第11話 会社を作る
近所への挨拶を終えた、その日の午後。
優真はリビングのソファに座り、ようやく一息ついていた。
「……疲れた」
営業の仕事なら、一日に何人もの取引先と話すことだってある。
それなのに。
『妻の澪です』
あの一言を口にしたせいなのか。
妙に疲れた気がする。
「優真さん」
「ん?」
「コーヒーです」
「ああ、ありがとう」
澪がテーブルにマグカップを置く。
二つ並べればハートになる、例のマグカップ。
優真がそれを手に取ると、澪はノートパソコンを持ってきて向かいに座った。
「では、会社設立について詰めましょう」
「……今から?」
「はい」
「近所の挨拶、終わったばっかりだけど」
「予定より早く終わりましたので、時間があります」
「切り替え早いね」
「時間は有限です」
「はい」
これが澪だった。
結婚して。
引っ越して。
新しい生活を始めて。
それでも、そもそもの始まりはこれだ。
会社を作る。
そのために、二人は組んだ。
「……よし」
優真はマグカップを置いた。
「やろうか」
「はい」
澪がノートパソコンを開いた。
◇
「まず、優真さんがやりたい事業について確認します」
「ソフトウェア開発」
「それでは広すぎます」
「ですよね」
「具体的には?」
優真は少し考えた。
起業したいと思い始めて三年。
ただ漠然と、社長になりたかったわけではない。
「俺さ。営業で中小企業を回ってると、結構見るんだよ」
「何をですか?」
「いまだに紙で管理してたり、Excelで無理やり全部やってたりする会社」
澪は黙って聞いている。
「別に、それが悪いわけじゃないんだ。それで回ってるならいい。でも、実際には困ってる会社も多くてさ」
在庫管理。
顧客管理。
見積書や発注書。
同じ数字を何度も入力したり、担当者がいないと何も分からなくなったり。
「システムを入れれば楽になるんじゃないですかって話をすると、高いって言われる」
「導入費用ですか?」
「うん。既製品だと自分たちの仕事に合わないって話も多い」
「専用のものを作るほどの予算もない」
「そういうこと」
優真は少し身を乗り出した。
「だから、そういう会社向けに必要なものだけ作れないかなって」
「必要なものだけ?」
「顧客管理だけ欲しいなら、それだけ。在庫管理だけなら、それだけ」
「余計な機能を付けない」
「うん」
ずっと考えていた。
「大企業向けの高いシステムじゃなくてさ。小さい会社が、本当に必要としてるものを作りたいんだ」
澪は少し考えてから頷いた。
「いいと思います」
「本当に?」
「はい」
即答だった。
「営業経験のある優真さんなら、顧客が何に困っているのかを聞き出せます」
「まあ、それは仕事だから」
「それが重要です。商品を押しつけるのではなく、困っていることを聞いて、それを解決するものを提供する」
「そう。そんな感じ」
「需要はあると思います」
「おお……」
その一言が、思った以上に嬉しかった。
三年間。
自分の頭の中にしかなかったものを、初めて誰かに真正面から認めてもらえた気がする。
しかも澪なら、駄目だと思えば普通に駄目と言うはずだ。
「ただし」
「……はい」
来た。
「一つ、大きな問題があります」
「何?」
澪は真顔で言った。
「誰が作るのですか?」
「……」
「……」
二人の間に沈黙が落ちた。
「……俺たち?」
「優真さんはプログラミングができますか?」
「……できません」
「私もできません」
「……会社作る前から終わった?」
「終わっていません」
「ソフトウェア会社なのに、ソフトウェア作れる人が一人もいないよ?」
「想定しています」
「想定してたの?」
「当然です」
澪が画面を切り替えた。
「最初は開発を外注します」
「外注?」
「はい。優真さんが顧客から要望を聞き、私が内容や予算を整理する。実際の開発は外部の会社やエンジニアへ依頼します」
「ああ……」
「完成までの進行も私が管理します」
優真は腕を組んだ。
「つまり、俺は仕事を取ってくればいい?」
「かなり簡単に言えば」
「それなら得意」
「知っています」
「……なんで?」
「何がですか?」
「俺が営業得意なの」
「三年間、同じ会社にいましたので」
「でも、俺と澪ってほとんど話したことなかったよね?」
「はい」
「俺のこと見てた?」
「営業成績は社内で共有されています」
「ああ」
そっちか。
なぜか少しだけ残念だった。
「どうしました?」
「いや、何でもない」
「?」
澪は不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。
◇
「ただし、ずっと外注するつもりはありません」
「なんで?」
「利益が少なくなるからです」
澪が簡単な数字を画面に出す。
「例えば百万円で受注して、外注に七十万円かかれば、残るのは三十万円です」
「そこから経費も出るよね?」
「はい」
「……俺、頑張ったら外注先を儲けさせる人にならない?」
「創業初期については、概ねその認識で問題ありません」
「問題あるよ」
澪の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……澪」
「はい?」
「今、笑った?」
「笑っていません」
「絶対笑ったよね?」
「話を戻します」
「はい」
誤魔化された。
「それに、外注だけでは私たちの会社に技術が残りません」
「ああ……それは困るな」
「ですから、事業が安定したらエンジニアを採用します」
「人を雇うのか」
「はい」
「俺たちが?」
「はい」
優真は思わず部屋を見回した。
まだ会社すらない。
事務所もない。
売上だってゼロ。
なのに、もう人を雇う話をしている。
「……そこまで行けるかな」
思わず口から出た。
澪が優真を見る。
「行くのではありません」
「え?」
「行ける会社にします」
「……」
迷いのない声だった。
「そのために会社を作るのでしょう?」
優真は澪を見つめる。
相変わらず。
すごいことを平然と言う。
「……そうだった」
「はい」
「俺一人だったら、絶対ここまで考えてなかったな」
「ですから」
澪が言う。
「二人で始めるのだと思います」
「……そうだね」
優真は笑った。
◇
「次に、役割です」
「もう決めるの?」
「決めておくべきです」
「はい」
「代表は優真さん」
「俺?」
「営業と顧客対応を考えれば、優真さんが適任です」
「澪でもいいんじゃない?」
「私は営業に向いていません」
「そこは自覚あるんだ」
「あります」
即答だった。
「私は経理、契約、請求、予算管理、外注先との調整、進行管理を担当します」
「……多くない?」
「最初は二人ですから」
「無理になったら言ってよ?」
「その場合は増員を検討します」
「ちゃんと考えてるんだ」
「当然です」
「じゃあ澪は?」
「取締役として経営に参加するのが適切だと思います」
「取締役……」
優真はその言葉を繰り返す。
「本当に二人の会社になるんだな」
「最初からそのつもりですが」
「そうなんだけどさ」
妻で。
同居人で。
今度は、共同経営者。
「忙しい関係だな、俺たち」
「最初からその契約です」
「そうでした」
◇
「では、会社名を決めましょう」
「会社名か……」
優真は腕を組む。
「格好いい方がいいよね」
「覚えやすさの方が重要です」
「英語とか」
「事業内容が分かりにくくなる可能性があります」
「じゃあ、テックとか」
「似た名前が多いです」
「澪、全部潰すじゃん」
「会社名ですから」
「澪も考えてよ」
「考えています」
少し間が空く。
「……Nexus」
「ネクサス?」
「結びつき、つながりという意味があります」
「つながり……」
優真は考える。
顧客と会社。
人と仕事。
今のやり方と、新しい仕組み。
「悪くないな」
「はい」
「でも、そのままだと普通だよね」
「そうですね」
「だったら……Nextは?」
「次、ですか?」
「うん」
優真はスマートフォンを手に取った。
「俺がやりたいのって、今のやり方を否定することじゃないんだ」
「はい」
「紙でもExcelでも、それでやってきた理由がある。でも、少し楽にできるなら、その会社が次に進めるようにしたい」
澪が静かに聞いている。
「NextとNexus」
「二つを合わせるのですか?」
「うん。例えば……」
優真が文字を打つ。
いくつか試して。
手が止まった。
「NEXIA」
「ネクシア?」
「うん」
口に出してみる。
「ネクシア」
悪くない。
「次へつなぐ」
優真が言った。
「俺たちの会社が、お客さんの仕事を次につなぐ」
澪は少し考えた。
「……いいと思います」
「本当に?」
「はい。事業の方向性とも合っています」
「じゃあ決まり?」
「使用できる名称かどうかなど、確認は必要です」
「そこは澪に任せます」
「丸投げしないでください」
「一緒にやります」
「なら問題ありません」
優真はメモに書いた。
――株式会社ネクシア。
「株式会社ネクシア……」
今まで。
頭の中にしかなかった会社。
名前すらなかった会社が。
初めて形を持った。
「代表取締役、神谷優真」
「まだ設立していません」
「分かってるって」
「気が早いです」
「取締役、神谷澪」
「その予定です」
優真は改めて文字を見る。
「夫婦で役員か」
「はい」
「やっぱり忙しい関係だな」
「先ほども聞きました」
「そうだった」
優真は笑った。
◇
澪がノートパソコンを閉じる。
テーブルの上には、二人分のマグカップ。
その横には。
株式会社ネクシア。
そう書かれた一枚のメモ。
「澪」
「はい?」
「本当に始まるんだね」
「会社ですか?」
「うん」
澪が小さく頷いた。
「はい」
あの日。
昼休みのカフェで。
会社をクビになったばかりの澪と。
起業したいと言いながら、三年間動けなかった優真が話をした。
『これは感情の提案ではありません』
『共同事業です』
あの時は。
結婚するという話だけで頭がいっぱいだった。
でも。
本当の意味での共同事業は、ここから始まる。
夫婦になった二人が。
今度は、二人で会社を作る。
名前は。
株式会社ネクシア。
――次へつなぐ。
三年間、立ち止まっていた優真が。
ようやく次へ進む。
そして。
その隣には、一緒に進んでくれる澪がいた。




