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第12話 営業という仕事

 株式会社ネクシアを設立して、一週間。


 会社はできた。


 名刺もできた。


 営業資料も用意した。


 銀行口座や必要な手続きも、澪が順番に片づけている。


 ただし。


 肝心の売上は、まだゼロだった。


「じゃあ、行こうか」


 玄関で靴を履きながら、優真が言った。


 澪はバッグの中身を確認する。


「営業資料、名刺、会社案内、ヒアリング用の資料。問題ありません」


「うん」


「訪問先は、以前から取引のあった会社ですね?」


「俺が営業担当してたところ。社長には独立したって連絡してあるよ」


「本日の目的は?」


「挨拶」


「……挨拶?」


 澪が顔を上げる。


「うん」


「営業ではないのですか?」


「営業だよ」


「では、提案内容は?」


「特に決めてない」


「……」


 澪が黙った。


「何?」


「いえ」


「絶対なんかあるでしょ」


「先方が何に困っているのか分からない状態で訪問するのですね」


「行って聞けばいいじゃん」


「……」


 また黙った。


「澪」


「はい」


「そんな不安そうな顔しなくても大丈夫だから」


「不安そうな顔はしていません」


「してるよ」


「していません」


「はいはい」


 優真がドアを開ける。


「とりあえず行こう」


「……はい」


 澪はまだ納得していないようだった。


◇


「おお、神谷!」


 訪問先の社長は、優真を見るなり大きな声を上げた。


「久しぶりだな!」


「ご無沙汰してます」


「聞いたぞ。会社辞めたんだって?」


「はい」


「それで会社作ったって?」


「作っちゃいました」


「お前が社長か!」


「一応」


「似合わねえな!」


「俺もそう思います」


「はははは!」


 社長が豪快に笑う。


 澪は優真の隣で静かに頭を下げた。


「初めまして。株式会社ネクシアの神谷澪と申します」


「神谷?」


 社長が二人を交互に見る。


「もしかして」


「妻です」


 優真が答える。


「あらまあ!」


「なんでちょっと嬉しそうなんですか」


「いや、お前が結婚するとは思わなかったからよ!」


「どういう意味です?」


「そのままの意味だ」


「ひどいな」


 また笑い声が響く。


「奥さん、こいつで大丈夫?」


「現時点では問題ありません」


「現時点!」


「澪、その言い方やめない?」


 社長がさらに笑った。


 澪は少し不思議そうにしている。


「まあ、座れ座れ」


「失礼します」


 三人で応接スペースに座る。


 優真は営業資料をバッグから出した。


 だが。


 テーブルには置かなかった。


「社長、最近ゴルフどうです?」


「聞いてくれよ!」


 そこから。


 ゴルフの話が始まった。


 先月行ったゴルフ場。


 途中まで調子が良かったのに、後半で崩れた話。


 新しく買ったクラブ。


 優真は笑いながら聞いている。


「それ、前も同じこと言ってませんでした?」


「今回は違う!」


「何が違うんです?」


「クラブが悪かった!」


「また道具のせいですか」


「道具は大事だろ!」


「奥さん、聞いてくれよ。こいつ昔から俺のゴルフを馬鹿にするんだ」


「馬鹿にはしてません。社長が毎回クラブのせいにするからです」


「同じだ!」


 二人が笑う。


 澪も小さく頭を下げた。


「そうなのですね」


 そして。


 時計を見る。


 十二分。


 まだ仕事の話をしていない。


「そういや、孫が今年から小学生でな」


「もう小学生ですか?」


「写真見るか?」


「見ます」


 スマートフォンが出てきた。


 澪は黙って二人を見る。


 さらに五分。


「可愛いですね」


「だろ?」


「社長に似なくてよかったですね」


「お前、本当に独立しても変わらねえな!」


「そこ変える必要あります?」


 また笑う。


 澪は思った。


 ――いつ営業を始めるのでしょうか。


 会社を設立して一週間。


 売上はゼロ。


 今日がネクシアとして初めての営業活動だ。


 なのに。


 ゴルフ。


 孫。


 最近できたラーメン屋。


 腰が痛いという話。


 本日の訪問目的と関係のない会話が、すでに二十分近く続いている。


 非効率。


 澪には、そうとしか思えなかった。


 やがて。


「そういや神谷」


「はい?」


「お前、何の会社作ったんだ?」


 社長の方から聞いた。


「ああ」


 優真が初めて営業資料をテーブルに置く。


「ソフトウェア関係です」


「ソフトウェア?」


「中小企業向けに、業務で使うシステムを作ろうと思ってます」


「へえ」


「まあ、今日は挨拶だけなんで」


「なんだよ。営業しに来たんじゃねえのか」


「社長、押し売り嫌いでしょ?」


「当たり前だ」


「だから売りません」


「ははは! お前らしいな」


 澪は黙って二人を見る。


 売らない。


 営業に来たのに?


「ただ」


 優真が続ける。


「なんか面倒なことがあったら言ってください」


「面倒なこと?」


「仕事してて、これ毎回やるの面倒だなとか。もう少し楽にならないかなってこと」


「……ああ」


 社長が少し考える。


「そういや、在庫だな」


「在庫?」


「現場と事務所で数字が合わねえんだよ」


 優真の表情が変わった。


 笑顔はそのまま。


 でも。


 聞き方が変わった。


「今、どうやって管理してるんです?」


「現場で紙に書いて、それを事務員が入力してる」


「何に?」


「Excel」


「入力するのは一人?」


「基本はな」


「その人が休んだら?」


「……ちょっと困る」


「現場で使った分って、その日のうちに反映されます?」


「忙しい時は翌日だな」


「じゃあ、その間に数字がずれる?」


「そうなんだよ」


 優真は売り込まない。


 ただ。


 聞いている。


「一番困るのは?」


「棚卸しだな。毎回合わねえ」


「なるほど」


 優真が頷く。


「じゃあ一回、現場見せてもらっていいです?」


「現場?」


「はい。今のやり方見ないと、何を作ればいいか分からないんで」


「作れるのか?」


「それを確認するために見せてほしいんです」


「金は?」


「まだ何も分からないのに見積もりなんか出せませんよ」


「そりゃそうか」


「必要ないなら、作らなくていいですし」


「……」


 社長が少し笑った。


「相変わらずだな、お前」


「何がです?」


「売る気あんのかないのか分からん」


「ありますよ」


「じゃあ売れよ」


「いらないもの売っても仕方ないでしょ」


「ははは!」


 社長は笑って。


「分かった。来週、現場見てくれ」


「いいんですか?」


「お前なら変なもん押しつけてこねえだろ」


「ありがとうございます」


「使えそうなら見積もり出してくれ」


「はい」


 澪は黙っていた。


 仕事が。


 取れた。


 正確には、まだ契約ではない。


 だが。


 具体的な案件につながった。


 優真は商品の説明をほとんどしていない。


 価格も言っていない。


 営業資料もほとんど見せていない。


 なのに。


「そうだ」


 社長が何かを思い出した。


「神谷、ちょっと待て」


「はい?」


「こういうの、山下んとこも困ってたぞ」


「山下社長?」


「知ってるか?」


「名前だけは」


「ちょっと待ってろ」


 社長がスマートフォンを取り出す。


「え?」


 そのまま電話をかけた。


「おう、山下? 俺だ」


 優真と澪が顔を見合わせる。


「前に言ってただろ。見積もり作るのが面倒だって話」


 澪が優真を見る。


 優真も少し驚いている。


「ちょうどいい奴がいるんだよ。前にうち担当してた神谷。独立して、そういう会社作ったらしい」


 少し間が空く。


「ああ。今ここにいる」


 社長が優真にスマートフォンを差し出した。


「ほら」


「え、俺?」


「当たり前だろ」


「……もしもし、お電話代わりました。神谷と申します」


 優真はそのまま話し始めた。


 数分後。


「はい。では、改めてご連絡します。ありがとうございます」


 電話を切る。


「来週、話聞いてくれるって」


「よかったじゃねえか」


「ありがとうございます」


「仕事になったら飯くらい奢れよ」


「契約取れたら考えます」


「そこは即答しろ!」


 また。


 笑い声が響いた。


◇


 会社を出て。


 二人は駅へ向かって歩いていた。


 優真が隣を見る。


 澪は。


 さっきから妙に静かだった。


「澪?」


「はい」


「どうしたの?」


「……分かりません」


「何が?」


 澪が足を止める。


「なぜ仕事につながったのですか?」


「え?」


「最初の二十分ほど、ほとんど雑談でした」


「うん」


「ゴルフの話をしていました」


「してたね」


「お孫さんの写真も見ていました」


「可愛かったね」


「そういうことではありません」


「はい」


「ラーメン屋の話もしていました」


「今度行ってみようよ」


「優真さん」


「ごめん」


 澪は少し考える。


「私は、非効率だと思っていました」


「まあ、効率は悪いかもね」


「営業資料もほとんど使っていません」


「うん」


「商品の説明もしていません」


「商品、まだないからね」


「価格も提示していません」


「何作るか決まってないのに値段出せないでしょ」


「ですが」


 澪が優真を見る。


「仕事につながりました」


「そうだね」


「さらに、別の会社まで紹介していただきました」


「ありがたいね」


「……なぜですか?」


 本気で分からないらしい。


 優真は少し考えた。


「信用してもらってるからじゃない?」


「信用」


「うん」


「何をですか?」


「俺を」


 優真は歩き出す。


 澪も隣を歩く。


「社長とは長い付き合いだからさ。俺が無理やり売らないのも知ってるし、できないことをできるって言わないのも知ってる」


「……」


「営業って、商品だけ売る仕事じゃないと思うんだ」


「では、何を売るのですか?」


「うーん」


 優真は少し考える。


「最初に信用してもらうのは、自分かな」


「自分……」


「この人なら話してもいい。この人なら相談しても大丈夫って思ってもらわないと、困ってることなんて話してくれないでしょ?」


 澪は何も言わなかった。


「だから雑談するし、仕事と関係ない話もする」


「ゴルフも?」


「ゴルフも」


「お孫さんも?」


「それは普通に見たかった」


「……」


「何?」


「いえ」


 少しだけ。


 澪の口元が緩んだ気がした。


「でもさ」


 優真が続ける。


「別に難しいことしてないよ」


「そうでしょうか」


「相手の話を聞いて、困ってたら一緒に考える。それだけ」


「……」


 澪は思い出していた。


 三年間。


 同じ会社にいた。


 優真の名前も知っていた。


 営業成績がいいことも知っていた。


 でも。


 どうして数字を残せるのか。


 考えたことはなかった。


 今日。


 初めて分かった気がする。


 優真は。


 商品を売る前に。


 自分を信用してもらっている。


 だから相手は。


 優真に困っていることを話す。


 そして。


 その信用が。


 次の人へまでつながっていく。


「優真さん」


「ん?」


「すごいですね」


「……え?」


 優真が止まった。


「営業です」


「……」


「どうしました?」


「いや」


 優真は少し照れたように笑った。


「澪に褒められると思ってなかった」


「事実を述べただけです」


「それでも嬉しいよ」


「……そうですか」


 澪は前を向く。


「はい」


 短い返事だった。


 優真も、それ以上は何も言わなかった。


 ただ。


 少しだけ。


 足取りが軽くなった。


 澪は数字でしか知らなかった。


 神谷優真という営業マンを。


 今日。


 初めて知った。

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