第43話
――とある日に遡る。
オフィス街のカフェのテラス席。夕方の柔らかい日差しの中、真夜と玲奈は向かい合って座っていた。
「真夜。……私、ずっとあなたに謝りたかったの」
温かい紅茶に手を添え、玲奈はまっすぐ真夜を見つめた。
「あなたが自分の体に無頓着で、自暴自棄になっていた時期……私、あなたの弱さに付け込んでいた。私に心を向けてくれていないって分かっていたのに、『側にいられるならなんだっていい』って、都合よく求められるままあなたを利用していたの。本当に……ごめんなさい」
静かに頭を下げる玲奈に、真夜はゆっくりと首を振った。
「ううん……頭を上げてください、玲奈。悪いのは私よ。……過去の痛みに耐えかねて、あなたの好意に甘えて、自暴自棄になって傷つけていたのは私の方だわ。本当に……酷いことをしてごめんなさい」
互いに過去の歪んだ関係を認め、言葉を交わす二人。長年の罪悪感と未練の結び目が、すっと解けていくようだった。
「……でも、今の真夜を見ていると、なんだか安心するわ。雰囲気に変な険しさがなくなった。……ちゃんと、生きてるって感じがする」
「……ええ。おかげさまで、少しずつだけどね」
過去の呪縛を捨て、一歩を踏み出し始めた真夜の横顔に、玲奈は静かに微笑んでいた。
------------ そして、現在。
残業ですっかり夜も更けた頃、薫子はオフィス街を歩いていた。
「ふぅ……ちょっと集中しすぎちゃったかな」
軽く首を傾げながら歩いていると、街灯の明かりの下で見覚えのある女性の姿が目に留まった。玲奈だった。どこか一人で静かに佇んでいる彼女の姿に、お人好しな薫子は放っておけず、思わず声をかける。
「玲奈さん……? こんな時間に、どうされたんですか?」
「え……橘さん?」
思いがけない再会に驚く玲奈を、薫子は「少し寒いですし、温かいものでもお茶していきませんか?」と近くの落ち着いたカフェへと誘った。
店内に入り、温かいティーを口にしながら、玲奈がどこか穏やかに切り出す。
「……実はね、この前真夜と会ったんです。ずっと言えなかったお詫びをして……ちゃんと昔のこと、和解できたんですよ」
「えっ……! そうだったんですか! 本当に良かったわ……」
自分のことのようにパッと表情を明るくして喜ぶ薫子。
「真夜ね、すごく雰囲気が柔らかくなっていて……なんだか救われました。橘さんたちと一緒に暮らすようになって、本当に変わったんだなって」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。でもね……彼女、やっぱり根がすごく不器用だから。この前、急にすごく切ない顔で触れてこられたことがあって……」
「え……?」
「『不眠症が治ったら、ここを出て行かなきゃいけないんじゃないか』って、一人で悩みを抱え込んじゃっていたみたいで。真夜さんって……そういう風に一人で追い詰められると、突発的に唇を重ねてしまったりするのかしら……」
真面目な顔で「真夜の不器用さ」を心配するように語る薫子。 その言葉を聞いた瞬間、玲奈はハッと目を見開いた。
(そっか……真夜、そういうことね…………頑張りなさい……ふっ)
玲奈の表情には、ふっと可笑しそうに、そして憑き物が落ちたような安堵と温もりが広がっていった。 自分といた頃の冷たい真夜ではなく、いま目の前にいる彼女の前で、真夜がそんな必死で青くさい感情を剥き出しにしているのだという事実に、玲奈は心から納得し、微笑んでいた。
「……橘さん。真夜のこと、よろしくお願いしますね」
「えっ……? うん、もちろん!」
和やかな空気の中、二人はいつの間にか互いに打ち解け、自然と笑顔を交わしていた。
「あ、よかったら……連絡先、交換しませんか? またこうしてお話ししたいわ!」
無邪気にスマホを取り出す薫子に、玲奈は一瞬驚いたものの、くすりと笑って画面をかざした。
「ええ、ぜひ。橘さんと話せて、すごく楽しかったです」
画面に新しく表示された連絡先を愛おしそうに眺める薫子。 そんな彼女の無防備でどこまでも真っ直ぐな温もりに触れ、玲奈はカフェの窓の外を眺めながら、心の中でそっと呟いていた。
(私にまでこんなに優しくしてくれるなんて……とんだお人好しね。……ふふ、本当に真夜、いい人に出会えて良かったわね)
一方その頃、薫子の残業により「二人きり」となった家。
リビングでは、真夜と夜留が静かに遅めの夕食を囲んでいた。
「お姉ちゃん、残業長引いてるみたいだね」
「そうね。でも、そろそろ終わるって連絡があったわ」
テレビの低い音だけが響く空間。重苦しい沈黙ではなく、そこには不思議と落ち着いた、穏やかな時間が流れていた。
真夜の横顔を、夜留は向かいの席から静かに見つめる。 かつては母の面影を重ね、葛藤に胸を痛めていたこともあった。けれど今の夜留にとって、真夜は大切な一部となっていた。過去を乗り越えた夜留の目には、澄んだ光が宿っている。
「真夜さん」
「ん?」
「お姉ちゃんってさ……仕事になると、急に顔つきが変わるんだよね」
箸を置き、夜留がふっと目を細めて語り出す。
「会社だとすっごく頼りになる先輩でカッコいいのに、家に戻るとあんなに無頓着で、ちょっと抜けてて……。そういうギャップ、ズルいと思わない?」
唐突な薫子の「自慢話」のような言葉に、真夜は一瞬目を丸くしたが、すぐに表情を緩めた。
「ふふ、そうね。会社での薫子さんは見たことがないけれど……家でのあの無邪気さを見ていると、職場でテキパキ働いている姿想像がつかないわ。でも、私の会社に来た時あったじゃない?その時はかっこよかったかもしれないわ。」
「でしょ? 想像つかないよね。でもね、仕事で真剣な顔して書類見てる時の横顔も、すごく綺麗なんだよ」
誇らしげに語る夜留の言葉に、真夜は微笑みを深める。
「ええ。きっと素敵なのね。……私の知らない薫子さんの話を聞かせてくれて、ありがとう」
「ううん。真夜さんだけが知ってるお姉ちゃんの話も、今度教えてね」
「ええ。もちろんよ」
互いに薫子への特別な想いを抱えながらも、それをぶつけ合うのではなく、薫子という存在の愛おしさを微笑ましく共有する時間。 穏やかな空気の中、二人は優しく笑い合い、また夕飯の続きへと戻っていった。




