第二章ー 第36話 溶けた心と、甘い不眠
事件から半月ほどが過ぎ、夏の匂いは和らぎ、夕暮れには秋の気配を含んだ涼やかな風が吹き抜けるようになっていた。
薫子と夜留の優しさに包まれながら過ごす日々の中で、真夜を縛り続けていた過去の影は、いつの間にかすっと姿を消していた。
毎朝、窓から差し込む柔らかい光の中で目覚め、3人で賑やかに朝ごはんを囲む。夜留のたわいのない我儘に吹き出し、薫子の包み込むような笑顔に心を和ませる——。
隠し事も、怯えもない。あたたかな愛に満ちたその部屋は、真夜にとって何よりも愛おしく、ずっと寄り添っていたい大切な居場所になっていた。
◇
「……あ」
ある日の昼下がり。会社のデスクで書類をめくっていた真夜は、ふと手を止めた。
そういえば——ここ半月ほど、夜中に目を覚ますこともなく、穏やかな朝を迎えられている。
あんなに自分を縛り付けていた過去の暗いしこりは、もうどこにもない。薫子たちのおかげで、自分はすっかり前を向いて歩き出せていたのだ。
(私……もう、一人でもちゃんと眠れるくらい、前に進めたんだ)
本来なら、喜ぶべきことのはずだった。
けれど次の瞬間、真夜の胸の奥がギュッと締め付けられるような、切ない痛みに襲われた。
(……待って。もともとこの同居って、私が前に進むまでの間ってことで始まらなかったかしら……?)
自分が過去を乗り越えて前に進めたということは、この部屋に居続ける「理由」がなくなったということだ。
もしそのことを二人へ伝えたら——この温かくて幸せな同居生活は終わってしまうのではないか。
(嫌だ……。そんなの、嫌よ……っ)
「この場所を失いたくない」という愛おしさと不安が、一気に押し寄せてきた。
◇
夜。お風呂を済ませ、消灯された静かな寝室。いつものように、真夜は薫子の隣で同じ布団に入っていた。
「真夜さん、今日もお仕事お疲れ様。よく頑張ったね」
暗闇の中、隣から聞こえる柔らかい声。薫子の細い指先が、優しく真夜の髪を撫でる。
これまでは、その手触りも身体の温もりも、暗い過去から守ってもらうための「唯一の安らぎ」だった。
でも——今夜はいつもと違う。
(……トクトク、って……胸が、すごく鳴ってる……どうしてかしら)
肌が触れるたび、頭を撫でられるたび、心臓が跳ねるように脈打つ。
背中から伝わってくる薫子の体温が、なぜか火照るように熱く、心地よく、そして苦しい。
(薫子さん……私……あなたとの夜を終わらせたくない……ごめんなさいね……もう少しだけこのままで居させて……)
それだけじゃない。今までとは全く違う、甘くて不器用な感情が溢れ出してくる。
真夜はそっと顔を巡らせ、すぐ隣で静かな寝息を立て始めた薫子の横顔を見つめた。月明かりに照らされた長いまつ毛と、小さく開いた唇。
(……き……れい…………っ! 私ったら、何考えてるの……っ)
熱くなった頬を隠すように、真夜はそっと布団を鼻先まで引き上げた。
静かな胸のときめきと愛おしさで胸がいっぱいになり、しばらく経っても目が冴えて眠れない。
それでも、月明かりの下で隣に眠る薫子の横顔をいつまでも見つめながら、真夜は幸せな余韻の中で、うつらうつらと静かに目を閉じた。




