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第2話 戻れない場所

 仕事を終えたあと。


 神谷優真は、大学時代からの友人である佐伯直人を呼び出した。


 店を選ぶほどの余裕もなく、二人で入ったのは駅前の静かな居酒屋だった。


「珍しいな」


 向かいに座った直人が、グラスを置く。


「お前から急に飲もうって言うなんて」


「……まあね」


「相談?」


 図星だった。


 優真は一瞬だけ言葉を探してから、頷いた。


「ちょっと聞いてほしいことがある」


「分かった」


 直人はそれ以上聞かなかった。


 昔からそうだ。


 優真が話し始めるまで、無理に聞き出そうとはしない。


 乾杯を済ませ、二人でしばらく料理をつまむ。


 だが。


 優真の頭にあるのは、昼間のことばかりだった。


 会社を作る。


 一緒に働く。


 一緒に暮らす。


 そして。


 結婚する。


 何度考えても、最後だけがおかしい。


「……起業のことなんだけど」


 ようやく優真が口を開いた。


「うん」


「本気で進めようと思ってる」


「やっと?」


「その言い方やめろよ」


 直人が笑う。


「三年だぞ。俺が何回『いつ会社辞めるんだ』って聞いたと思ってる」


「分かってるよ」


「で、何かきっかけがあった?」


「……あった」


 優真はグラスに口をつける。


「一緒にやってくれそうな人が見つかった」


「へえ」


 直人が少し興味を示す。


「どんな人?」


「同じ会社の後輩。秘書課にいた人」


「いた?」


「今日、クビになった」


「……ずいぶん濃い一日だな」


「俺もそう思う」


 優真は苦笑した。


「仕事はものすごくできる。俺が三年間ずっと不安だった経理とか契約とか、会社の管理関係をほとんど分かっててさ」


「それはいいじゃん」


「うん。一緒に会社をやらないかって誘った」


「じゃあ、悩むことないだろ」


「そこまではね」


「そこまでは?」


 優真が黙る。


 直人は急かさず、枝豆を一つ口へ運んだ。


「……その人に」


「うん」


「結婚しないかって言われた」


 直人の箸が止まった。


「……誰が?」


「その後輩が」


「お前に?」


「うん」


「今日?」


「今日」


「初めてまともに話した?」


「たぶん」


「……」


 直人はしばらく優真を見つめた。


「何があった?」


「それを説明しに来たんだよ」


 優真は昼間の出来事を順番に話した。


 偶然カフェで相席になったこと。


 目の前で澪が解雇されたこと。


 自分の事業計画を見てもらったこと。


 一緒に会社をやらないかと誘ったこと。


 そして。


 澪が固定費の削減や生活基盤の共有、互いに背負う責任まで考えた末に。


『結婚しませんか?』


 そう提案してきたこと。


 話し終える頃には。


 直人は完全に呆れた顔をしていた。


「……すごい人だな」


「だろ?」


「普通、そこで結婚まで行かない」


「だよな!?」


 思わず声が大きくなる。


「俺がおかしいんじゃないよな?」


「そこを確認しに来たのか?」


「ちょっとある」


「大丈夫。相手がおかしい」


「良かった……」


「ただ」


 直人が酒を飲む。


「話を聞く限り、理屈そのものは分からなくもない」


「そうなんだよ」


 優真は頭を抱えた。


「そこが困ってるんだ」


「嫌なら断ればいいじゃん」


「普通はそうするよな」


「普通はね」


「……」


 直人が優真を見る。


「何かあるな?」


「何が?」


「断りたくない理由」


「……」


「あるんだろ?」


 長い付き合いだ。


 こういう時だけ妙に鋭い。


「会社のことを考えたら、黒瀬さん以上の相手はたぶん見つからない」


「黒瀬さんっていうんだ」


「黒瀬澪。三つ下」


「ふーん」


 直人の口元が少し緩んだ。


「で?」


「何が?」


「仕事以外」


「……ないよ」


「今の間は何だよ」


「何でもない」


「嘘つけ」


 優真は視線を逸らす。


 言いたくない。


 というより。


 口にすると、余計に意識しそうだった。


「……見た目が」


「うん」


「かなりタイプ」


「なるほど」


「なんでそんな納得した顔するんだよ」


「全部つながったから」


「何が?」


「お前が即断らなかった理由」


「いや、それだけじゃないからな?」


「分かってる」


 直人は笑っている。


「でも、かなり大きいんだろ?」


「……まあ」


 認めるしかなかった。


「普段は秘書っぽいメガネしてて、ちょっと近寄りがたい感じなんだけど」


「うん」


「今日、途中でメガネ外したんだよ」


「それで?」


「……すごく可愛かった」


「お前、完全に気に入ってるじゃん」


「違う。まだそういうんじゃない」


「見た目がタイプで、一緒に会社をやりたくて、結婚を断り切れない」


「並べるなよ!」


 直人が声を殺して笑った。


 優真は酒を一口飲む。


「笑い事じゃないんだよ」


「何がそんなに問題?」


「だって、黒瀬さんは恋愛感情はいらないって言ってるんだぞ」


「うん」


「結婚して、一緒に住んで、仕事もずっと一緒で」


「うん」


「相手は完全にタイプで」


「うん」


「……何も起きない自信、あると思う?」


「知らないよ」


「だよな!」


「なんで俺に聞くんだよ」


 優真は額を押さえた。


「手を出すとか、そういう話だけじゃなくてさ」


「うん」


「好きになる可能性だってあるだろ」


「あるだろうね」


「でも向こうは、そういうのはいらないって条件で結婚を提案してる」


 直人の表情から笑いが消えた。


「そこが引っかかってるのか」


「……うん」


 会社だけなら。


 迷わない。


 澪と組みたい。


 自分に足りない部分を、彼女は持っている。


 だが結婚となれば。


 話はまるで違う。


「俺が勝手に好きになって、契約を壊したらどうするんだって思う」


「まだ好きでもないのに?」


「だから可能性の話だよ」


「真面目だな」


「結婚なんだから真面目に考えるだろ」


「相手は会社を作る延長で提案してきたみたいだけどな」


「そこなんだよ!」


 優真が思わずテーブルを軽く叩く。


 直人がまた笑った。


 しばらくして。


「で、お前はどうしたい?」


 唐突に聞かれた。


 優真は答えられなかった。


 直人は続ける。


「その黒瀬さんが、結婚はなしで共同経営だけにしましょうって言ったら?」


「……一緒に会社はやりたい」


「じゃあ、会社をやるのは決まりだ」


「まあ」


「結婚は?」


「……」


 優真の頭に、澪の顔が浮かんだ。


 メガネを外して、不思議そうに首をかしげた顔。


 少し不満そうな顔。


 クビになって落ち込んでいた顔。


 そして――。


『私は判断と管理を引き受けられます』


『神谷さんは、事業と営業に集中してください』


 あの言葉。


 三年間。


 優真はずっと一人で準備してきた。


 事業を考えるのも。


 金を貯めるのも。


 失敗した時のことを考えるのも。


 全部、一人だった。


 だから踏み出せなかった。


 そんな優真に。


 澪は当たり前のように、自分も一緒に背負うと言ってくれた。


 今日、初めてまともに話したばかりなのに。


 優真が三年間欲しかったものを、彼女はあっさり差し出してきた。


 それが。


 思っていた以上に嬉しかったのかもしれない。


「……断ったら」


「うん」


「たぶん、後悔すると思う」


 口に出して。


 自分で気づいた。


 直人は何も言わない。


「こんな機会、もうない気がする」


「起業の?」


「……両方」


「じゃあ、答え出てるじゃん」


「簡単に言うなよ」


「簡単だよ」


 直人はグラスを置く。


「お前は、失敗するのが怖いんじゃない」


「……」


「選んだあとに戻れなくなるのが怖いんだろ」


 優真は黙った。


 昼間。


 澪には、一人で責任を背負うことを恐れていると見抜かれた。


 そして今。


 直人に言われて分かる。


 もう一つ怖いことがあった。


 一度進んだら。


 今までの会社員生活には戻れない。


 起業も。


 結婚も。


 どちらも人生を変える選択だ。


「……戻れないよな」


 優真が呟いた。


「そりゃそうだろ」


 直人はあっさり答えた。


「会社辞めて起業して、結婚までしたら、今まで通りには戻れない」


「だよな」


「でもさ」


 直人が優真を見る。


「戻れる場所を残したまま、本気で進めるのか?」


「……」


「三年間準備して、それでも動けなかったんだろ」


 痛いところを突かれた。


「だったら、今回は戻れないくらいでちょうどいいんじゃない?」


「他人事だと思って……」


「他人事だよ」


「おい」


「でも、お前がずっと会社をやりたいって言ってたのは知ってる」


 直人は少しだけ笑った。


「だから、やっと行くんだなって思ってる」


「……」


「相手まで一緒に人生を賭けるって言ってるんだろ?」


「ああ」


「だったら、中途半端にするな」


 その声は軽くなかった。


「結婚するなら、契約だからって雑に扱うな。会社をやるなら、彼女の人生も背負うつもりでやれ」


「……うん」


「で」


 直人がニヤッとする。


「タイプの女と同居する件は、自分でどうにかしろ」


「最後にそれ言う必要あった?」


「一番悩んでるだろ?」


「……否定できないのが腹立つな」


 二人で笑った。


 店を出た頃には、夜風が少しだけ心地よかった。


 駅までの道を歩きながら。


 優真は昼間から何度も繰り返した問いを、もう一度考える。


 会社を作るのか。


 澪と組むのか。


 結婚するのか。


 怖い。


 当然だ。


 人生が変わる。


 戻れなくなる。


 それでも。


 断った自分を想像すると。


 そちらの方が、ずっと嫌だった。


 ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 取り出して画面を見る。


 澪からだった。


『お疲れさまです』


 たった一言。


「……」


 優真は少し笑った。


 昼間にあれだけ大きな話をしておいて。


 送ってくるのが、これだけなのも澪らしい。


 返信画面を開く。


 一度、指が止まった。


 そして。


『黒瀬さん。明日の昼、少し時間ある?』


 送信する。


 数秒後。


『あります』


 さらに続けて。


『お返事でしょうか?』


 優真は足を止めた。


「……鋭いな」


 苦笑する。


 すぐには返信せず、夜空を見上げる。


 戻れない。


 たぶん。


 明日、答えを出せば。


 本当に戻れなくなる。


 それでも。


 今度は逃げるつもりはなかった。


『うん。ちゃんと話したい』


 送信。


 すぐに既読がつく。


『分かりました。お待ちしています』


 優真は画面を見つめた。


「……よし」


 小さく呟く。


 明日。


 黒瀬澪に返事をする。


 三年間、決められなかった男が。


 起業と。


 結婚を。


 同時に決めようとしていた。

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