第30話 静寂の蝕みと、密やかな熱
「真夜さん、ごめんね。今日はふたりとも部署の飲み会で遅くなっちゃうから、夕飯は先に食べててね」
朝、薫子さんが申し訳なさそうに言っていた言葉が、頭の中でリフレインしていた。
買い出しを終え、一人で帰ってきた部屋。普段なら3人の賑やかな笑い声と甘辛い料理の匂いで満ちているはずの空間が、今は静まり返っていて、足元から冷気が忍び寄ってくるようだった。
一人分の簡単な夕飯を済ませ、早々にお風呂に入る。
湯船に浸かっても、バッグの中で時折揺れていたスマホの通知が頭から離れず、体の芯まで冷え切っていくようだった。
お風呂から上がり、静まり返ったリビングへ戻る。
いつもなら、この時間には薫子さんが「真夜さん、今日もお疲れ様〜」と優しく抱きしめてくれて、その温もりに縋ることで過去の傷を誤魔化せていた。けれど、今夜は私を温めてくれる人は誰もいない。
(寂しい……、薫子さん……)
押し寄せる孤独感と過去の恐怖から逃げるように、私は冷蔵庫からお酒を取り出し、普段なら飲まないようなペースで浴びるように呑んだ。いくら呑んでも胸の奥の冷たい穴は埋まらない。
頭がぐらぐらと痺れてきたところで、逃げるようにベッドへと潜り込む。
薫子さんの匂いがかすかに残るシーツを強く抱きしめ、丸くなりながら、私は一人静かに瞼を閉じた——。
◇
会社での薫子さんは、家で見せるぽわぽわとした雰囲気とは少し違う。
ピシッとしたスーツを身にまとい、テキパキと部下に指示を出しながら難解な資料を読み込む姿は、誰もが目を奪われる憧れの「バリキャリ」そのものだった。
そして何より——職場での薫子さんは、性別を問わず信じられないくらいモテた。
「ちょっと橘先輩~! ここの書き方教えてください~!」
「あ、ふふ、いいよ。ここね……」
後輩の女性社員が甘えるように薫子の腕にぎゅっと抱きつき、距離感を無くして顔を近づける。薫子は嫌がる風もなく、柔らかく微笑みながら相手の頭をポンポンと撫でていた。
さらには他部署の女性先輩からも「薫子ちゃん本当に可愛すぎ! 今度ふたりで飲みに行こうよ~」と肩を抱き寄せられ、頬をすり寄せられている。
男性社員からの好意はもちろん、同性からの激しいスキンシップや愛されぶりを、直属の後輩として隣のデスクで仕事をしている夜留は、冷ややかな、けれど酷く焦燥感に満ちた瞳で見つめていた。
(……。距離が近すぎる。女の人相手だからって、あんなに抱きつかれて笑って……)
書類にサインする夜留ちゃんのペン先が、カリッと強い音を立てる。
一番近くにいるはずなのに、薫子の周囲にはいつも無自覚に人を惹きつける温かい光が満ちていて、それが夜留ちゃんの胸をチクチクと苛んでいた。
その日の夜、部署全体での繁忙期打ち上げの飲み会が開かれた。
居酒屋の座敷で、夜留は少し離れた下座の席から、同期の葵とグラスを傾けていた。
「はぁ……また橘先輩、他部署の人たちに囲まれてるよ。男女問わずモテすぎでしょ、あの人」
「……ホントね」
葵の呆れ混じりの言葉に、夜留はポツリと返す。遠くの上座では、バリキャリとして凛々しく働く昼間とは一転、お酒が入って柔らかく笑う薫子を中心に輪ができていた。女性社員が甘えるように腕を絡め、男性社員が嬉しそうに酒を注いでいる。
「夜留ちゃんさ、さっきからずっと橘先輩のこと見てない? 何、自分の教育係を取られて嫉妬~?」
からかうような葵の言葉に、夜留はハッとして心臓が跳ねた。職場では二人とも「橘先輩」と呼び、家族のように育ってきた幼馴染であることを周囲に大げさに言ったりはしていない。ただの先輩後輩として見られているはずなのに、図星を突かれたような胸の痛みに苛まれ、夜留は煽られるように手元のお酒を一気に呑みほした。
「っ……別に、嫉妬なんかしてない」
「ちょっと夜留ちゃん、ペース早くない!? 大丈夫?」
胸の奥のモヤモヤを打ち消すように、二杯、三杯とお酒を呑みほしてしまう。喉を焼くアルコールの熱さも、胸の苦しさを誤魔化してはくれない。
すると、大勢の囲みの中にいた薫子が、一気にお酒を煽る夜留の姿を見つけたらしかった。
「ごめんね、ちょっと可愛い後輩が飲みすぎちゃってるから見てくる!」
周りにそう声をかけると、薫子はすんなりと輪を抜け出し、夜留の隣へすっと腰を下ろした。
「夜留ちゃん、ダメだよ~そんな勢いで飲んじゃ! はい、お水飲んで?」
世話焼きな先輩の顔をして、心配そうに夜留の顔を覗き込んでくる薫子。その距離の近さと、柔らかい手つきに、夜留の胸がギュッと締め付けられる。
「橘先輩……私、大丈夫です……」
「ダメ。私の大切な後輩潰れさせちゃったら心配だもの!ね?!」
ふわりと咲いた、自分だけに向けられた温かい笑み。
夜留の胸の奥はカッと熱くなり、心臓がうるさいほど脈打ち始めていた。
(なんなんだろう、この気持ち……)
夜留はその熱を持て余しながら、手元のお冷やのグラスを強く握りしめることしかできなかった——。




