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第7話 二人のお金

 翌朝。


 優真が目を覚ましたのは、いつもより少し遅い時間だった。


「……眠い」


 結局、昨夜はすぐには眠れなかった。


 原因は分かっている。


 慣れない新居。


 初めての共同生活。


 そして――隣の部屋に澪がいるという状況。


「……考えるのやめよう」


 ベッドから起き上がり、部屋を出る。


 リビングへ向かうと、キッチンから物音が聞こえた。


「あ、おはようございます」


 澪だった。


「おはよう」


 細いフレームのメガネをかけ、髪も綺麗に整っている。


 昨日の夜とは違い、もういつもの澪に戻っていた。


「早いね」


「そうですか?」


「昨日、あんまり眠れなかったんでしょ?」


「優真さんよりは眠れたと思います」


「なんで分かるの?」


「顔です」


「そんなひどい?」


「少し」


「マジか……」


 優真は顔を擦った。


「コーヒー、飲みますか?」


「飲む」


「分かりました」


 澪がカップをもう一つ用意する。


 その姿を見ながら、優真はふと思う。


 妻がキッチンにいる。


 そして、自分のコーヒーを淹れてくれている。


 昨日より。


 さらに夫婦っぽい。


「どうぞ」


「ありがとう」


 カップを受け取る。


「……」


「何ですか?」


「いや。なんか新鮮だなと思って」


「コーヒーがですか?」


「そっちじゃない」


「?」


「何でもない」


 説明するのも恥ずかしい。


 優真はコーヒーを飲んだ。


「それで」


 澪がリビングの一角を見る。


「今日は、こちらを処分しましょう」


「処分って」


 そこには昨日選別した家電や家具がまとめられている。


「売りに行くんでしょ?」


「はい」


「じゃあ、売りに行くでよくない?」


「意味は同じでは?」


「なんか物に冷たいんだよなあ」


「?」


 やはり伝わらなかった。


◇


 午前中。


 二人は不要になった家電や家具をリサイクルショップへ持ち込んだ。


「結構ありますね」


 受付の店員が、持ち込まれた品を確認する。


「引っ越しで家電が被っちゃって」


 優真が答える。


「ああ、ご結婚ですか?」


「はい」


「おめでとうございます」


「ありがとうございます」


 反射的に答えてから。


 優真は隣を見る。


「ありがとうございます」


 澪も普通に頭を下げていた。


 夫婦。


 まだ慣れたとは言えない。


 それでも。


 昨日よりは少しだけ、その言葉を自然に受け止められるようになった気がする。


「では、査定に少々お時間をいただきます」


「お願いします」


 受付を済ませ、二人は店内を見て回ることにした。


 家具。


 家電。


 食器。


 雑貨。


 優真は特に目的もなく眺めていたが。


「……あれ?」


 隣にいたはずの澪がいない。


「澪?」


 振り返る。


 少し離れたところで。


 澪は電子レンジを見ていた。


「何してるの?」


「価格を確認しています」


「買うの?」


「いいえ」


「じゃあなんで?」


「先ほど売却したものと同型の商品がありましたので」


「……」


 優真は展示されている電子レンジを見る。


「もしかして、査定額と比べるつもり?」


「参考にはなると思います」


「査定待ちの間にそこまでやる?」


「時間を有効活用しているだけです」


「さすがだな……」


 仕事だけではない。


 この人はたぶん。


 日常生活でもずっとこうなのだ。


◇


「お待たせいたしました」


 店内放送で呼ばれ、二人は受付へ戻った。


「査定結果ですが、すべて合わせまして一万八千円になります」


「おお」


 優真は素直に驚いた。


「思ったより高いですね」


「状態がいいものが多かったので」


「じゃあ、それで――」


「すみません」


 澪が口を開いた。


 優真は嫌な予感がした。


「内訳を確認してもよろしいでしょうか」


「はい。もちろんです」


 店員が査定表を見せる。


 澪は一つずつ確認していく。


「冷蔵庫はこちらの金額なのですね」


「はい。年式と容量、それから現在の在庫状況を考慮しています」


「分かりました」


 次。


「炊飯器は?」


「こちらは使用年数が少し長いので、この金額になります」


「なるほど」


 そして。


 澪の指が止まった。


「この電子レンジですが」


「はい」


「同型の商品が、店内で一万二千八百円で販売されていました」


「……」


 優真は黙って横を見る。


 やっぱり。


「今回の査定額は二千円ですが、状態を考えると少し低いように思います」


 店員が苦笑する。


「販売価格には清掃や動作確認、それから保証なども含まれていますので」


「はい。それは理解しています」


 澪はあくまで穏やかだった。


「ただ、こちらは使用期間も短く、付属品もすべて揃っています。二千円という査定になった理由を教えていただけますか?」


「少々確認してまいります」


「お願いします」


 店員が奥へ向かう。


「……澪」


「はい?」


「すごいね」


「何がですか?」


「俺なら一万八千円って言われた時点で、普通に売ってた」


「そうなのですか?」


「たぶん、ほとんどの人がそうじゃない?」


「ですが、疑問があれば確認した方がいいと思います」


「間違ってはいないけど」


 優真は苦笑する。


「店の中の値段まで確認してるとは思わなかった」


「待ち時間がありましたので」


「抜け目ないなあ」


「褒めていますか?」


「今回は完全に褒めてる」


「ありがとうございます」


 少しだけ。


 澪が嬉しそうに見えた。


 やがて店員が戻ってくる。


「お待たせいたしました。確認したところ、電子レンジについては状態もいいので、査定額を上げることができます」


「いくらになりますか?」


「全体で二万円でいかがでしょうか」


「二千円上がった」


 優真が思わず声を漏らす。


 澪は少し考えてから頷いた。


「分かりました。お願いします」


 手続きが始まる。


 優真は隣の澪を見る。


「澪」


「はい?」


「会社始めたら、こういう交渉全部任せていい?」


「内容によります」


「そこは任せてくださいって言ってよ」


「私に適性がない分野であれば、優真さんが担当した方が効率的です」


「やっぱりそうなるか」


「当然です」


 でも。


 頼もしい。


 同じ会社にいた頃。


 澪が優秀な秘書だという話は聞いたことがあった。


 だが。


 実際にこうして一緒に動いてみると、よく分かる。


 疑問をそのままにしない。


 必要な情報を確認する。


 相手の説明を聞いた上で、納得できるところまで詰める。


 感情的に値切ったわけではない。


 ただ。


 根拠を確認しただけ。


 自分一人なら。


 間違いなく一万八千円で終わっていた。


 ――この人となら。


 本当に会社を始められるかもしれない。


 ふと。


 そんなことを思った。


◇


 店を出たあと。


 優真は受け取った二万円を見る。


「さて」


「はい」


「これ、どうしようか」


「どうする、とは?」


「俺の物も澪の物も売ったでしょ?」


「はい」


「半分ずつにする?」


 単純に一万円ずつ。


 それが一番分かりやすいと思った。


 しかし。


 澪は少し考えた。


「いえ」


「違う?」


「このまま二人のお金として管理するのはどうでしょうか」


「二人のお金?」


「はい」


 澪が説明する。


「今回売却したものは、それぞれが一人暮らしをしていた時に使用していたものです」


「うん」


「それらを処分したのは、共同生活を始めたことで不要になったからです」


「まあ、そうだね」


「でしたら、売却代金も今後の共同生活に必要なものへ使うのが自然だと思います」


「なるほど」


 優真は手元の二万円を見る。


「共有のお金にするってことか」


「はい」


「契約書にはなかったよね?」


「ありません」


「じゃあ、追加する?」


「必要であれば――」


「いや、冗談」


「……そうですか」


「本当に書きそうだな、澪は」


「金銭に関する取り決めは重要です」


「それは分かるけど」


 優真は笑った。


 そして。


 もう一度、二万円を見る。


「でも、なんかいいね」


「何がですか?」


「二人のお金って」


「……」


 澪が優真を見る。


「俺のでもなくて、澪のでもなくて」


 二人がそれぞれ持っていたものを売って。


 二人の生活のために使う。


「ちょっと夫婦っぽくない?」


「……そうですね」


 澪が小さく頷いた。


「そうかもしれません」


「じゃあ決まり」


「はい」


「何買おうか?」


「まず必要なものをリストアップします」


「やっぱり?」


「当然です」


「そこは『何にしようかな』とかないの?」


「必要性の高いものから購入すべきです」


「ですよね」


 優真は笑った。


「そういえば、食器も足りなかったよね」


「はい」


「じゃあ、今から見に行く?」


「今からですか?」


「まだ時間あるし。どうせ必要なんでしょ?」


 澪は少し考える。


「そうですね」


「じゃあ決まり」


「はい」


◇


 その日の午後。


 二人は生活雑貨を扱う店の食器売り場にいた。


「皿はこれでいいんじゃない?」


 優真が白い皿を手に取る。


 余計な柄のない、シンプルなものだ。


 澪が確認する。


「大きさも十分ですね。料理も選びませんし、来客時にも使用できます」


「澪と買い物すると、食器選びまで備品選定みたいになるね」


「長く使用するものですから、当然です」


「もうちょっと、可愛いとかないの?」


「食器に可愛さは必要ですか?」


「……澪は可愛いのにね」


「……」


「……」


 言ってから。


 優真自身が止まった。


 何を言ってるんだ、俺は。


 澪も。


 完全に止まっていた。


「……優真さん」


「ごめん。今の忘れて」


「……はい」


「即答で忘れられると、それはそれで傷つくな」


「では、覚えておきます」


「それも恥ずかしい!」


「どちらですか?」


「俺にも分からない!」


 澪は少しだけ首をかしげる。


 だが。


 その耳が。


 わずかに赤くなっていた。


「……」


 優真は気づいた。


 でも。


 今度は言わなかった。


 言えば絶対に否定する。


 それに。


 自分もたぶん、人のことを言える顔をしていない。


「次、マグカップ見ようか」


「はい」


 二人で移動する。


◇


 マグカップ売り場。


「今使ってるの、そのままでよくない?」


「来客用は必要だと思います」


「じゃあ二つくらい買う?」


「そうですね」


 棚には様々なマグカップが並んでいる。


 シンプルなもの。


 柄の入ったもの。


 キャラクターもの。


 ペアで販売されているもの。


「これとか?」


 優真が何気なく二つのマグカップを手に取った。


 一つは白を基調にしたもの。


 もう一つも似たデザインだが、少しだけ色合いが違う。


「……変な形だね」


「そうですね」


 カップの片側が少し変わった形をしている。


「なんだこれ」


 優真が二つを並べてみる。


「……」


「……」


 二つのカップがぴたりと合わさった。


 正面から見ると。


 大きなハートになる。


「……」


 優真は無言で離した。


「戻そうか」


「そうですね」


 二人同時に棚へ戻そうとする。


 その時。


「そちら、人気ですよ」


「え?」


 近くにいた店員が笑顔で声をかけてきた。


「ペアマグなんです。二つ並べるとハートになるので、新婚のご夫婦にも人気で」


「……」


「……」


 新婚のご夫婦。


 間違ってはいない。


 むしろ。


 完全に自分たちだ。


「いや、俺たちは普通ので――」


「こちらにしましょう」


「え?」


 優真は澪を見る。


 澪はハートのマグカップを見ている。


「本当に?」


「はい」


「これだよ?」


「見ています」


「並べるとハートになるやつだよ?」


「商品の仕様は理解しています」


「澪、平気なの?」


「何がですか?」


「いや……夫婦でこれ使うの」


「実用品です」


「それはそうだけど」


「二つ必要ですし、価格も予算内です」


「そこじゃないんだよなあ……」


「問題ありません」


 澪は二つのマグカップを買い物かごへ入れた。


「……」


「何ですか?」


「いや」


 優真は澪の横顔を見る。


 そして。


 やっぱり気づいてしまった。


「澪」


「はい?」


「耳、赤いよ」


「……」


 澪の動きが止まった。


「赤くありません」


「赤いって」


「照明です」


「便利だな、その照明」


「……次に行きます」


「あ、逃げた」


「逃げていません」


 澪は歩き出した。


 少しだけ。


 いつもより速足で。


「待ってって」


 優真は笑いながら、その後を追った。


◇


 その日の夕方。


 二人は新しく買った食器を洗い、キッチンの棚へ並べた。


 白い皿。


 茶碗。


 小鉢。


 そして。


 二つのマグカップ。


「コーヒー飲む?」


「いただきます」


 優真が淹れる。


「はい」


「ありがとうございます」


 二人でリビングのテーブルにつく。


 優真が自分のマグカップを置く。


 澪も隣に置いた。


「……」


「……」


 ぴたり。


 二つが並ぶ。


 ハート。


「……」


 店で見た時より。


 家で見る方が恥ずかしい。


 優真が自分のマグカップを少し離した。


 すると。


 澪も。


 何も言わずに自分のマグカップを少し離した。


「……」


「……」


 優真は澪を見る。


「何ですか?」


「なんで離したの?」


「飲みにくいので」


「まだ飲んでないよね?」


「……」


「澪?」


「コーヒーが冷めます」


「誤魔化したな」


「誤魔化していません」


「じゃあ、戻す?」


「必要ありません」


「即答だね」


「飲むためのものですから」


「店では問題ないって言ってたのに」


「……」


「澪?」


「優真さん」


「はい」


「コーヒーを飲んでください」


「分かりました」


 優真は笑いながらマグカップを持ち上げる。


 澪も自分のマグカップを持った。


 二人で飲む。


「……美味しいね」


「はい」


 それだけ。


 いつもと同じコーヒー。


 特別高い豆でもない。


 淹れ方だって変わっていない。


 変わったのは。


 カップだけ。


 優真は自分の手元を見る。


 今日。


 二人のものを売って。


 二人のお金ができた。


 そのお金で。


 二人で選んだ食器を買った。


 そして今。


 同じ家で使っている。


「……」


「どうしました?」


「いや」


 優真は笑う。


「なんか本当に、夫婦みたいだなと思って」


「夫婦です」


「そうだった」


「忘れないでください」


「澪にだけは言われたくないな。昨日、他人って言ってたし」


「……感覚の話です」


「はいはい」


 澪が少しだけ不満そうな顔をする。


 その顔も。


 会社にいた頃には知らなかった。


 まだ。


 始まったばかりだ。


 恋人ではない。


 好きだと伝えたわけでもない。


 そもそも。


 恋愛感情は不要という条件で始めた結婚だった。


 それでも。


 昨日より今日。


 今日より明日。


 少しずつ。


 二人の生活が形になっていく。


 テーブルの上には。


 二つのマグカップ。


 今はまだ。


 少し離れて置かれていた。

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