第10話 ご挨拶
休日の午前。
朝食を終えた優真がコーヒーを飲んでいると、向かいに座っていた澪がスマートフォンを見ながら言った。
「今日は、日用品の不足分を購入しておきたいです」
「そうだね。まだ細かいもの足りないし」
「洗面所の収納用品と、キッチンの消耗品。それから――」
「あ」
優真が思い出した。
「その前に、近所の挨拶しておかない?」
澪が顔を上げる。
「近隣への引っ越しの挨拶ですか?」
「うん。せめて隣くらいは」
「最近は、挨拶をしない方も多いと聞きますが」
「まあ、そうなんだけど」
優真はマグカップを置いた。
「これからずっと住むんだしさ。何かあった時に、お互い顔も知らないよりいいでしょ」
「……」
澪が少し考える。
「確かに、緊急時や騒音などの問題が発生した場合、面識がある方が話は円滑に進むと思います」
「そうそう」
「では、挨拶しておきましょう」
「相変わらず納得の仕方が澪らしいな」
「そうですか?」
「うん」
優真は笑った。
「じゃあ、買い物ついでに手土産も買ってこよう」
「何が適切でしょうか」
「洗剤とか?」
「洗剤ですか」
「昔はよく聞いた気がするけど」
澪がすぐにスマートフォンを操作する。
「洗濯洗剤は、家庭によって使用する製品が決まっている可能性があります」
「ああ……確かに」
「香りの好みもあります」
「言われてみれば結構難しいな」
「タオルであれば消耗品として使用できます」
「でもタオルもいっぱい持ってる家ありそうじゃない?」
「……そうですね」
二人で考える。
「じゃあ、お菓子?」
「アレルギーや嗜好の問題があります」
「澪」
「はい」
「たぶん、そこまで考えてたら何も渡せない」
「……」
澪が止まった。
「確かに」
「でしょ?」
「では、一般的な個包装の菓子にしましょう。日持ちするものが適切だと思います」
「それでいこう」
決定した。
◇
買い物を済ませ。
二人は小さな紙袋をいくつか手にして帰宅した。
中身は、個包装された焼き菓子。
高価すぎず。
安すぎず。
量も多すぎない。
「……これでいいよね」
「問題ないと思います」
「じゃあ行こうか」
「はい」
玄関で靴を履く。
優真がドアを開けようとして。
ふと、澪を見る。
「どうしたの?」
「いえ」
澪は少し考えているようだった。
「挨拶の際、私たちの関係については、どの程度説明すればいいでしょうか」
「関係?」
「はい」
「……夫婦でいいんじゃない?」
「それはそうですが」
「というか、それ以外に説明しようがないでしょ」
「……確かに」
「普通に、新婚で引っ越してきましたって言えばいいよ」
「分かりました」
澪は頷いた。
いつもの澪だ。
ただ。
ほんの少しだけ。
いつもより返事が遅かった。
◇
まずは隣の部屋。
優真がインターホンを押す。
少しして。
「はーい」
明るい女性の声が聞こえた。
ドアが開く。
出てきたのは、五十代くらいの女性だった。
「はい……あら?」
優真と澪を見て、女性の表情が明るくなる。
「もしかして、お隣に引っ越してきた方?」
「はい」
優真が頭を下げる。
「先日、隣に越してきました神谷です」
「ああ、やっぱり!」
女性はにこやかに笑った。
「荷物入れてたから、誰か来たのかなって思ってたのよ」
「ご挨拶が遅くなってすみません」
「いいのいいの。最近は挨拶しない人も多いんだから」
「これ、よかったら」
優真が紙袋を差し出す。
「あら、わざわざ?」
「大したものじゃないんですけど」
「ありがとう」
女性が紙袋を受け取る。
そして。
当然のように、澪へ視線が向いた。
「こちらは?」
「あ――」
優真が口を開く。
「妻の、澪です」
「……」
ほんの一瞬。
澪が優真を見た。
それから、すぐに女性へ向き直る。
「神谷澪です。よろしくお願いいたします」
丁寧に頭を下げる。
「あらあら」
女性の顔がさらに明るくなった。
「新婚さん?」
「はい」
今度は優真が答えた。
「先日、結婚したばかりで」
「まあ!」
女性は嬉しそうに笑う。
「いいわねえ、新婚さん! 私、水森っていうの。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「何か困ったことがあったら言ってね。この辺、長いから」
「ありがとうございます」
営業職の優真にとって、こういう会話は慣れたものだった。
しかし。
「それにしても」
水森が二人を交互に見る。
「綺麗な奥さんねえ」
「え」
優真の反応が、一瞬遅れた。
「ご主人、幸せね」
「えっと……」
横を見る。
澪も。
なぜか優真を見ていた。
「……はい」
結局。
そんな返事しかできなかった。
「……」
澪が視線を逸らす。
――綺麗というか。
優真としては。
どちらかというと。
可愛い、なんだけど。
そこまで考えて。
優真は止めた。
危ない。
また口に出るところだった。
「でも、旦那さんも優しそうじゃない」
今度は水森が澪を見る。
「そうですね」
澪が答える。
「……」
優真は澪を見る。
今。
即答した?
「それじゃ、仲良くね」
「はい。よろしくお願いします」
「失礼します」
二人で頭を下げ。
水森の家を離れた。
◇
廊下を歩きながら。
優真は小さく息を吐いた。
「……なんかすごかったね」
「何がですか?」
「普通に新婚夫婦として話されるの」
「夫婦ですから」
「まあ、そうなんだけど」
「何か問題がありましたか?」
「ないよ」
問題はない。
むしろ。
正しい。
「たださ」
「はい」
「俺たちって、自分たちで夫婦って言うこと、あんまりなかったじゃん」
「そうでしょうか」
「澪、俺のこと『夫』って言ったことある?」
「……」
澪が考える。
「ありませんね」
「でしょ?」
「優真さんも、私を『妻』と呼んだのは先ほどが初めてだと思います」
「あ」
言われて気づいた。
「そうかも」
「はい」
「……妻か」
「妻です」
「改めて言われるとすごいね」
「何がですか?」
「いや……」
優真は頭をかく。
「澪が俺の妻なんだなって」
「婚姻届を提出した時点からそうですが」
「分かってるって」
「?」
澪には。
この感覚は分からないらしい。
そう思った時。
「優真さん」
「ん?」
「先ほど」
「うん」
「私のことを『妻』と紹介しましたね」
「……うん」
「……」
「どうしたの?」
「いえ」
澪は少しだけ前を向いた。
「何でもありません」
「そう?」
「はい」
数歩歩く。
今度は優真が口を開いた。
「でも澪だってさ」
「はい?」
「俺のこと、優しそうな旦那さんって言われて否定しなかったよね」
「否定する理由がありません」
「……」
「?」
「いや」
優真は少し笑った。
「そっか」
「はい」
それだけ。
それだけなのに。
なんとなく。
少し嬉しかった。
◇
残りの家にも挨拶を済ませ。
二人は自宅へ戻った。
「これで終わりですね」
「お疲れさま」
「想定していたより時間がかかりました」
「まあ、話好きな人もいたからね」
「ですが」
澪が靴を脱ぎながら言う。
「挨拶しておいてよかったと思います」
「でしょ?」
「はい。近隣の方の顔と名前を把握できました」
「そこ?」
「重要だと思います」
「まあ、重要だけど」
優真も靴を脱ぐ。
そして。
ふと思う。
婚姻届の上では。
とっくに夫婦だった。
同じ名字になった。
同じ家にも住んでいる。
朝になれば。
二本の歯ブラシが並んでいる。
それでも。
誰かに。
『妻の澪です』
そう紹介するのは。
また少し違った。
澪が自分の妻で。
自分が澪の夫。
書類に書かれた関係が。
少しずつ。
日常の言葉に変わっていく。
「優真さん」
「ん?」
「コーヒーを淹れますが、飲みますか?」
「飲む」
「分かりました」
澪がリビングへ向かう。
その後ろを、優真もついていく。
二人はまだ。
夫婦という関係に。
少しずつ慣れている途中だった。




