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第9話 歯ブラシ

 朝食を終えたあと。


 優真は食器を片付け、出勤の準備を始めた。


 時計を見る。


 まだ時間には余裕がある。


「さて……」


 自分の部屋で着替えを済ませ、洗面所へ向かう。


 ドアを開ける。


「あ」


「……あ」


 澪がいた。


 洗面台の前。


 ちょうど歯磨きを始めようとしているところだった。


「ごめん。使ってた?」


「いえ。大丈夫です」


「じゃあ、一緒に使っていい?」


「はい」


 洗面台は二人で並んでも、それほど狭くない。


 優真は澪の隣に立つ。


 そして。


 歯ブラシを取ろうとして、手が止まった。


「……」


 二本。


 歯ブラシが並んでいる。


 一本は自分のもの。


 もう一本は澪のもの。


 ただ。


 それだけ。


「優真さん?」


「ん?」


「どうしました?」


「いや……」


 優真は二本の歯ブラシを見る。


「なんか、すごいなと思って」


「何がですか?」


「これ」


 歯ブラシを指差す。


 澪も見る。


「歯ブラシですが」


「それは分かってる」


「では、何が?」


「二本並んでるの」


「……」


 澪がもう一度見る。


「二人で暮らしていますから」


「まあ、そうなんだけど」


「?」


 本当に分かっていないらしい。


 優真自身もうまく説明できない。


 婚姻届を出した。


 同じ名字になった。


 同じ家に引っ越した。


 二人のお金もできた。


 ハートになるマグカップまで買った。


 それなのに。


 洗面台に並んだ二本の歯ブラシの方が。


 妙に生活感があった。


「なんていうか……」


「はい」


「本当に一緒に住んでるんだなって」


「昨日から住んでいます」


「そうなんだけどね」


 澪が少し首をかしげる。


「優真さんは、時々よく分からないところで実感しますね」


「俺もそう思う」


 優真は笑って、自分の歯ブラシを取った。


◇


 二人並んで歯を磨く。


「……」


「……」


 鏡の中。


 自分の隣に澪がいる。


 当たり前のように二人で歯を磨いている。


 それも。


 なんだか変な感じだった。


 優真が口をゆすぐ。


 隣で澪も歯磨きを終えた。


 続いて。


 澪がメガネを外す。


「……」


 優真の視線が。


 無意識にそちらへ向いた。


 澪はメガネを洗面台の端へ置くと、髪を耳にかける。


 蛇口をひねる。


 水を両手ですくって。


 顔を洗う。


 何でもない。


 普通の光景だ。


 妻が朝、顔を洗っている。


 それだけ。


 なのに。


 会社では絶対に見ることのなかった姿だった。


 澪が顔を上げる。


 水滴が頬を伝う。


 少し濡れたボブが頬に張りついていた。


 タオルを手に取って。


 顔を拭く。


「……」


「優真さん?」


「あ」


 目が合った。


「何ですか?」


「いや……」


 優真は視線を逸らす。


「いつもと雰囲気違うなと思って」


「メガネをしていませんから」


「ああ。たぶん」


「?」


 澪が不思議そうな顔をする。


 たぶんじゃない。


 メガネがないだけでもない。


 会社で見る澪とは。


 まるで違う。


 仕事中は、できる秘書という印象が強い。


 メガネも。


 きっちりした服装も。


 落ち着いた話し方も。


 全部がそう見せていた。


 でも。


 家で。


 メガネを外して。


 髪を少し濡らして。


 タオルで顔を拭いている澪は。


 もっと年相応に見える。


 というか。


 ――普通に可愛い。


「……」


 危ない。


 優真は口を閉じた。


 前にも一度。


 考えていたことが、そのまま口から出た。


『……澪は可愛いのにね』


 あれは本当に事故だった。


 今度は言わない。


「優真さん?」


「何でもない」


「そうですか?」


「うん」


 優真は歯ブラシを片付けた。


◇


 一方。


 澪はタオルで顔を拭きながら、鏡を見る。


 さっき。


 優真に見られていた。


 ただそれだけ。


 別に。


 何か言われたわけではない。


『いつもと雰囲気違うなと思って』


 それだけだ。


 メガネを外していたのだから。


 当然。


 いつもとは違って見える。


 ただ。


「……」


 なぜか。


 昨日の言葉が浮かんだ。


『……澪は可愛いのにね』


「……」


 澪の手が止まる。


 なぜ。


 今、思い出すのだろう。


 昨日。


 食器を選んでいた時に。


 優真が何気なく口にした言葉。


 その直後。


 本人は「忘れて」と言った。


 だから。


 特に意味はないはずだ。


 たまたま。


 口から出ただけ。


 それなのに。


 澪は鏡の中の自分を見る。


 メガネを外した顔。


 少し濡れた髪。


「……」


 無意識に。


 頬にかかっていた髪を整えた。


「……?」


 隣にいた優真が、鏡越しに澪を見る。


 目が合いそうになって。


 澪は視線を逸らした。


「……」


 その耳が。


 ほんの少しだけ赤くなっている。


 優真は気づいた。


 でも。


 今度は何も言わなかった。


 言えば。


 たぶん、また否定する。


 そんな気がした。


◇


「優真さん」


「ん?」


「こちら、使用してもよろしいですか?」


 澪が洗面台の収納を開けていた。


「もちろん」


 中には。


 優真が以前から使っている整髪料。


 シェーバー。


 洗顔料。


 その他、細々としたものが入っている。


「私のものも収納したいのですが」


「好きに使っていいよ」


「ですが、優真さんのものと混在すると使いにくくなります」


「じゃあ半分ずつにする?」


「それがいいと思います」


「了解」


 二人で収納を整理する。


 優真のものを右側へ。


 澪のものを左側へ。


 化粧水。


 乳液。


 ヘアケア用品。


 化粧品。


 優真には用途の分からない小さな容器もいくつかある。


「……」


「何ですか?」


「いや」


 優真は収納を見る。


「なんか、すごい変わったなと思って」


「昨日までは私のものがありませんでしたから」


「そうなんだけど」


 今まで。


 完全に自分だけの空間だった場所に。


 澪のものが並んでいる。


「本当に女の人と暮らしてるんだな……」


 思わず呟いた。


「……」


「……」


 優真は止まった。


 澪も止まった。


「いや、変な意味じゃなくて」


「分かっています」


「ならいいけど」


「実際に女性ですので」


「それは知ってる」


「でしたら問題ありません」


「そうだね」


 なんだこの会話。


 優真は頭をかいた。


「じゃあ、こっち半分は澪が使って」


「ありがとうございます」


「足りる?」


「問題ありません」


「増えたら言って」


「増える予定はありません」


「そういうものって増えない?」


「必要以上には購入しません」


「澪らしいなあ」


「そうですか?」


「うん」


 優真は笑った。


 こうして。


 洗面台の収納も。


 綺麗に半分ずつになった。


◇


「そろそろ出ましょうか」


「あ、もうそんな時間?」


「はい」


 二人はそれぞれ最後の身支度を済ませる。


 優真はジャケットを羽織る。


 澪も仕事用の服に着替え。


 メガネをかけていた。


「……」


 さっきまでとは。


 完全に別人に見える。


「何ですか?」


「いや」


「またですか?」


「仕事モードに戻ったなと思って」


「仕事に行きますから」


「ですよね」


 玄関へ向かう。


 二人で靴を履く。


 優真が鍵を手に取った。


「じゃあ、行こうか」


「はい」


 玄関を出る。


 優真が鍵を閉めた。


 そして。


 二人並んで歩き出す。


「……」


 これも。


 初めてだった。


「優真さん?」


「ん?」


「どうしました?」


「いや」


 優真は隣を歩く澪を見る。


「同じ家から会社行くんだなと思って」


「同じ会社ですから」


「そうなんだけど」


「?」


「今日の澪、朝から正論ばっかりだね」


「事実を言っているだけです」


「はいはい」


 二人で駅へ向かう。


 昨日まで。


 それぞれ別の家で目を覚まして。


 別々に支度をして。


 別々の道を通って。


 同じ会社へ向かっていた。


 今日からは。


 同じ家で目を覚まして。


 同じ洗面所を使って。


 同じ玄関から出る。


 結婚した実感なんて。


 婚姻届を提出した瞬間に、全部やってくるものだと思っていた。


 でも。


 どうやら違うらしい。


 同じ名字。


 二人分の食器。


 壁の向こうから聞こえる物音。


 二人のお金で買ったマグカップ。


 そして。


 洗面台に並んだ、二本の歯ブラシ。


 そんな小さなものを一つ見つけるたびに。


 少しずつ。


 澪が自分の生活の中にいることを実感していく。


「優真さん」


「ん?」


「少し急いだ方がいいかもしれません」


「え?」


「このままの速度ですと、いつもの電車に間に合いません」


「マジで?」


「はい」


「それ早く言ってよ!」


「先ほどから時間は確認していました」


「じゃあ教えてよ!」


「まだ間に合います」


「走るよ!」


「はい」


 二人で駅へ向かって足を速める。


 結婚しても。


 夫婦になっても。


 朝は待ってくれない。


 そんな当たり前のことまで。


 今は少しだけ新鮮だった。

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