↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/60

第3話 書類上の夫婦

 翌日の昼休み。


 優真は昨日と同じカフェにいた。


 向かいに座っているのは、黒瀬澪。


 昨日と同じボブ。


 昨日と同じ細いフレームのメガネ。


 服装も、いつもの秘書らしいものだ。


 なのに。


 今日は妙に緊張する。


「……」


「……」


 さっきから会話がない。


 澪はコーヒーカップを両手で持っている。


 昨日も気づいたが。


 どうやらこれは、澪が落ち着かない時にする癖らしい。


「黒瀬さん」


「はい」


 返事が速い。


 やっぱり緊張している。


「昨日の話なんだけど」


「はい」


 澪が背筋を伸ばした。


「考えた」


「……はい」


「会社のことも」


「はい」


「結婚のことも」


「……はい」


 今度は少しだけ声が小さくなった。


 優真は一度息を吐く。


 昨日。


 直人と話した。


 その後も家に帰ってから考えた。


 会社を辞めること。


 起業すること。


 澪と一緒に会社を作ること。


 そして。


 ほとんど話したこともなかった三年後輩と、結婚すること。


 どう考えても普通じゃない。


 それでも。


 答えは決まった。


「俺、会社辞めるよ」


 澪が優真を見る。


「起業する」


「……はい」


「黒瀬さん」


「はい」


「俺と一緒に会社をやってほしい」


 澪の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「分かりました」


「それと」


 優真は一瞬だけ言葉に詰まる。


 こっちの方が遥かに言いづらい。


「……結婚の話も」


 澪の指が、カップの取っ手を握った。


「受けるよ」


「……」


 澪が止まった。


「黒瀬さん?」


「……本当ですか?」


「そこ疑うの?」


「いえ。ただ……」


 澪が少し視線を逸らす。


「断られる可能性の方が高いと考えていましたので」


「だったら、なんで提案したの?」


「最も合理的だと思ったからです」


「やっぱりそこなんだ……」


 優真は苦笑した。


 だが。


 澪の口元が、ほんの少し緩んでいる。


 嬉しいのだろうか。


 たぶん。


「ただし」


 優真が言う。


 澪の表情が仕事のものに戻った。


「はい」


「条件はちゃんと決めたい」


「私もそのつもりです」


「だよね」


 予想通りだった。


 澪は鞄からクリアファイルを取り出した。


「……何それ」


「契約案です」


「もう作ってきたの!?」


「返事をいただいた場合、必要になると思いましたので」


「断られる可能性の方が高いと思ってたんだよね?」


「はい」


「なのに作ったの?」


「準備しておいて損はありません」


「……黒瀬さんらしいね」


 澪が数枚の紙をテーブルに並べる。


「まず、会社についてです」


「うん」


「出資比率、役割分担、報酬、意思決定の方法。こちらは会社設立までに正式に決めます」


「分かった」


「次に、生活について」


「……来たな」


「何がですか?」


「いや、何でもない」


 澪が紙へ視線を落とす。


「住居は共同とします」


「うん」


「生活費は原則として折半。ただし会社設立直後は収入が安定しないため、双方の収入に応じて見直します」


「それでいいと思う」


「家事も分担します」


「うん」


「互いの私物、預金については個人資産とします」


「それも賛成」


「そして」


 澪が一瞬だけ止まった。


「夫婦生活についてです」


「……」


 来た。


 優真が一番気になっていたところだ。


「恋愛感情を求めない」


「……うん」


「互いの私生活に過度に干渉しない」


「うん」


「寝室は別」


「それは絶対にそうしよう」


 思わず即答した。


 澪が顔を上げる。


「絶対?」


「あ、いや」


 優真は慌てる。


「仕事も一緒で家も一緒なんだから、一人になれる場所は必要だろ?」


「なるほど」


「うん。そういうこと」


 危なかった。


 言えるわけがない。


 あなたが完全にタイプなので、同じ部屋で寝るなんて無理です。


 そんなこと。


「それから」


「まだある?」


「はい」


 澪が少し言いづらそうにする。


 視線が紙へ落ちた。


「身体的な関係については……」


「……」


 優真の背筋が伸びた。


 澪の耳が、ほんの少し赤くなっている。


「双方の合意がない限り、求めないものとします」


「……うん」


「問題ありますか?」


「いや、ないけど……」


「では、こちらも――」


「ちょっと待って」


 優真は思わず止めた。


「はい?」


「今の言い方なんだけど」


「何か問題が?」


「双方の合意が『ない限り』って言ったよね?」


「はい」


「それって……」


 聞いていいのか。


 いや。


 契約内容なのだから確認しておくべきだ。


 決して変な期待をしているわけではない。


 そう自分に言い聞かせてから、優真は尋ねた。


「合意がある可能性は、あるってこと?」


「……」


 澪が固まった。


「……黒瀬さん?」


「少々お待ちください」


「何を?」


「考えています」


「そこ今考えるの!?」


 澪の耳が、さっきより明らかに赤くなっていく。


「私は、その……将来的な可能性まで契約で禁止する必要はないと考えただけです」


「将来的な可能性」


「繰り返さないでください」


「あ、ごめん」


 澪が視線を逸らした。


 珍しく、明らかに恥ずかしがっている。


「結婚生活を続ける中で、互いの関係性が変化する可能性はあります」


「……うん」


「その時に、契約を理由に選択肢を制限するのは合理的ではありません」


「なるほど」


「ですから、双方が望むのであれば……」


 澪の言葉が止まった。


「……」


「……」


「その……問題ないのではないでしょうか」


 最後だけ声が小さい。


 優真は思わず澪を見る。


「黒瀬さん」


「はい」


「顔、赤いよ」


「……この話題を続ける必要はありますか?」


「ありません」


「では、次へ進みます」


「はい」


 即答した。


 澪は逃げるように次の紙へ視線を落とす。


 優真もコーヒーを飲んだ。


 ――双方が望めば、あり。


 いや。


 何を確認してるんだ、俺は。


 まだ結婚すらしていない。


 そもそも恋愛感情もない。


 なのに。


 昨日、メガネを外した澪を見てしまったせいで。


 その「可能性」という言葉だけが、妙に頭に残った。


「……では、最後です」


「うん」


「どちらかに恋愛感情が生じた場合について」


「そこもあるんだ?」


「今、追加しました」


「今!?」


「先ほどの話を踏まえると、必要だと判断しました」


「仕事が早いな……」


 澪は少し考える。


「ただ、これは事前に対応を決めることが難しいと思います」


「そうだね」


「その場合は、相手に伝えた上で話し合う」


「……それでいいと思う」


「はい」


 優真は改めて契約案を見る。


 仕事。


 生活。


 金。


 家事。


 寝室。


 恋愛。


 そして、身体の関係まで。


 こんな話を。


 昨日までほとんど他人だった女性としている。


 改めて考えると。


 ものすごい状況だった。


「……黒瀬さん」


「はい」


「本当にやるんだよね?」


 澪が優真を見る。


 少しだけ間があった。


「はい」


 その返事は。


 昨日の「結婚しませんか?」よりも、ずっと緊張しているように聞こえた。


◇


 それから数日後。


 二人は仕事を調整し、役所を訪れていた。


 優真の手には、記入済みの婚姻届。


「……」


「……」


 二人並んで、窓口の順番を待っている。


 優真は落ち着かなかった。


 昨日まで何度も内容を確認した。


 記入漏れもない。


 必要なものも揃っている。


 それなのに。


 さっきから何度も婚姻届を確認してしまう。


「神谷さん」


「ん?」


「先ほどから同じ場所を何度も確認しています」


「……気づいてた?」


「はい」


「なんか落ち着かなくて」


「そうですか」


 澪が答える。


 優真は横を見る。


「黒瀬さんは平気そうだね」


「……そう見えますか?」


「うん」


「そうですか」


 澪がメガネの位置を直した。


 その指が。


 ほんの少しだけ震えていた。


「……緊張してる?」


「少し」


「するんだ?」


「します」


 澪が少し不満そうに優真を見る。


「私を何だと思っているのですか?」


「いや、昨日からずっと冷静だったから」


「結婚するのは初めてです」


「俺もだよ」


「でしたら、同じです」


「……そうだね」


 優真は少し笑った。


「次の方、どうぞ」


 二人が同時に立ち上がった。


 窓口へ向かう。


「婚姻届の提出ですね」


「はい」


 優真が書類を差し出す。


 職員が内容を確認していく。


 その時間が。


 妙に長く感じた。


「……」


 優真は書類を見る。


 すでに書かれている自分の名前。


 神谷優真。


 そして、その隣。


 黒瀬澪。


 この届出が受理されれば。


 彼女は――。


「妻の氏は、夫の氏を選択ということでよろしいですね?」


「はい」


 澪が答えた。


 優真は横を見る。


 事前に決めたことだ。


 会社を立ち上げる際、対外的にも夫婦であることを分かりやすくする。


 澪自身も名字を変えることに異論はなかった。


 合理性で決めた。


 それだけのはずなのに。


 神谷澪。


 頭の中で呼んでみる。


 変な感じがした。


「問題ありません」


 職員が顔を上げる。


「こちらで受理いたします」


「……はい」


 それだけだった。


 もっと何かあると思っていた。


 何か特別な瞬間が。


 だが。


 一枚の紙が受理され。


 それだけで。


 神谷優真と黒瀬澪は、夫婦になった。


「おめでとうございます」


 職員が笑顔で言った。


「あ……ありがとうございます」


 優真は反射的に頭を下げる。


「ありがとうございます」


 澪も頭を下げた。


 その声が。


 いつもより少しだけ硬い。


「奥様、緊張されています?」


「え?」


 突然聞かれ、澪が目を丸くする。


「いえ、お二人とも少し緊張されているようでしたので」


「あ……」


 澪の頬が、わずかに赤くなった。


「はい。少しだけ」


 優真は思わず澪を見る。


 職員が微笑んだ。


「お幸せに」


「ありがとうございます」


 二人で答えた。


 そして。


 役所を出た。


 外は、何も変わっていなかった。


 車が走っている。


 人が歩いている。


 空も昨日と同じだ。


 なのに。


「……」


 優真は隣を見る。


 澪が歩いている。


 いや。


 違う。


 もう。


 黒瀬澪ではない。


「……神谷さん」


「ん?」


「これで、婚姻手続きは完了ですね」


「……」


 優真は思わず笑った。


「何でしょうか?」


「いや」


「?」


「それ、これから困らない?」


「何がですか?」


「神谷さんって呼んだら、二人とも神谷だよ」


「……」


 澪が止まった。


「確かに」


「そこ考えてなかったの?」


「想定していませんでした」


「結婚後の名字まで決めたのに?」


「……盲点でした」


 澪が少し困った顔をする。


「どうしましょう」


「どうしましょうって……」


 優真も考える。


「会社では今まで通りでもいいんじゃない?」


「ですが、私はもう黒瀬ではありません」


「まあ、そうなんだけど」


「神谷さん」


「だから、それだとどっちか分からないって」


「……」


 澪が考え込む。


「では」


「うん」


「優真さん、とお呼びしてもよろしいでしょうか」


「……」


 今度は優真が止まった。


「神谷さん?」


「いや」


「?」


「いきなり名前になると、結構くるね」


「何がですか?」


「何でもない」


「そうですか?」


「うん」


 優真は歩き出す。


「じゃあ俺も、澪さんでいい?」


「……」


 澪が少しだけ目を見開いた。


「はい」


 ほんの少し。


 頬が赤くなったように見えた。


「よろしく、澪さん」


「……よろしくお願いします。優真さん」


 夫婦になった。


 たった一枚の紙で。


 昨日まで。


 ほとんど話したこともなかった二人が。


「では、優真さん」


「うん」


「次は住居を決めましょう」


「もう次の話?」


「会社設立までに時間がありません」


「そうだけどさ」


「候補はすでに調べています」


「早いな……」


「三件あります」


「本当に早いな!」


 澪が鞄からスマートフォンを取り出す。


 もう次の予定を確認している。


 その姿は。


 やっぱり昨日までの澪と変わらない。


 仕事ができて。


 真面目で。


 少し不器用で。


 そして。


 自分の妻になった女性。


 優真は左手を見る。


 まだ指輪はない。


 結婚式もしていない。


 新婚旅行の予定なんて、もちろんない。


 そもそも。


 恋愛感情すらない。


 それでも。


 書類の上では。


 今日から二人は、間違いなく夫婦だった。


「優真さん?」


「ん?」


「行きますよ」


「ああ」


 少し先を歩く澪を追いかける。


 もう戻れない。


 昨日までは。


 その言葉が怖かった。


 でも今は。


 少しだけ違う。


 戻れないなら。


 前に進めばいい。


 優真はそう思いながら。


 妻になったばかりの澪の隣へ並んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。