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第5話 引っ越し

 新居の鍵を受け取った週末。


 優真は、まだ何もないリビングの真ん中に立っていた。


「……広いな」


 内見の時にも見ている。


 それでも、家具のない部屋はあの時より広く感じた。


 ここで。


 今日から澪と暮らす。


 そう考えると、ただの空っぽの部屋が急に違って見える。


「神谷さん、こちらでよろしいですか?」


「あ、はい。お願いします」


 引っ越し業者の声に、優真は我に返った。


 自分の荷物はそれほど多くない。


 ベッド。


 衣類。


 仕事関係の書類。


 生活用品。


 家具や家電も一人暮らしに必要な程度だ。


「その段ボールはこっちの部屋でお願いします」


「分かりました」


 七畳の洋室。


 ここが優真の部屋になる。


 荷物が運び込まれていくと、少しずつ自分の部屋らしくなっていく。


 そして。


 インターホンが鳴った。


「来たか」


 玄関を開ける。


「おはようございます、優真さん」


「おはよう、澪」


「……」


「何?」


「いえ」


「まだ慣れない?」


「……少しだけ」


「自分で呼び捨てにしてって言ったんだからね?」


「分かっています」


 澪はそう答えてから、少しだけ視線を逸らした。


 その後ろ。


 引っ越し業者が荷物を運んでくる。


 一箱。


 二箱。


 三箱。


 四箱。


「……」


 まだ来る。


 五箱。


 六箱。


 七箱。


「……澪」


「はい?」


「多くない?」


「何がですか?」


「荷物」


 澪が段ボールを見る。


「必要な量だと思います」


「これで?」


「はい」


 さらに運び込まれる。


「本当に?」


「不要なものは処分してきました」


「これで!?」


 澪が少し不満そうに優真を見る。


「優真さんの荷物が少ないのでは?」


「俺?」


 言われてみれば。


 リビングの一角に積まれている自分の段ボールは、澪の半分程度しかない。


「……そうなのかな」


「比較対象がありませんので分かりません」


「俺もないよ」


 結局。


 二人とも初めての引っ越しだった。


◇


「こちらは六畳の部屋へお願いします」


 澪が業者に指示する。


 段ボールには、一つずつ中身が書かれていた。


 衣類。


 書籍。


 仕事関係。


 生活用品。


 キッチン用品。


 しかも。


 それぞれに番号まで振られている。


「……澪」


「はい?」


「この番号、何?」


「開封順です」


「開封順?」


「優先順位の高いものから番号を振っています」


「引っ越しの段ボールに?」


「はい」


「そこまでやる?」


「どこに何があるか分からなくなる方が非効率です」


「……なるほど」


 確かに。


 優真の段ボールには『服』『本』『その他』くらいしか書いていない。


 その他。


 何を入れたか。


 もう覚えていない。


「……俺のもやればよかった」


「今から一覧を作りますか?」


「いや、そこまではいいかな」


「そうですか」


 澪はすぐに自分の荷物へ戻った。


 仕事だけではない。


 こういうところも徹底している。


 ただ。


 優真は一つの段ボールを見る。


『キッチン用品①』


 その隣。


『キッチン用品②』


 さらに。


『調理器具』


「……」


 やっぱり多くない?


◇


 昼過ぎ。


 すべての荷物が運び込まれた。


「ありがとうございました」


 玄関で業者を見送り、ドアを閉める。


 静かになった。


「……」


「……」


 優真と澪が同時にリビングを見る。


 段ボールだらけだった。


「すごいね」


「想定の範囲内です」


「本当に?」


「はい」


「歩く場所、ほとんどないけど」


「片付ければ問題ありません」


「まあ、そうだけど」


 優真は腕をまくった。


「じゃあ、やりますか」


「はい」


 二人で段ボールを開けていく。


 優真は自分の荷物。


 澪は自分の荷物。


 最初はそれぞれ別々だった。


 だが。


 キッチン周りを始めたところで、問題が起きた。


「優真さん」


「ん?」


「これは何ですか?」


 澪が指差している。


「炊飯器だけど」


「それは分かります」


「じゃあ何?」


「私も持っています」


「……あ」


 二人で見る。


 キッチンに。


 炊飯器が二つ。


「まあ……そうなるよね」


「想定していませんでした」


「そこは想定してないんだ?」


「……」


 澪が少しだけ眉を寄せる。


「盲点でした」


「前にも聞いたな、それ」


「何の話ですか?」


「名字が同じになった時」


「……そうでしたね」


「澪でも見落とすことあるんだね」


「あります」


「ちょっと安心した」


「なぜですか?」


「完璧すぎると一緒に暮らしにくいから」


「……」


 澪が優真を見る。


「褒めていますか?」


「たぶん」


「そうですか」


 澪の口元が、ほんの少し緩んだ。


「でも、炊飯器くらいなら一つ処分すれば――」


 優真が言いかける。


「……あ」


「どうしました?」


「電子レンジ」


「……」


 電子レンジも二つ。


「冷蔵庫も」


「……」


 二つ。


「掃除機」


「あります」


「俺も」


「……」


「電気ケトル」


「あります」


「俺も」


「……」


 二人で黙る。


「めちゃくちゃ被ってるね」


「そのようですね」


「そりゃそうか。一人暮らし同士だもんな」


「はい」


 澪が腕を組んだ。


 そして。


 完全に仕事の顔になった。


「選定しましょう」


「……はい?」


「使用年数、性能、容量、消費電力、状態を比較して、残すものを決めます」


「会社の備品整理みたいに言わないで」


「判断基準は同じです」


「家庭なんだけど」


「合理的な方を残すだけです」


「はいはい」


◇


 そこから。


 家電選定会議が始まった。


「冷蔵庫は俺の、まだ二年くらいだよ」


「私のものは一年四か月です」


「……負けた」


「勝敗ではありません」


「でも澪の方が新しいんでしょ?」


「容量は?」


「二百七十リットル」


「私の方が大きいです」


「完敗だ」


「ですから勝敗ではありません」


 冷蔵庫。


 澪。


「電子レンジは?」


「俺のはオーブン付き」


「私のものにはありません」


「よし」


「なぜ嬉しそうなのですか?」


「一個くらい勝ちたいじゃん」


「勝負ではありません」


 電子レンジ。


 優真。


「炊飯器は?」


「三合です」


「俺も」


「使用年数は?」


「……四年」


「二年です」


「澪」


「はい」


「ちょっと手加減して」


「何の話ですか?」


 炊飯器。


 澪。


 そんなやり取りを繰り返し。


 残すものと、不要になるものが決まっていった。


「結構あるね」


 リビングの一角。


 不要になった家電や家具がまとめられている。


「廃棄しますか?」


「いや」


 優真は考える。


「まだ使えるし、売ればいいんじゃない?」


「売る?」


「リサイクルショップ」


「……なるほど」


 澪が不要品を見る。


「処分費用もかからず、売却益も得られますね」


「そういうこと」


「合理的です」


「澪に認めてもらえた」


「何ですか、それは」


 少しだけ。


 澪が笑った。


◇


 夕方。


 片付けは、まだ完全には終わっていなかった。


 それでも。


 リビングには二人が座れる場所ができた。


「今日はこのくらいにしない?」


 優真が床に座り込む。


「そうですね」


 澪も向かいに座った。


 メガネを外す。


「……」


 優真は一瞬、言葉を失った。


 やっぱり。


 ずるい。


 仕事中の澪は、細いフレームのメガネと落ち着いた服装のせいで、どちらかといえば綺麗な印象が強い。


 でも。


 メガネを外すと。


 完全に可愛い方へ寄る。


「優真さん?」


「あ、いや」


「何ですか?」


「何でもない」


「そうですか?」


 澪は目元を軽く押さえた。


「少し疲れました」


「そりゃ疲れるよ」


「夕食はどうしますか?」


「……」


 その言葉に。


 優真は少しだけ止まった。


「優真さん?」


「いや」


 何でもない質問だ。


 夕食をどうするか。


 それだけ。


 なのに。


 妙に響いた。


 今日から。


 これが日常になる。


 朝になれば澪がいる。


 帰ってくれば澪がいる。


 夕食をどうするかを相談して。


 それぞれの部屋で眠る。


 本当に。


 一緒に暮らすのだ。


「今日は作るの面倒だし、何か頼まない?」


「賛成です」


「ピザとか?」


「栄養バランスが――」


「今日くらいいいでしょ」


「……」


 澪が段ボールだらけの部屋を見る。


「そうですね」


「お」


「今日だけです」


「はいはい」


「明日以降は――」


「明日の話は明日しよう」


「……分かりました」


 優真はスマートフォンを取り出した。


「何食べたい?」


「優真さんに合わせます」


「それ、一番困るやつ」


「では……」


 澪が少し考える。


「マルゲリータ」


「ちゃんと希望あるじゃん」


「聞かれましたので」


「じゃあ、それにしよう」


「はい」


 何でもない会話。


 何でもない夕食。


 だけど。


 それが。


 二人にとって最初の、家での食事になる。


 まだ他人に近い。


 恋人でもない。


 恋愛感情もない。


 それでも。


 同じ家に帰り。


 同じ場所で飯を食べる。


 少しずつ。


 書類だけだった夫婦という関係に、生活が追いつき始めていた。

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