第4話 新居探し
婚姻届を提出した翌日。
優真と澪は、不動産会社の応接スペースに並んで座っていた。
「ご希望の条件ですが」
営業担当の男性がパソコンの画面を確認する。
「駅から徒歩十分以内。2LDK以上。インターネット環境が整っていて、お二人ともご自宅で仕事をされる可能性がある、と」
「はい」
澪が答える。
「できれば収納も多い方がいいです。会社関係の書類を自宅で保管する可能性がありますので」
「なるほど。でしたら、一部屋を書斎として使われるご予定ですか?」
「いえ」
澪は即答した。
「二部屋とも寝室として使用します」
「……はい?」
営業担当が一瞬だけ止まった。
優真は隣を見る。
澪はいつもの細いフレームのメガネをかけ、何もおかしなことは言っていないという顔をしている。
「俺たち、それぞれ自分の部屋が欲しくて」
優真が慌てて補足する。
「ああ、なるほど」
営業担当が笑顔を取り戻す。
「最近はご夫婦でも、それぞれのお部屋を持たれる方はいらっしゃいますからね」
「はい。互いの生活時間が異なる可能性もありますので、寝室を分けた方が合理的です」
「澪さん」
「はい?」
「そこまで説明しなくても大丈夫だから」
「そうですか?」
「うん」
営業担当が少しだけ笑っている。
恥ずかしい。
「ただ、お仕事もご自宅でされるのでしたら、3LDKも候補に入れてはいかがでしょう?」
「3LDK……」
澪が考える。
「予算との差額は?」
営業担当がいくつか物件を検索する。
「この辺りですと、条件にもよりますが月に二万円から三万円ほど上がりますね」
「でしたら不要です」
「早いね」
「会社設立直後に固定費を増やす理由がありません」
「まあ、それはそうだけど」
「仕事用のデスクはリビングに二台設置できます」
「もう配置まで考えてるの?」
「当然です」
澪が鞄からタブレットを取り出した。
「昨日、候補物件の間取りから家具配置を仮定しておきました」
「……いつやったの?」
「昨夜です」
「婚姻届を出した日の夜に、新居の家具配置考えてたの?」
「必要でしたので」
「そっか……」
新婚初日の夜に妻がやっていたこと。
新居の家具配置シミュレーション。
なんとも自分たちらしい。
「では、こちらはいかがでしょう」
営業担当が一つの物件を表示する。
駅から徒歩八分。
2LDK。
築年数も浅い。
リビングは広めで、それぞれ六畳ほどの洋室が二つある。
澪が間取り図を確認する。
「収納が少ないですね」
「こちらのリビング収納も使えます」
「会社関係と生活用品は分けたいです」
「仕事基準だね……」
「重要です」
次の物件。
「こちらは?」
「キッチンから洗面所への動線が悪いです」
「そこまで見る?」
「毎日使いますから」
「それは確かに」
三件目。
澪の視線が止まった。
「……ここはいいですね」
「おっ」
優真も覗き込む。
駅から徒歩九分。
2LDK。
リビングは十二畳ほど。
二つの洋室にはそれぞれ収納があり、片方が六畳、もう片方が七畳。
「リビングにデスクを二つ置いても、生活スペースを確保できます」
「キッチンも広いね」
「はい。収納も十分です」
「家賃は?」
金額を見る。
「……予算内だね」
「はい」
澪が営業担当を見る。
「こちらを内見できますか?」
「本日でも可能ですよ」
「では、お願いします」
「今日行くの?」
「問題がありますか?」
「ないけど」
優真は時計を見る。
午後は空けてある。
「行こうか」
「はい」
◇
不動産会社を出て、内見先へ向かう途中。
「優真さん」
「ん?」
「一つ、お願いがあります」
「何?」
「今後、私のことは『澪』と呼んでください」
「……え?」
優真の足が止まりかけた。
「呼び捨てで構いません」
「いや、急だね」
「先ほど気づきました」
「何に?」
「私たちは夫婦です」
「それは昨日から知ってるよ」
「ですが、優真さんは私を『澪さん』と呼んでいます」
「まあ……そうだね」
「私は三歳年下ですし、夫婦であれば呼び捨てでも不自然ではありません」
「それはそうかもしれないけど」
「それに」
澪が続ける。
「外から見た場合、その方が夫婦として自然に見えると思います」
「……そこ?」
「重要です」
「何に対して?」
「対外的な信用を得るために結婚したのですから、他人から夫婦に見えないのは非効率です」
「夫婦の呼び方にまで効率求める?」
「求めます」
即答だった。
優真は頭をかく。
「でもなあ……」
「何か問題がありますか?」
「問題っていうか」
昨日まで。
ほとんど話したこともなかった会社の後輩だ。
それが昨日、妻になって。
今日からいきなり名前を呼び捨て。
頭が追いついていない。
「……黒瀬さん」
「澪です」
「訂正早いな!」
「慣れていただく必要がありますので」
「分かったよ」
優真は一度息を吐く。
そして。
「……澪」
「はい」
「……」
「どうしました?」
「いや、なんか恥ずかしいな、これ」
「そうですか?」
「澪は平気なの?」
「……」
澪が止まった。
ほんの一瞬。
目が泳いだ。
「問題ありません」
「今、間があったよね?」
「ありません」
「あったって」
「ありません」
歩く速度が少しだけ速くなる。
優真はその後ろ姿を見て笑った。
どうやら。
澪もまったく平気というわけではないらしい。
◇
内見に訪れたマンションは、写真で見るより綺麗だった。
「こちらになります」
営業担当が鍵を開ける。
ドアが開いた瞬間、明るい光が玄関まで差し込んできた。
「おお」
優真は思わず声を漏らした。
「結構明るいね」
「はい。写真で見るより明るいですね」
澪は靴を揃えて室内へ入る。
そして、すぐにスマートフォンに表示した物件情報と室内を見比べ始めた。
玄関収納。
廊下の幅。
扉の位置。
一つずつ確かめるように視線を動かしていく。
「……澪」
「はい?」
「内見っていうより、答え合わせしてない?」
「資料と実際の物件に相違がないか確認しています」
「やっぱり答え合わせじゃん」
「重要です」
「まあ、そうだけど」
まずはリビング。
広さは十分。
大きな窓から光が入り、二人分のデスクを置いても余裕がありそうだ。
澪はスマートフォンを取り出す。
「コンセントはこちらに二口」
「そこから見るんだ」
「デスクを置く位置に関係します」
「なるほど」
「ルーターはこちらですね」
「完全にオフィス探してない?」
「自宅兼作業場所です」
「そうだった」
次はキッチン。
澪が収納を開ける。
「十分ですね」
「料理する?」
「できます」
「意外」
澪が振り返った。
「失礼ですね」
「あ、ごめん」
「一人暮らしですから、普通に自炊しています」
「そうなんだ」
「優真さんは?」
「俺も一応するよ」
「でしたら、料理については交代制にできますね」
「もう家事分担始まってる?」
「共同生活ですから」
澪がスマートフォンに何か入力する。
「何書いたの?」
「検討事項です」
「本当に仕事みたいだな……」
「次はこちらです」
「はいはい」
一つ目の洋室へ入る。
「六畳ですね」
営業担当が説明する。
「収納はこちらです」
澪がクローゼットを確認する。
「問題ありません」
「ここ、澪の部屋でいいんじゃない?」
言ってから。
優真は一瞬止まった。
さっきまで「澪さん」だった名前から、「さん」が消えただけ。
それなのに。
妙に距離が近くなった気がする。
澪も一瞬だけ優真を見た。
「……はい」
「何?」
「いえ」
澪が視線を戻す。
「こちらで問題ありません」
「今、ちょっと照れた?」
「照れていません」
「そう?」
「はい」
「じゃあいいけど」
「……」
耳が少し赤い。
分かりやすい。
「でも、なんで俺が広い方?」
「体格差です」
「そんな決め方ある?」
「合理的だと思います」
「まあ……俺の方が大きいけど」
「では決まりですね」
「決まるの早いな」
続いて七畳の洋室。
こちらにも十分な収納がある。
「ベッドとデスクを置いても余裕がありますね」
営業担当が言う。
「大きめのベッドも置けますよ。ダブルサイズでも問題ないと思います」
「ダブル……」
優真が呟く。
その横で。
「では、必要になった場合も問題ありませんね」
澪が普通に答えた。
「……」
優真がゆっくり澪を見る。
「何ですか?」
「いや」
「?」
「今、必要になった場合って言った?」
「はい」
「何が?」
「ダブルベッドが」
「それは分かってるよ!」
営業担当が困ったように二人を見る。
優真は声を落とした。
「必要になること、あるの?」
「将来については昨日お話ししたはずですが」
「ここでその話する!?」
「優真さんが聞いたのですが」
「そうだけど!」
澪が不思議そうに首をかしげる。
営業担当は明らかに聞かないふりをしている。
恥ずかしい。
「……もういい」
「そうですか?」
「うん」
優真は窓の方を向いた。
昨日の会話が蘇る。
『双方の合意がない限り、求めないものとします』
そして。
『双方が望むのであれば……その……問題ないのではないでしょうか』
――双方が望めば、あり。
「……」
いやいや。
何を考えてるんだ。
今は部屋を見に来ている。
隣を見る。
澪はもうクローゼットの奥行きを確認していた。
たぶん。
本当に深い意味はない。
ないはずだ。
「優真さん」
「何?」
「顔が赤いですが、暑いですか?」
「誰のせいだと思ってるの?」
「?」
「何でもない」
「そうですか」
やっぱり分かっていない。
◇
一通り部屋を確認したあと。
二人はベランダへ出た。
風が心地いい。
目の前に高い建物が少なく、思っていたよりも空が広く見える。
「いいね、ここ」
優真が言う。
「はい」
澪も隣に立つ。
「駅まで九分。家賃も予算内。収納にも問題ありません。作業スペースも確保できます」
「やっぱり数字から入るんだ」
「重要ですから」
「で?」
「はい?」
「澪自身はどう?」
澪が少しだけ目を瞬く。
「条件じゃなくてさ」
優真は部屋を見る。
「ここに住みたいと思う?」
「……」
澪が振り返る。
リビング。
キッチン。
二つの部屋。
そして。
もう一度、ベランダから見える景色へ視線を戻した。
「……そうですね」
少し考えて。
澪が頷いた。
「住みたいと思います」
「そっか」
「はい」
「じゃあ俺も、ここがいい」
澪が優真を見る。
「では、こちらにしましょう」
「やっぱ決めるの早いな」
「二人とも希望しているのであれば、保留する理由がありません」
「それはそうだけど」
優真は笑った。
「じゃあ、決まりだね」
「はい」
営業担当のところへ戻る。
「こちらでお願いします」
澪が告げると、営業担当が笑顔になった。
「ありがとうございます。では、申し込みの手続きについてご説明しますね」
話が進んでいく。
優真はもう一度、部屋の中を見渡した。
ここで。
澪と暮らす。
朝になれば顔を合わせる。
同じキッチンを使う。
同じリビングで仕事をする。
食事をして。
夜になれば、それぞれの部屋へ戻る。
そして翌朝。
また顔を合わせる。
それが毎日続く。
「……」
急に。
結婚したという事実が、昨日より現実味を帯びた。
「優真さん?」
「ん?」
「どうしました?」
「いや」
優真は澪を見る。
細いフレームのメガネ。
肩にかからないくらいのボブ。
仕事ができて。
妙なところで合理的で。
たまに、とんでもないことを平然と言う。
そして。
自分の妻。
「これからよろしくね、澪」
「……」
澪が目を丸くした。
今度は。
はっきりと分かるくらい、頬が赤くなる。
「何?」
「……いえ」
「自分で呼び捨てにしてって言ったんだよ?」
「分かっています」
「じゃあ、その反応は?」
「慣れていないだけです」
「俺も慣れてないよ」
「でしたら」
澪は一度だけ視線を逸らした。
それから、優真を見る。
「お互い、慣れる必要がありますね」
「そうだね」
優真は笑う。
「よろしく、澪」
「……はい」
今度は逃げなかった。
「よろしくお願いします、優真さん」
こうして。
二人が夫婦として暮らす場所が決まった。
寝室は別。
生活費も別管理。
恋愛感情は不要。
身体の関係は、双方の合意がない限りなし。
どこまでも合理的な。
契約から始まった結婚生活。
ただ一つ。
優真には早くも気になることがあった。
――双方の合意があれば、あり。
なぜかその一文だけが。
新居よりも先に、頭から離れなくなっていた。




