第42話
「ただいま〜」
パタンと玄関のドアが閉まり、少し疲れた様子の薫子が帰ってきた。
「おかえりなさい、薫子さん」
「おかえり、お姉ちゃん」
リビングで待っていた真夜と夜留は、何事もなかったかのように微笑んで出迎える。けれど、薫子の留守中に「お互いに頑張りましょう」と静かな約束を交わしたばかりの二人の間には、薫子には見えない密やかな熱が確かに通い合っていた。
少しだけ言葉を交わし、三人でそれぞれの夜の準備を済ませる。
そして、夜も更けた頃。真夜はいつも通り薫子と同じベッドに入っていた。
(……っ)
静まり返った部屋の中、真夜の心臓は痛いくらいに鐘を鳴らしていた。
同じ布団から伝わってくる薫子の体温。その温もりに触れるたび、昨夜の廊下で抑えきれずに彼女の唇を奪ってしまった感触が鮮明に蘇る。
真夜が息を殺して背中を向けようとした、その時だった。
「……真夜さん」
暗闇の中で、低く柔らかい薫子の声が届いた。
「……はい」
思わず返事をした真夜の隣で、布団が擦れる音がする。薫子が身体をこちらへと向け、真夜の横顔をじっと見つめていた。そのまっすぐな視線に耐えかね、真夜はそっと目を逸らす。
「真夜さん……昨日のこと、まだちゃんと話せてなかったわよね」
薫子の声には、真夜を責める色など一切なかった。ただただ、目の前にいる大切な人を心から心配するような、深い優しさに満ちていた。
「……何に悩んでいるの? 私に、教えて……?」
暗闇の中で投げかけられた、真っ直ぐな問いかけ。
真夜は息を詰まらせた。
しばらく口を閉ざし、激しく脈打つ胸を抑え込むように布団を固く握りしめる。暗闇の中に、重い沈黙だけが流れていった。
「……ごめんなさい、薫子さん。私……本当に、身勝手で……」
「身勝手なんかじゃないわ。真夜さんが一人で苦しんでいるなら、ちゃんと話してほしいの」
どこまでも自分を優しく包み込んでくる薫子の声。
真夜は震える声で、絞り出すように言葉をつないだ。
「……不眠症が、良くなったんです」
「え……? うん……」
拍子抜けしたような、どこか安堵を含んだ薫子の返答。真夜は言葉を続ける。
「薫子さんのおかげで、私……ちゃんと眠れるようになって……。だから、もうここに甘えちゃいけないんじゃないか……ここを出て行かなきゃいけないのかなって、ずっと一人で悩んでいて……。薫子さんの側から離れるのが本当は怖くて、頭が混乱して……あんなこと、しちゃったの……」
暗闇の中、明かされた真夜の胸の内を受け止め、薫子は静かに息を呑んでいた。
「そう……確かに、一緒に暮らすきっかけになった理由がなくなると解消……って考えになるわよね……」
暗闇の中で、薫子の柔らかい声がぽつりと落ちた。
そこには、真夜の真面目さに納得し、申し訳なさそうに添えられる温もりがあった。
「ごめんなさい……私、この生活を手放したりしないわ……なんて勝手に考えていたから……」
「薫子さん……」
「真夜さんがそんな風に一 悩んでいたなんて、ちっとも気づけなくて……。離れるのが怖かっただなんて、そんなこと言ってくれて嬉しい。……でもね、真夜さん」
布団の中で、薫子の手がそっと伸びてくる。
真夜の冷たくなった手を優しく包み込み、指先をあたたかく握りしめた。
「解決したからって、ここを出て行かなきゃいけないなんてこと、絶対にないのよ。……私は、真夜さんがここに居てくれるだけで嬉しいんだから」
どこまでも真っ直ぐで、あたたかい言葉。
繋がれた手の体温と薫子の穏やかな吐息が、真夜の強張っていた心を静かに解きほぐしていく。
「……ありがとうございます、薫子さん」
真夜はそっと息を吐き出し、握り返された薫子の手に優しく力を込めた。
暗闇の中、隣から聞こえてくる薫子の規則正しい呼吸音。
真夜はその温もりに包まれながら、静かに目を閉じた。




