第29話 温もりの裏の不協和音
買い物からの帰り道、バッグの中でスマホが絶え間なく微かに揺れていた。
コートの上からでも伝わる不快な振動。ちらりとバッグの隙間を覗くと、画面には見たくもない名前と生々しいメッセージの通知が並んでいた。
『今どこ?』 『今夜会えない?』 『無視しないでよ』
喉の奥がキュッと締まり、冷や汗が背筋を伝う。 目の前の運転席と助手席では、薫子さんと夜留ちゃんが楽しそうに夕食の準備の段取りを話している。あまりにも眩しく美しい光景。そのすぐ隣で、私の過去が泥のような手で足首を掴もうとしていた。
帰宅後、甘辛いソースと肉の香ばしい匂いがリビングを満たした。 薫子さんが張り切って作った特大ハンバーグ。テーブルに並べられた料理はどれも温かく、本来なら胸が躍るはずの食卓だった。
「真夜さん、はいどうぞ! 薫子特製、肉汁たっぷりハンバーグだよ〜!」
「……ありがとう、薫子さん。すごく美味しそう」
私は必死に笑顔を作り、スマホを画面が見えないよう伏せてテーブルの隅に置いた。 けれど、手が微かに震えて上手くナイフとフォークが扱えない。胃がぎゅっと小さく縮こまり、一口飲み込むことすら激痛を伴いそうだった。
向かいに座る夜留ちゃんが、ふと箸を止めて私に視線を送る。 ……その瞳には、私の挙動不審さと、伏せられたスマホに対する微かな違和感が宿っていた。けれど彼女は何も追及せず、ただ静かにスープを一口飲むと、何事もなかったかのように食事を再開した。大人らしい遠慮と、深く踏み込まない距離感。それが今の私には唯一の救いだった。
だが、薫子さんは違った。
「……真夜さん? どうしたの、全然減ってないよ? 体調、悪いの……?」
覗き込んでくる薫子さんの瞳は、どこまでも澄んでいて、純粋な心配に満ちていた。
「ううん、大丈夫よ。ちょっと……買い出しで疲れちゃったのかしら」 「本当? ほら、顔色も少し悪いよ……」
心配した薫子さんが、「大丈夫?」と優しく私の手に触れようと手を伸ばしてきた。 その瞬間——スマホが卓上でブッと短く震えた。
「っ……!」
私は無意識に薫子さんの手を小さく払うように、ビクッと体を引いてしまった。
静まり返る食卓。 私のあからさまな拒絶に、薫子さんは伸ばしかけた手をピタリと止めた。
「……ごめんなさい、薫子さん。驚いちゃって……悪気は、ないの」
蒼白になりながら謝る私に、薫子さんは一瞬だけ寂しそうな、困惑したような表情を浮かべた。 けれどすぐに、いつもの温かい笑顔に戻ってみせる。
「ううん、驚かせちゃってごめんね? 食欲ないなら無理しなくていいから、あたたかいお茶淹れてあげるね」
そう言ってキッチンへ向かう薫子さんの背中。
(真夜さん、何かを恐がってる……私には言えない何かに囚われてる…?)
真夜の怯えた瞳と、ビクッと引かれた手の感覚。 薫子の胸の中に浮かんだのは、ただただ痛々しいほどに真夜を心配する想いだった。
(無理に聞き出したりはしない。でも……真夜さんが何に怯えていても、私が側にいて抱きしめてあげる。この家が、真夜さんにとって絶対に安全な場所だって思ってもらえるように)
傷ついた真夜をただ包み込み、守ってあげたいという温かなその純粋すぎる優しさが、後に大きな「誤解」を生んでしまうことなど、今の薫子はまだ知る由もなかった——。




