第20話 静寂と熱の狭間で
「櫻さーん!」
待ち合わせ場所に少し早く着いていた櫻さんを見つけ、大きく手を振る。
「ふふ、さっきぶりね。お疲れさま……行きましょうか」
「はい!」
通されたホテルの客室は、静寂に包まれていた。ルームサービスでお酒やおつまみを頼み、重厚なドアが閉まって二人きりになると、櫻さんがゆっくりとグラスに口をつけた。
「星野さん……相談があるって言っていたけれど、どうしたのかしら?」
「今日のお仕事で、私とあと一人……橘という上司がいたじゃないですか。実は、その人についての相談で……」
「ええ……橘さん、のこと……」
櫻さんの表情が、一瞬だけかすかに強張ったのを私は見逃さなかった。
……あ、その前に。櫻さんは少し照れくさそうにグラスを置き、私を見つめた。
「本題に入る前に……ひとつだけいいかしら?」
「はい!」
「プライベートでは、お互い名前で呼び合うのはダメ……かしら?」
そう言って微笑む櫻さんに胸が温かくなり、私たちは「真夜さん」「夜留ちゃん」と名前で呼び合うことになった。
「改めて……夜留ちゃんの相談って、何かしら?」
私は真夜さんのおかげで、あの日から止まっていた時間が動き出したこと、生きる喜びを取り戻してお姉ちゃんとも昔のような関係になれたことへの感謝を丁寧に伝えた。そして、本題に入る。
「お姉ちゃんと一緒にいると……胸がドキドキして動悸が止まらなくなったり、なんだか胸の奥がモヤモヤして苦しくなったりすることがあって……。私、何か病気なのかなって不安で……」
お姉ちゃんの家で起きたあの動悸について打ち明けると、真夜さんは少し目を見開き、静かに私を見つめ返してきた。
「そう……そんなことがあったの……。でも、ひとつだけ確実に言えるとしたら、それは絶対に『病気』ではないわ……。けれど、その答えを導き出せるのは、あなた自身だけだと思うの……」
真夜さんの言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。緊張が解けたせいか、思わずお酒が進んでしまったみたいだ。
「よかったぁぁ……ありがとうございます……!」
頭がぽかぽかと温かくなり、酔いが回ってきた。少し風に当たろうと、お手洗いに向かうため立ち上がった――その瞬間。
視界が回転し、気づいた時にはベッドの上に押し倒されていた。
私の上に覆いかぶさるようにして、真夜さんが覆いかぶさっている。手首を優しく、けれど逃がさない強さで押さえられ、身動きが取れない。
「真……夜……さ……ん……?」
真夜さんが至近距離で、じっと私の瞳を見つめてくる。その瞳の奥には、どこか冷たく、けれど激しく狂おしい波が渦巻いていた。
……ふと見ると、彼女の綺麗な目の下に、薄っすらと深い隈ができていることに気づく。
(真夜さん……ずっと、眠れていないのかな……)
あの悲惨な事件の過去と、加害者としての苛烈な罪悪感。彼女は今も、暗闇の中で一人震えているのだ。
胸が締め付けられるような愛おしさが込み上げ、私は無意識に手を伸ばすと、真夜さんの冷たい頬をそっと撫でた。そして、そのまま背中に手を回し、思い切りその身体を抱きしめた。
「真夜さん……夜、ちゃんと眠れていないの……?」
「……う……ん……」
震える声で漏らされた返事に、言葉はいらなかった。私は何も言わず、ただ真夜さんの背中を優しく優しく摩り続けた。
極限の睡眠不足と疲弊の中にいたのだろう。私の腕の中で、真夜さんは「スゥ……スゥ……」とすぐに小さな寝息を立て始め、身体の力を抜いていった。
「大丈夫……ですよ……」
うなされるように眉を寄せる彼女の背中を擦りながら、そっと呟く。そのまま二人で横になり、静かな時間が三十分ほど過ぎた頃――真夜さんが重そうな瞼をゆっくりと開けた。
ボサボサの髪のまま、真夜さんは私の頬にそっと手を添えた。
次の瞬間、私の唇に柔らかく温かいものが重なった。
「んっ……!?」
息を呑む間もなく、舌が滑り込み、密やかな水音を立てて口内を弄られる。あまりの衝撃に身体が固まったけれど……真夜さんの瞳はどこかうつろで、夢と現実の境目にいるようだった。そのまま、彼女は満足したように再び瞳を閉じ、私の胸の中で眠りに落ちてしまった。
(びっくりした……寝ぼけていたのかな……?)
ホテルのチェックアウト時間が近づいていた。真夜さんをこのままにしておくわけにはいかない。幸い、私の家はここからすぐ近くだ。
「真夜さん……ホテルのお時間なので、私の家に行きませんか……? ちゃんとベッドで休みましょう……?」
寝ぼけて朦朧としている真夜さんを支え、なんとか自分のマンションへ連れ帰った。そして彼女が安らかな眠りにつけるよう、私はその夜、ベッドの脇でずっとその手を取り、側で見守り続けたのだった。
◇ ◇ ◇
「んっ……ふぁぁぁ……。……久しぶりに、眠れた……」
真夜はゆっくりと横を向き、重かった頭が嘘のように軽いことに驚きながら目を覚ました。
視線を落とすと――床に直接座り、ベッドの縁に頭だけを乗せるようにして、すやすやと眠っている夜留の姿があった。
(あ……)
自分の手が、夜留の小さな手にしっかりと握られていることに気づく。
(もしかして……私が眠れていないことに気づいて、一晩中側で……? それに、ここは……あの子の部屋……?)
昨夜の断片的な記憶が蘇る。押し倒したこと、激しく唇を奪ってしまったこと……そして、それらをすべて温かな抱擁で受け止めてくれたあの子のぬくもり。
「夜留……ごめんなさいね……。あ……りがとう……」
愛おしさと罪悪感で胸がいっぱいになり、真夜は優しくあの子の黒髪を撫でた。
手が触れると、夜留はもぞもぞと身体を揺らし、ゆっくりと瞳を開けた。
「あっ……真夜さん……おはようございます……ムニャ……。久しぶりに、よく眠れましたか……?」
「ええ……とっても。こんなにも深く眠れたのは、何年ぶりかしら……。本当に、ありがとう……」
「ふふ……よかった……です……」
寝ぼけ眼で嬉しそうにふにゃりと微笑む夜留を見て、真夜の心には、これまで感じたことのない切なく温かな感情が満ちていくのだった。




