第26話 深夜のグラスと、戯れの問い
「ふぅ……お風呂、気持ちよかったわ」
湯気を纏った真夜さんが、脱衣所から戻ってきた。少し濡れた髪と、火照った肌がどこか艶めかしい。
「あ、おかえりなさい。今さっき夜留は寝室に行きました。『おやすみなさい』って言っていましたよ」
「ふふ、そう。疲れたものね。……おやすみなさい。薫子さんだって、先に寝ていてもよかったのよ?」
「いえ、私はまだ眠くないですし、お酒を飲んでいたので……真夜さんも、よかったら一緒にどうですか?」
「そう……ね。ありがとう、いただこうかしら」
真夜さんはそう言って、私の隣に静かに腰を下ろした。グラスに注いだお酒を手渡し、二人で静かにグラスを傾ける。
「本当に……私があなたの隣で寝てもいいのかしら……?」
真夜さんが、どこかわずかに躊躇うように呟いた。
「っ……!? は、はい……最初からそのつもりで約束しましたし……! それに、私の部屋には私のベッドしか寝る場所がないですし! 夜留には一人で寝てもらうので……」
焦って口早に説明する私を見て、真夜さんはくすりと可笑しそうに目を細めた。そして、グラスを回しながら少し意地悪な笑みを浮かべる。
「ねえ……薫子さん」
「はい……?」
「ふと思い出したのだけれど……玄関で私に不意打ちした時、『妹の唇は返してもらったわ』なんて言っていたわよね?」
「ブッッ……っ!?」
口に含んだお酒を吹き出しそうになり、私は激しく咽せた。
「ゲホッ、ゴホッ……! じ、真夜さん……!? な、なんで今それを……っ!」
「ふふ、だって……あの時のあなた、ものすごい迫力だったもの。……それに、そういえばあなた、すごくキスが上手だったわね?」
「〜〜〜〜っっっ!?」
真夜さんのからかうような、けれどどこか妖艶な眼差しで見つめられ、私の顔は一瞬で耳まで真っ赤に染まった。
手首を壁に押し付けられ、激しく舌を絡め合ったあの30秒間の感触が鮮明に蘇り、胸がキュッと締め付けられる。
「や、やめてください真夜さんっ! あれは……その、夜留からメールが来てパニックになって、勢いでやってしまったことで……っ!」
「ふふ、冗談よ。照れなくてもいいじゃない。……でも、少し気になったの」
真夜さんはクスッと笑った後、少し真面目な表情を作って私を見つめた。
「薫子さんって……これまでに好きな人とか、お付き合いした人はいたのかしら? その……恋人がいたこととか。あんなに情熱的なキスをするくらいだから、少し気になってしまって」
(れ、恋愛事情……!?)
急な恋バナの振りに、私は赤くなった顔のままグラスを見つめ、指先をモジモジと動かした。
「す、好きな人……ですか。……実は私、これまでに一度も誰かと付き合ったことなんてないんです……。恋人なんていたこともなくて……」
「あら、そうなの? 薫子さん、すごく綺麗だから会社でもおモテになるでしょうに」
真夜さんが本気で意外そうに目を丸くする。
実際、職場での薫子は容姿端麗で仕事もでき、それでいてどこか隙があるため、社内の男性社員や後輩女子からのアプローチが絶えない。……本人はすべて「親睦会」「仕事の相談」と大勘違いしてスルーしているだけなのだ。
「モテるなんて滅相もない! 全然ですよ? みんな優しくお茶に誘ってくれたり、仕事の相談に乗ってくれたりするくらいで……」
ポンコツすぎる返答に、真夜さんは呆れを通り越して思わず吹き出しそうになった。
(……本当に自覚がないのね。あんなに無防備で魅力的だったら、狙っている人が山ほどいるに決まっているじゃない……)
(※もし夜留ちゃんが、お姉ちゃんが周囲から狙われまくっている事実を知ったら……今度こそ狂ってしまうかもしれないわね……)
真夜さんは心の中で呆れつつ、言葉を続けた。
「じゃあ……あの時のキスだって、もしかして……」
「は、はい……人生で初めてのことだったんです。何が正解かも分からないまま、勢いでやってしまっただけで……キスが上手だなんて、全然そんなこと……っ!」
赤面しながら白状する私を見て、真夜さんは思わず息を呑んだ。
(……え? 初めて……? じゃあ、この人のファーストキスは私だったというの……?)
(※夜留ちゃんがこれを知ったら……本当に大変なことになるわね……)
真夜さんは冷や汗をかきながらも、どこか優しく微笑んだ。
「じゃあ……誰かを『好き』になったことも、まだないかしら?」
「……はい。夜留のことは小さい頃から見ていて、会社で再会してからは可愛くて愛おしくて、誰にも渡したくないって思うけれど……これって、昔からの妹みたいな存在だからこその感情なのかなって……。それ以外の『恋』とかは、よく分からなくて……」
気恥ずかしさを誤魔化すように、薫子は今度は真夜さんに問いかけた。
「真夜さんは……これまで、どんな恋愛をしてきたんですか……?」
その瞬間――真夜さんの顔からスッと笑みが消えた。
グラスを見つめる彼女の瞳に、深い影が落ちる。
「……私? 私はね……薫子さんみたいな綺麗なお話じゃないわ」
どこか自虐的な、冷ややかな笑みを唇に浮かべながら、真夜さんは言葉を濁した。
「人を好きになる資格なんて、私にはないの。……ただ、自分の存在を確かめたくて、寂しさを紛らわせるためだけに……都合のいい相手と身体を重ねるような……そんな、汚いことばかりしてきたわ。……本当に、最低なクズなのよ、私は」
ポロリとこぼれ落ちた真夜さんの暗い告白に、薫子は息を呑んだ。
彼女が背負う過去の傷の深さと、自らを傷つけるように繋ぎ止めてきた関係を匂わせる言葉。その背中に漂う孤独があまりにも痛々しくて、薫子は言葉を失ってしまう。
「……ごめんなさい、雰囲気を壊してしまったわね」
真夜さんはふっと柔らかい笑みに戻ると、グラスを置いた。
「さ、そろそろお酒も回ってきたし、寝ましょうか?」
「あ……はい……!」
灯りを消し、静まり返った薫子と真夜の寝室へ向かう。
ベッドに入ると、薫子は言葉にできない切なさを抱えたまま真夜さんに向き直し、その華奢な身体を包み込むように抱きしめた。
「ん……温かいわね、薫子さん……」
「……おやすみなさい、真夜さん」
胸の中で、解き放たれたように深い呼吸を始める真夜さんをみて薫子も静かに瞳を閉じるのだった。




