44話 意識してよ
休日前の夜。お風呂上がり、夜留はいつものスウェットではなく、少し背伸びをした大人っぽいデザインのルームウェアに身を包み、ほんのり甘い香水を手首に馴染ませていた。
リビングのソファでテレビを観ていた薫子の隣へ、すっと腰を下ろす。
「お姉ちゃん」
「ん? なに、夜留?」
「今日の私……なんか雰囲気違わない?」
夜留は少し上目遣いに、小悪魔的な笑みを浮かべて薫子の顔を覗き込んだ。薫子に「妹」としてではなく、一人の魅力的な女性として少しでも意識してほしい――そんな夜留なりの精一杯のアピールだった。
しかし、薫子はパチパチと瞬きをすると、一瞬でその表情をパッと華やがせた。
「ほんとだ! すっごく良い匂い! この服も大人っぽくて可愛い〜!」
「えっ……あ、ほんと……?」
手応えを感じて一瞬胸を躍らせた夜留だったが、薫子の次の行動でその期待は脆くも打ち砕かれた。
「やっぱり夜留はどんどん綺麗でお姉さんになってくわねぇ〜! 成長したなぁ〜!」
そう言うや否や、薫子は満面の笑みで夜留の頭をワシワシと優しく撫で回し始めた。どこからどう見ても、完全に「可愛くてたまらない妹」を愛でる姉の顔だった。
「〜〜〜っ!? ちょ、お姉ちゃん…… 子ども扱いしないで……」
真っ赤になって身を捩る夜留だったが、薫子は「えへへ、だって可愛いんだもん」と満足気に笑っている。自分の策が1ミリも届かず、完璧な「妹扱い」で返り討ちに遭った夜留は、
(……全ッ然効いてないじゃん……)
と、脱力感とともに姉のあまりの天然ぶりに呆れ果てるのだった。
一方、そのやり取りをキッチンから静かに観察していた真夜。
(……夜留の手法は、可愛らしさに寄りすぎていて薫子さんには響かないのね)
社長としての分析力を無駄に発揮した真夜は、自分なりの「大人なアプローチ」を試みることにした。
自室に戻り、クローゼットから選び出したのは、いつもより少し胸元が深めに開いたシルク地の寝巻き。デコルテのラインが滑らかに覗く、少し色気のある装いだ。
髪をさっと整え、大人の余裕を漂わせながらリビングへと戻る真夜。 夜留はそっと見守り、真夜はソファでくつろぐ薫子のすぐ隣へ、しなやかな動作で腰を下ろした。
「薫子さん。少し、お茶でもいかが?」
足を組み、少しだけ距離を詰めて語りかける。寝巻きの隙間から覗く肌に、薫子の視線が吸い寄せられるか――真夜は密かに心拍数を上げながら反応を待った。
しかし、薫子は真夜の顔を見た瞬間、心底心配そうな顔で立ち上がった。
「真夜さん!? そんな胸元の開いた服じゃ寒いでしょ! 急に冷え込んできたんだから、風邪引いちゃうよ!」
「え……?」
真夜が呆気にとられている間に、薫子はいそいそと自分のブランケットを持ってきて、真夜の肩から羽織らせ、前をぎゅっと隙間なく閉じてしまった。
「ほら、ちゃんと温かくして! もう、真夜さんは自分の体に無頓着なんだから……」
まるで母親のような過保護さで真夜を包み込む薫子。
「……あ、ありがとう……薫子さん……」
駆け引きどころか、100%の善意と心配で包囲された真夜は、ブランケットの中で「……そういうことじゃないのに」と内心で深く、深く肩を落とすのだった。
その日の夜遅く、二人の寝室。
「……はぁ」
同じベッドの中で、真夜は隣に横たわる薫子の背中を見つめながら一人溜め息をついていた。 隣からは、すやすやと規則正しい薫子の穏やかな寝息が聞こえてくる。
(少しは……意識してほしいのに。薫子さんずるいわ……)
一向に自分を特別な目で見ようとしてくれない薫子に、ほんの少しだけ意地悪な気持ちが芽生える。真夜はそっと掛け布団の中で身体を寄せ、薫子の無防備な顔を覗き込んだ。
薄暗がりの中で見つめる、愛おしい寝顔。 ほんの少しだけ、困らせてやりたい。頬に触れようと真夜が静かに手を伸ばした、その時だった。
「……ん……」
小さく身悶えした薫子が寝返りを打ち、すっと真夜の方を向いた。 そして次の瞬間――寝ぼけたままぬくもりを求めるように、ガバッと真夜の首元に腕を回してきたのだった。
「うわっ……!?」
真夜が息を呑む間もなく、薫子は真夜の胸元へすっぽりと自分の頭を埋め、身体をぎゅっと寄せ寄せて抱きついてくる。
「ふふ……あったかい……真夜さん……大好き……」
「っっ〜〜〜〜!?」
逃げ場のない同じベッドの上で、真夜の頭の中で何かが弾ける音がした。
柔らかい薫子の体温、甘い髪の香り、そして胸元にダイレクトに伝わる吐息の温もり。 少し駆け引きを仕掛けようとしていたはずが、至近距離からの無自覚な一撃によって完全なKO負けを喫した真夜の心臓は、警報のようにバクバクと鳴り響いた。
顔を真っ赤にし、息すらまともに吸えなくなった真夜は、離れることもできず、そのまま朝を迎える羽目になったのだった。
翌朝。
リビングの食卓には、朝食の準備をする薫子と、眠そうにコーヒーを飲む夜留の姿があった。
そこへ、寝室から真夜が出てくる。 その顔はどこか酷く不機嫌そうで、それでいて耳まで真っ赤に染まっていた。
「あ、真夜さん! おはよう! よく眠れた?」
無邪気に笑いかける薫子。 同じベッドで自分をさんざん惑わせた張本人の、その眩しすぎる笑顔を見た瞬間、真夜はぷいっと顔を背け、少しだけ涙目になりながら低く言った。
「……薫子さんのバカ」
「えぇっ!?」
唐突な罵倒に、薫子はトングを持ったまま固まった。
「なんで……なんで私ばかり振り回されて、勝手に負けなきゃいけないのよ……! 本当に、意味が分からないわ……!」
同じベッドで駆け引きを仕掛けたはずなのに自爆し、逃げ場のない密着でノックアウトされた悔しさと恥ずかしさで、理不尽にちょっと怒る真夜。
「えっ、えぇー!? 私なにか変なことした!? ごめんね真夜さん、私なんか怒らせちゃった!? 布団取っちゃった!? 痛かった!?」
パニックになり、朝から大あたふたで真夜の周りをオロオロと走り回る薫子。
その光景を、夜留は冷めた目でじーっと見つめていた。 そして、コーヒーを一口すすると、深く大きな溜め息をついて呟いた。
「……お姉ちゃんの無自覚…、ほんっとタチ悪いよね……真夜さんの気持ちわかるわ…」




