第31話 熱の残響と、揺れる輪郭
「もう、夜留ちゃんったら……こんなに呑むなんて危ないよ? 」
居酒屋を出て、月明かりの夜道を歩く帰り道。
少し足元がおぼつかない夜留を、薫子は心配そうに肩を支えながら、優しく諭すように語りかけていた。
「橘先輩が……みんなに囲まれてるから……」
「ん? なに?」
「……別に。誰のせいだと思って……」
風にかき消されるような小言は、薫子には届かない。
頭が少しふわふわとして、でも胸の奥だけが焼けるように熱い。自分を支えてくれる薫子の腕の温もりと、ほんのり漂うお酒の甘い香りが、夜留を余計におかしくさせていた。
マンションの扉をそっと開ける。時刻はすでに深夜を回っていた。
薄暗いリビングには誰もおらず、静寂が広がっている。
「静かに入ろうね。真夜さん、もう寝てるみたいだから」
薫子は口元に人差し指を立てて囁くと、夜留をそっとリビングのソファへ座らせてくれた。
「夜留ちゃん、ここで少し待ってて。お水持ってきてあげる……あ、先に真夜さんの様子だけ見てくるね。寂しがってなかったかな」
そう言って、薫子はつま先立ちで静かに真夜の寝室へと向かっていった。
一人ソファに残され、暗闇の中で息を整える夜留。
……でも、なんだろう。今日は何に対しても、胸の奥が不機嫌にモヤモヤする。
薫子が真夜の元へ向かっただけで、胸の奥がチクチクと痛んだ。
吸い寄せられるように立ち上がり、夜留は少し開いた真夜の部屋のドアへと歩み寄っていた。
そっと隙間から中を覗き込む。
「真夜さん……? 大丈夫?」
ベッドの脇にしゃがみこみ、優しく声をかける薫子。
すると、うなされていた真夜が微睡んだまま手を伸ばし、薫子の首元に腕を回して——そのままベッドの上へと引きずり込んだ。
「んっ……薫子さん……行かないで……」
「あ……真夜さん……? うん、大丈夫だよ。ここにいるからね……」
縋りつく真夜を責めることもせず、薫子は愛おしそうに彼女の背中を優しく撫でていた。
その光景が、瞳の裏に焼き付く。
胸の奥が、ぎゅっと握りつぶされたように痛かった。
(ずるい……。私だって……私だって、そうやって優しく抱きしめてほしいのに……)
真夜さんに向けられるその甘い温もりが羨ましくて、たまらなかった。
頭の中で何かがぷつりと切れた。
部屋からそっと出てきた薫子が、ドアを閉めたその瞬間。
「あ、夜留ちゃん……どうし——」
夜留は言葉を最後まで言わせず、薫子の手首を思い切り引っ張った。
勢いのまま、グラついた体で薫子を強く、強く抱きしめる。
「きゃっ……! や、夜留ちゃん……!?」
驚いた薫子の身体が強張る。けれど、すぐに夜留の尋常じゃない様子を察したのか、「どうしたの? 気持ち悪くなっちゃった?」と、柔らかい手で夜留の背中をさすり始めてくれた。
この温もりが、たまらなく愛おしくて、憎らしい。
「……ずるい……」
「え……?」
「誰の……せいだと思って……」
耳元でそう呟いた瞬間、抑えていた酔いと激しい感情の疲労が一気に押し寄せてきた。視界が急速に暗くなり、夜留の意識は薫子の温かい腕の中で、すうっと途切れていった——。
◇
「……もう、ふたりともお酒に呑まれちゃって。仕方ないんだから」
困ったような、けれど心底愛おしそうな苦笑いを漏らしながら、薫子はぐったりと脱力した夜留を抱え直し、彼女の寝室へとゆっくり運んでいく。
ベッドに横たえ、優しく毛布をかけてあげる。
「おやすみ、夜留」
額に軽く触れ、薫子はそっと部屋の電気を消して出て行った。
静まり返ったリビング。
その片隅のテーブルの上で、充電器に繋がれた真夜のスマホが、暗闇の中で怪しくブブッと一度だけ震えた。
画面には、一通の通知が表示されていた。
『このまま無視する気? あの家に過去の動画送られたくなかったら、明日の夜連絡してよ』
——不穏な暗雲が、静かに、確実に、この温かい家を蝕み始めていた。




