第34話 溶け落ちる牙
タバコの煙と安っぽい芳香剤の匂いが充満する、カラオケ店の狭い個室。
ソファに深く腰掛けた派手な女——玲奈は、ドアを開けて入ってきた人物を見て、嘲笑するように鼻を鳴らした。
「へえ……真夜じゃなくて、あんたが来たんだ。身代わりのつもり?」
「真夜さんの代わりに話を聞きに来ました」
薫子は荒立つ胸を静かに鎮め、玲奈の正面に腰を下ろした。
玲奈はテーブルの上に置いたスマホを指先で弄びながら、真夜の過去や過激な動画の存在を、面白おかしく語り始める。薫子を揺さぶり、絶望させ、傷つけるための生々しい毒液のような言葉たち。
「あいつ、家では大人しい顔してるんでしょ? でも本当は私に縋って、何度も淫らに乱れてたんだよ。あんたが守ってる日常なんて、全部ハリボテなんだよ」
薫子を試すような、悪意に満ちた視線。
しかし、どれほど暴言を重ねられても、薫子の表情は崩れなかった。悲鳴も、激怒も怒声もない。ただ、静かで深海のように澄んだ瞳が、まっすぐに玲奈を見つめている。
「……ねえ。あなた、本当は真夜さんを傷つけたいわけじゃないんじゃない?」
「……は? なに寝ぼけたこと言ってんの?」
「真夜さんを縛り付けておかないと……そうやって誰かを脅して繋ぎ止めておかないと、自分が一人ぼっちで消えてしまいそうで、怖いのよね?」
玲奈の手がピタリと止まった。
嘲笑で張り巡らせていた防壁の奥、誰にも触れさせなかった一番柔らかい孤独を、あまりにもあっさりと指し示されたのだ。
「適当なこと言ってんじゃないわよ……っ!」
立ち上がろうとした玲奈の腕を、薫子は優しく、けれど逃がさない強さで包み込んだ。
そのまま引き寄せるようにして、玲奈の華奢な身体をそっと胸の内に抱きしめる。
「酷いことをしたのは許せない。でも……あなたもずっと、寂しくて苦しかったんでしょ」
「な……なにこれ、離してっ……気持ち悪い……ッ!」
拒絶の言葉とは裏腹に、玲奈の声は震えていた。
暴力でも、金でも、脅迫でもない。生まれて初めて注がれる無条件の温もりに触れ、玲奈の体に力が入らなくなっていく。薫子がその背中を愛おしそうに撫でるたび、玲奈の瞳から溢れた大粒の涙が、薫子の服を濡らしていった。
「あ……う……っ、嫌だ……なんなの、あんた……っ」
毒気を抜かれ、薫子の胸の中で子供のように泣きじゃくる脅迫者。
その様子を、薫子はどこまでも優しい、全てを包み込むような微笑みを浮かべながら抱きしめ続けていた。
◇
同じ頃——薄暗いマンションの一室。
夜留は、不安に押し潰されそうになりながら寝室のベッド脇に座り込んでいた。
本当は今すぐ飛び出して薫子を追いかけたかった。けれど、うなされ、荒い呼吸を繰り返す真夜を一人にしていくことなんてできなかった。
「はぁ……っ、はぁ……っ、薫子……さん……っ! 私のせいで……っ」
真夜はただ「トイレに行く」と言って出て行った薫子の違和感を察していた。自分を庇って恐ろしい過去の渦中へ向かったのだと気づき、強い罪悪感と絶望で激しく呼吸を乱している。震える手で布団を掴み、今にも跳ね起きようとする真夜の肩を、夜留は必死に押さえた。
「真夜さん、ダメ! 動いちゃダメ……っ!」
「私……っ、行かなきゃ……! 薫子さんが、私のせいで……っ!」
「大丈夫だから! 私もお姉ちゃんのこと追いかけたかった……でも、真夜さんを一人にできないよ。今日、二人の間で何があったのかは詳しく知らないけど……私、お姉ちゃんのこと信じてるの。どんなことがあってもきっと大丈夫だから……!」
夜留は自分の震える手で真夜の手を強く握りしめた。
二人に何があったのか、今日どんなやり取りがあったのか、その全てを分かっているわけではない。けれど、今は二人で薫子を信じて待つ——夜留の必死でまっすぐな言葉に、真夜は溢れ出る涙を拭いながら、少しずつ呼吸を整えていった。




