第38話 社長の余白と、二人きりの夜
「——社長、午後のスケジュールですが……社長?」
秘書の有岡の声で、真夜は静かに意識を引き戻した。
「あ……ごめんなさい有岡さん。少し、考え事をしていて」
「いえ。ですが今朝から少し、お心が遠くにあるように見えましたので。……あんなに酷かった不眠が落ち着いて、お顔立ちも柔らかくなられたと思っておりましたが、何かお悩みですか?」
真夜が背負ってきた過去の重さも、暗闇の中で身を削っていた日々も、有岡はすべて知っている。
だからこそ、真夜のふとした仕草の揺らぎに誰よりも早く気づくのだった。
「悩み、というほどのものではないのだけれど……。有岡さん、今夜少しお時間をいただいてもいいかしら」
「もちろんです。喜んでお付き合いいたします」
決まり次第、真夜は薫子のスマートフォンへ一言メッセージを送った。
『今夜は秘書の有岡さんと食事に行ってきます。夕飯は気にしないでね』
『わかりました。お仕事お疲れ様です。気をつけて行ってきてくださいね』
画面越しにも伝わる薫子の柔らかい返信に、真夜は微かに胸を締め付けられながら、スマートフォンをポケットに仕舞った。
◇
一方、その頃の自宅。
「真夜さん、今日は秘書さんとお食事なんですって。だから今夜のごはんは、夜留ちゃんと二人ね」
「……え、そうなの?」
リビングで薫子からそう告げられた瞬間、夜留の手が一瞬止まった。
真夜がこの家に来てからというもの、常に三人で過ごすのが当たり前になっていた。薫子と二人きりで夕飯を食べ、夜を過ごすのは、どこか遠い過去のことのように思えるほど久しぶりのことだった。
「夜留ちゃんが好きなもの、作ろうかしら。何が食べたい?」
「……お姉ちゃんが作ったものなら、なんでもいい」
素っ気なく返したものの、二人分の食卓に並ぶ料理を前にした時、夜留の胸の奥は静かに脈打ち始めていた。
真夜がいない空間。
目の前で美味しそうに箸を動かし、自分に優しく微笑みかけてくる薫子。
「やっぱり二人だと、ちょっと静かでお部屋が広く感じるわね」
「……そうだね」
向かい側に座る薫子の髪が揺れるたび、その綺麗な口元が動くたび、夜留の意識は嫌でも薫子一点だけに集中してしまう。
会話の合間に生まれるわずかな沈黙すらも、妙に熱を帯びているように感じられ、夜留は静かに味噌汁の椀を握りしめた。
(……なんでだろ。お姉ちゃんと二人なだけなのに……落ち着かない……)
◇
その頃、静かな個室居酒屋でグラスに映る氷の揺れを見つめながら、真夜はぽつりと言葉をこぼしていた。
「……もう不眠も治って、過去のことに区切りがついたでしょう? だから……そろそろ、あの家を出ていくのが筋なのではないかと、考えてしまうの」
「出ていかれたいのですか?」
「いいえ」
間髪をいれずに答えてから、真夜は自分自身の返答の早さに少し驚いたように唇を結んだ。
「……あの温かい場所に、まだいたいと思ってしまうの。……それに、昨夜からどうにも……薫子さんの前に立つと、胸の奥が妙に落ち着かなくて」
「落ち着かない、ですか」
「ええ。今朝も……ほんの少し髪に触れられただけなのに、どうしてか直視できなくて……情けないのだけれど、そのまま席を立ってしまったわ。……今までのような『安心感』とは、どこか違う心地がして……」
言葉を選びながら、探るようにグラスの縁を指先でなぞる真夜。
その耳たぶが微かに赤く染まっていることに、本人は気づいていないようだった。
有岡は何も言わず、ただ静かにグラスを傾けながら、どこか愛おしそうに真夜を見つめていた。
「……な、なに? なぜそんな目で見つめるの」
「いえ……あんなに深い痛みを抱えていらした社長が、そんな風に誰かを想って、静かに心を揺らされている姿が……とてもお綺麗だな、と思いまして」
「綺麗だなんて……私は本気で困惑しているのよ」
「ふふ、申し訳ありません。ですが社長、理由はきっと……社長ご自身が一番よくお分かりなのではないですか?」
有岡に静かにそう告げられ、真夜はそれ以上言葉を返すことができず、ただ手元のグラスに落ちる影を見つめ返すのだった。




