子を撫でるように優しく優しく撫で続けた。
◇ ◇ ◇
side:橘 薫子
(………………っっっ!?)
私は今、猛烈な緊張の中にいる。
頭に触れる、優しくて温かい手。少し酔いが回って睡魔に身を任せかけた瞬間、夜留ちゃんが私の頭を撫で始めたのだ。
そして――耳元で聞こえた、あまりにも愛おしい囁き。
(……えっ……お姉ちゃんって言った……? 気のせい……じゃないよね!? えっ、夜留ちゃん、私のこと覚えててくれたの!?)
一瞬で酔いが吹き飛んだ。心臓が跳ね上がり、呼吸が止まりそうになる。
あの日……あの悲惨な事件があってから、心を閉ざしてしまった夜留ちゃん。
彼女が小学生を卒業する頃までしか、近所のお姉さんとして側にいてあげることができなかった。けれど数年前、同じ会社で再会した時、私は心に誓ったのだ。『今度こそ、私がこの子を守る』と。
何があったのかは分からない。けれど、ずっと心が死んでいたあの子の瞳に光が戻り、私をあの日と同じように「お姉ちゃん」と呼んでくれた。
嬉しくて、愛おしくて、目頭が熱くなって涙が溢れそうになる。
(どうしよう……嬉しすぎて泣きそう……! これじゃあ、今さら起き上がれないじゃないの……っ!)
私は溢れ出る涙と歓喜を隠すため、必死に寝たふりを続けながら、心の中で幸せな悲鳴を上げていた。




