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第6話 初めての夜

 引っ越し当日の夜。


 優真と澪は、段ボールの残るリビングでピザを食べ終えた。


「ごちそうさまでした」


「ごちそうさま」


 空になった箱を優真がまとめる。


 澪はテーブル代わりに使っていた段ボールの上を片付け始めた。


「残りは明日でいいよね?」


「そうですね」


 澪が部屋を見回す。


 まだ開けていない段ボールはいくつもある。


「生活に必要なものは出せましたので、問題ありません」


「じゃあ今日は終わり」


「はい」


 優真は大きく伸びをした。


「疲れた……」


「私もです」


「澪でも疲れるんだ」


「当然です」


「今日それ二回目だね」


「優真さんが私を何だと思っているのか、少し気になってきました」


「仕事ができる人」


「それはありがとうございます」


「あと、何でも合理性で決める人」


「間違っていません」


 そこは否定しないらしい。


 優真は笑いながら立ち上がった。


「じゃあ、先にシャワー使っていいよ」


「よろしいのですか?」


「うん。俺はもうちょっと休んでる」


「分かりました」


 澪が自分の部屋へ向かう。


 少しして、着替えを持って出てきた。


「では、お先にお借りします」


「どうぞ」


 洗面所の扉が閉まる。


「……」


 優真はスマートフォンを手に取った。


 特に見るものもないのに、画面を眺める。


 やがて。


 シャワーの音が聞こえてきた。


「……」


 優真の指が止まった。


 いや。


 普通だ。


 一緒に住むのだから。


 風呂にも入る。


 当たり前だ。


「……何意識してんだ、俺」


 誰もいないリビングで呟く。


 昨日までは。


 澪がどこで風呂に入って、どこで寝ているのかなんて考えたこともなかった。


 それが今日から。


 同じ風呂を使って。


 同じキッチンを使って。


 同じ家で眠る。


 妻だから。


 契約上は。


「……」


 また余計なことを考えそうになり、優真は無理やりスマートフォンへ視線を戻した。


◇


「お先にいただきました」


「ああ」


 しばらくして。


 澪がリビングへ戻ってきた。


「……」


 優真は思わず見た。


 メガネを外している。


 ボブの髪は乾かしたばかりなのか、いつもより少しだけふわっとしていた。


 服も仕事着ではない。


 ゆったりとした部屋着。


 ただそれだけ。


 ただそれだけなのに。


「優真さん?」


「あ、いや」


「どうしました?」


「何でもない」


「そうですか?」


「うん」


 やっぱり。


 メガネを外すと印象が変わる。


 会社で見かけていた澪は、仕事のできる秘書という印象が強かった。


 細いフレームのメガネも、その雰囲気によく合っていた。


 でも。


 こうして家で見ると。


 ずっと年相応に見える。


 というより。


 普通に可愛い。


 いや。


 普通どころではなく。


 完全に自分の好みだ。


「……」


「優真さん?」


「はい」


「今度は何ですか?」


「何でもありません」


「そうですか」


 危ない。


 何を見ているんだ。


 妻だけど。


 いや。


 妻だから余計にまずい。


「シャワー、空きましたよ」


「じゃあ入ってくる」


「はい」


 優真は逃げるように立ち上がった。


◇


 シャワーを終えてリビングへ戻ると、澪はもういなかった。


 六畳の洋室。


 澪の部屋のドアが閉まっている。


 優真も自分の部屋へ入った。


 ベッドに腰を下ろす。


「……」


 静かだった。


 今日届いたばかりのベッド。


 まだ自分の部屋という感じがしない。


 スマートフォンを充電器につなぎ、照明を消す。


 横になる。


「……寝るか」


 目を閉じる。


 疲れている。


 今日は朝から引っ越しだった。


 すぐ眠れるはずだった。


「……」


 眠れない。


 優真は目を開けた。


 暗い天井を見る。


 理由は。


 なんとなく分かっている。


 隣の部屋。


 壁一枚向こうに。


 澪がいる。


「……」


 別室だ。


 見えない。


 触れるわけでもない。


 何も起きるはずがない。


 そもそも。


 そのために寝室を分けた。


 なのに。


 妻が隣の部屋で寝ている。


 その事実だけが、妙に頭から離れない。


 しかも。


 さっき見た姿まで浮かんでくる。


 メガネを外して。


 部屋着で。


 少しふわっとした髪。


「……やめよう」


 優真は寝返りを打った。


 反対を向く。


 すると。


 小さな音が聞こえた。


 隣の部屋からだ。


 何かを置いたような音。


「……」


 まだ起きてるのか。


 それだけ。


 それだけなのに。


 意識してしまう。


 そして。


 最悪なことに。


 もう一つ思い出した。


『双方の合意がない限り、求めないものとします』


「……」


 なぜ今それを思い出す。


『双方が望むのであれば……その……問題ないのではないでしょうか』


「いやいや」


 優真は布団を頭までかぶった。


 何を考えてるんだ。


 今日は引っ越し初日だ。


 澪は隣の部屋で普通に寝ようとしているだけ。


 そもそも恋愛感情はない。


 結婚だって契約だ。


 なのに。


 ――双方が望めば。


「……寝よう」


 強引に目を閉じる。


 だが。


 しばらく経っても眠れなかった。


◇


 どのくらい経ったのか。


 優真は諦めて身体を起こした。


「水でも飲むか……」


 部屋を出る。


 その瞬間。


 隣のドアも開いた。


「……」


「……」


 優真と澪が同時に止まった。


「澪?」


「優真さん?」


 二人とも。


 寝る前とほとんど変わらない姿だった。


「どうしたの?」


「水を飲もうと思いまして」


「……俺も」


「そうですか」


「うん」


「……」


「……」


 二人でキッチンへ向かう。


 澪がグラスを二つ出した。


「どうぞ」


「ありがとう」


 水を注ぐ。


 二人並んで飲む。


「……」


「……」


 なんだこれ。


 優真は横を見る。


 澪は静かに水を飲んでいる。


「澪」


「はい?」


「もしかして、眠れない?」


「……」


 一瞬。


 間があった。


「環境が変わりましたので」


「それ、眠れないってことでいい?」


「……少しだけ」


「そっか」


「優真さんもですか?」


「まあね」


「環境が変わったからですか?」


「……」


 今度は優真が黙る番だった。


「優真さん?」


「それもある」


「それも?」


「そこ掘らなくていいから」


「そうですか?」


「うん」


 言えるわけがない。


 壁一枚向こうに澪がいると思ったら落ち着かなかった。


 そんなこと。


 まして。


 風呂上がりの姿を思い出していたなんて。


 絶対に言えない。


「……でも」


 澪が小さく呟いた。


「何?」


「少し安心しました」


「何が?」


「私だけではなかったので」


 優真が澪を見る。


「澪も緊張してたんだ?」


「……多少は」


「へえ」


「何ですか?」


「いや。澪は平気なのかと思ってた」


「そんなわけありません」


 少しだけ不満そうな顔。


「昨日まで一人で暮らしていたのに、今日から他人と同じ家で生活するのですから」


「夫だけどね」


「……」


 澪が止まった。


「あ」


 優真も気づいた。


 他人。


 確かに。


 昨日までなら、それでよかった。


 でも今は。


「そうでした」


「忘れないでよ」


「忘れてはいません」


「今、他人って言ったじゃん」


「感覚の話です」


「まあ、分かるけど」


 澪がグラスに残った水を飲む。


「まだ実感がないだけです」


「結婚したって?」


「はい」


 澪が少し考える。


「優真さんはありますか?」


「俺?」


「はい」


「……どうだろう」


 婚姻届を出した時。


 少し。


 新居を決めた時。


 もう少し。


 そして今日。


 同じ家に荷物を運んで。


 一緒にピザを食べて。


 今。


 夜中に二人で水を飲んでいる。


「少しずつかな」


「少しずつ?」


「うん」


 優真は笑った。


「こういうのが増えたら、そのうち実感するんじゃない?」


「こういうの、ですか」


「一緒に飯食ったり、家事したり。夜中に二人で水飲んだり」


「なるほど」


「まあ、最後のは別にいらないけど」


「そうですね」


 二人とも少し笑った。


 さっきまでの妙な緊張が。


 少しだけ消えた気がした。


「じゃあ、そろそろ寝ようか」


「はい」


 二人でそれぞれの部屋へ戻る。


「おやすみ、澪」


「……」


 澪が少しだけ止まった。


 やっぱり。


 まだ呼び捨てには慣れていないらしい。


「おやすみなさい、優真さん」


 澪が部屋へ入る。


 優真も自分の部屋へ戻った。


 ドアを閉める。


 ベッドへ横になる。


「……」


 壁一枚向こうには。


 澪がいる。


 それはさっきと何も変わっていない。


 なのに。


 今度は少しだけ落ち着いた。


 澪も同じように眠れなかった。


 ただそれだけのことが。


 妙に嬉しかった。


「……寝るか」


 優真は目を閉じた。


 結局。


 初めての夜には、何も起きなかった。


 寝室は別。


 触れてもいない。


 契約通り。


 何一つ問題はない。


 ただ。


 眠る直前。


 優真の頭に最後に浮かんだのは。


 風呂上がりにメガネを外していた、澪の顔だった。

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