第1話 結婚は契約です
昼休み。
会社から少し離れたカフェで、神谷優真は一人、ノートパソコンの画面を眺めていた。
開いているのは、作成途中の事業計画書。
テーブルには起業に関する本が二冊。そのどちらにも、色とりどりの付箋が大量に貼られている。
「……またここで止まった」
優真は小さくため息をついた。
起業したい。
そう思い始めてから、もう三年になる。
資金は貯めた。
やりたい事業も決まっている。
会社員を続けながら、必要な知識も勉強してきた。
それなのに。
いざ会社を辞め、本当に始めようとすると踏み切れない。
調べれば調べるほど、知らないことが出てくる。
登記。
税金。
経理。
契約。
労務。
事業そのものなら、自信はある。
営業だって、今の会社でそれなりの結果を出してきた。
だが、会社を経営するとなれば話は別だ。
「準備だけなら、とっくに社長なんだけどな……」
自嘲しながらコーヒーに手を伸ばした、その時だった。
「神谷さん」
「ん?」
顔を上げる。
見覚えのある女性が立っていた。
「黒瀬さん?」
「はい」
黒瀬澪。
優真より三年後輩で、同じ会社の秘書課に所属している女性だ。
顎のあたりで綺麗に揃えられたボブ。
細いフレームのメガネ。
落ち着いた服装。
仕事ができることで社内では有名だが、営業部の優真とはほとんど接点がない。
廊下ですれ違えば会釈する程度。
まともに話した記憶すら、ほとんどなかった。
澪は店内を見回してから尋ねた。
「相席してもよろしいでしょうか。空席がないようなので」
「ああ、もちろん。どうぞ」
「ありがとうございます」
澪が向かいの席に座る。
それだけだった。
同じ会社だからといって、特に話すこともない。
優真は再びパソコンへ視線を戻し、澪もスマートフォンを確認しながらコーヒーを飲んでいる。
少し気まずい。
とはいえ、無理に会話するほどの仲でもない。
そんな微妙な空気の中、澪のスマートフォンが震えた。
「失礼します」
澪が電話に出る。
「はい、黒瀬です」
優真は気にせず画面へ視線を戻した。
他人の電話を盗み聞きする趣味はない。
だが。
「……解雇、ですか?」
優真の手が止まった。
思わず顔を上げそうになり、慌てて画面へ視線を戻す。
聞くつもりはない。
聞くつもりはないのだが。
目の前でそんな単語を出されれば、嫌でも耳に入ってしまう。
「理由を確認してもよろしいでしょうか」
澪の声は落ち着いている。
「昨日の接待先で、雑談に応じなかったことが原因ですか?」
少し間が空く。
「先方から質問された業務内容については、すべて回答しました。天気や休日の過ごし方については、業務との関連性がないと判断しましたが……」
――いや、それも接待のうちなんじゃないかな。
優真は心の中でツッコんだ。
「……愛想がない?」
澪の眉が、ほんの少しだけ下がった。
「それは……」
一瞬、言葉に詰まる。
「……業務上、必要な能力なのでしょうか」
――秘書なら、たぶん必要だと思う。
さすがに声には出せない。
「そうですか……」
先ほどまでと比べ、わずかに声が小さくなった。
「承知しました」
そして。
「では、本日付で退職ということで……問題ありません」
電話が切れた。
澪はスマートフォンをテーブルへ置いた。
「……」
すぐにはコーヒーに手を伸ばさなかった。
俯いたまま、カップを両手で包む。
数秒。
小さく息を吐いてから、一口飲んだ。
「……はぁ」
今度のため息は、優真にも聞こえた。
平気なわけではないらしい。
当然だ。
突然クビになって、何とも思わない人間なんてそうはいない。
「……黒瀬さん」
思わず声をかけてしまった。
澪が顔を上げる。
「はい?」
「あー……ごめん。聞くつもりはなかったんだけど」
「聞こえていましたか?」
「目の前だからね」
「……そうですよね」
少し恥ずかしそうに澪が視線を落とした。
「今……クビになったんだよね?」
「はい」
「大丈夫?」
「……大丈夫です」
そう答えたものの、明らかに大丈夫そうではない。
「まあ……突然ならショックだよね」
「はい。少し」
素直に認めた。
「仕事自体は、好きだったので」
「そうなんだ」
「自分なりに努力していたつもりなのですが……」
澪がメガネの位置を直す。
「やはり、向いていなかったのでしょうか」
その言葉に、優真は少し驚いた。
社内で見かける澪は、いつも冷静だった。
仕事ができて。
隙がなくて。
何を考えているのか少し分かりにくい。
そんな印象だった。
だが、今の澪は。
クビになって普通に落ち込んでいる、三年後輩の女性にしか見えない。
「向いてないってことはないんじゃない?」
「そうでしょうか」
「黒瀬さん、仕事できるって有名だし」
「……ありがとうございます」
澪の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑った。
たぶん。
本当に少しだけだったが。
優真は初めて澪が笑ったところを見た気がした。
そして澪の視線が、優真の手元へ向く。
「ところで、神谷さん」
「ん?」
「起業されるのですか?」
「ああ……」
見られていたのは、ノートパソコンと大量の付箋が貼られた本だった。
「まあ……するつもりではある」
「するつもり?」
「そこは拾わなくていいよ」
優真は苦笑する。
「三年前から準備してる。でも、なかなか踏み切れなくて」
「三年も?」
「改めて言われると刺さるな……」
「す、すみません」
「ああ、違う違う。責めてるわけじゃないから」
「そうですか」
「黒瀬さん、意外と気にするんだね」
「……気にします」
「ごめん」
また少しだけ、澪の眉が下がった。
優真は思う。
この人、思っていたよりずっと分かりやすいのかもしれない。
「資金が足りないのですか?」
「いや。資金はある」
「事業内容が決まっていない?」
「それも決まってる」
「では、何が問題なのでしょうか」
「それが分かったら三年も悩んでないよ」
優真はため息をつく。
「会社を作るって、やりたい仕事だけしてればいいわけじゃないだろ? 事業計画に、登記、税金、経理、契約……調べれば調べるほど、分からないことが増えていってさ」
「なるほど」
澪がパソコンを見る。
「拝見しても?」
「え? ああ、いいけど」
優真はノートパソコンを澪の方へ向けた。
澪は画面を読み始める。
十秒。
二十秒。
三十秒。
先ほどまで少し落ち込んでいた顔が変わった。
真剣な目で画面を追い、時折スクロールする。
「……神谷さん」
「何?」
「ここですが、初年度の固定費をもう少し抑えられると思います」
「え?」
「それから、この契約形態では取引先によっては不利になる可能性があります。法人化するのであれば――」
そこからの澪は速かった。
優真が三年間調べても不安だった部分を、次々と指摘していく。
「ちょっと待って」
「はい」
「全部分かるの?」
「すべてではありません」
「いや、今のところ俺より全部分かってるけど」
「役員向け資料の作成補助も担当していましたので、経営関連の書類には日常的に触れていました」
「そうなの?」
「法人設立後に必要となる手続きも一通り把握しています。経理、契約書作成、スケジュール管理、取引先管理も対応できます」
「……全部?」
「はい」
澪は少しだけ胸を張った。
その仕草に、ほんのわずかだが誇らしさが見える。
仕事には自信があるのだろう。
優真は黙った。
三年間。
自分が調べても調べても不安だった部分。
それを全部できる人間が、目の前にいる。
しかも。
たった今、無職になった。
「……黒瀬さん」
「はい」
「ものすごくタイミングの悪いこと言ってもいい?」
「内容によります」
「俺と一緒に会社やらない?」
「……え?」
澪の目が丸くなった。
明らかに驚いている。
「あ、いや!」
言った直後に優真も焦った。
「今クビになったばかりの人に何言ってるんだって、自分でも思ってるよ。ただ、黒瀬さんが今言ったことって、全部俺に足りない部分だから」
「……」
「俺は事業と営業ならできる。でも会社の管理が不安で踏み出せない。黒瀬さんは、そこができる」
「……はい」
「だから……もし興味があるなら」
澪は黙った。
先ほどとは違う。
今度は明らかに考えている。
「条件を確認してもよろしいですか?」
「検討するんだ?」
「はい」
澪は少しだけ前のめりになった。
どうやら興味はあるらしい。
「条件を聞かずに判断することはできません」
「まあ……そうだね」
優真は少し考える。
「俺が事業と営業を担当する。黒瀬さんには会社の管理全般をお願いしたい。もちろん給料は――」
「それでは不十分です」
「え?」
「私は今、職を失いました」
「……うん」
「神谷さんの会社に参加する場合、再就職という選択肢を捨てることになります」
「そうなるね」
「設立直後の会社に安定性はありません」
「……それは否定できない」
「神谷さんが失敗すれば、私は再び無職です」
「ぐっ……」
「す、すみません」
「いや、いいよ。事実だから」
澪は少し申し訳なさそうにしてから続ける。
「ですから、単なる雇用関係では、私が負うリスクに対して条件が釣り合いません」
「だったら、共同経営者とか?」
「……それなら検討できます」
「おお」
少し前進した。
だが、澪はまだ何か考えている。
「ただ……」
「まだある?」
「はい」
澪は指を折りながら考え始めた。
「神谷さんも会社を辞めるのであれば、安定した収入を失います」
「そうだね」
「私も同様です」
「うん」
「起業直後は可能な限り固定費を削減すべきです」
「それはそうだね」
「でしたら、別々に生活するより、住居を一つにした方が合理的です」
「……ん?」
「家賃、光熱費、通信費。すべて削減できます」
「まあ……そうだけど」
「家事も分担できます」
「うん」
「生活費も共有できます」
「うん……?」
「勤務時間外でも、必要があればすぐに会社の意思決定ができます」
「ちょっと待って」
「はい?」
「なんで自然に一緒に暮らす話になってるの?」
「その方が合理的だからです」
「いや、合理的なのは分かるけど」
優真は嫌な予感がした。
澪は真剣に考え込んでいる。
そして。
「あ」
「何?」
「一つ、最適な方法があります」
「……なんでだろう。聞きたくない」
「なぜですか?」
「分からないけど、嫌な予感がする」
澪は少し首をかしげる。
そして、優真をまっすぐ見た。
「神谷さん」
「はい」
「結婚しませんか?」
「…………」
優真の動きが止まった。
一秒。
二秒。
三秒。
「……はい?」
「ですから」
「いや、聞こえた! 聞こえたけど!」
優真は思わず身を乗り出した。
「なんで会社を作る話から結婚になるの!?」
「先ほど説明しました」
「説明になってないよ!」
「共同経営、生活拠点の統合、生活費の共有、相互扶助――」
「それ、結婚しなくてもできるよね!?」
「できます」
「できるんだ!?」
「はい」
「じゃあ結婚いらないじゃん!」
「いいえ」
「なんで!?」
澪は真剣だった。
「私は仕事と生活の両方を、神谷さんとの共同事業に賭けることになります」
「……まあ」
「神谷さんも同じです」
「そうだけど」
「それほど深く互いの人生に関与するのであれば、責任の所在を明確にすべきです」
「だからって結婚!?」
「婚姻関係が最も明確です」
「飛躍してるよ!」
「どこがでしょうか」
「全部だよ!」
澪が少し驚いたように目を瞬かせた。
優真は構わず続ける。
「まず俺たち、今日まともに話したの初めてだよね!?」
「同じ会社に三年間勤務しています」
「それでもほぼ他人だろ!」
「私は神谷さんのことをある程度把握しています」
「なんで!?」
「役員会議用の資料で、営業成績を何度も確認しています」
「そんなところで見られてたの!?」
「はい。営業成績は安定しています。顧客からの評価も高く、大きな問題行動もありません」
「結婚相手の審査みたいになってない!?」
「……」
澪が黙った。
「え?」
「確かに、必要ですね」
「何が?」
「結婚相手としての審査です」
「今からするの!?」
「はい」
「待って待って!」
澪は優真をじっと見る。
「年齢」
「そこから!?」
「健康状態」
「健康だよ!」
「借金」
「ない!」
「ギャンブル」
「しない!」
「喫煙」
「しない!」
「飲酒」
「付き合い程度!」
「女性関係」
「なんで昼間のカフェでこんなこと聞かれてるの!?」
「重要です」
「……いないよ!」
「そうですか」
澪は小さく頷いた。
「現時点では問題ありません」
「勝手に合格させないで!」
「不満ですか?」
「そういう問題じゃない!」
優真は頭を抱えた。
どうしてこうなった。
昼休みにカフェへ来た。
会社の後輩と偶然相席した。
その後輩がクビになった。
会社に誘った。
そこまでは分かる。
なぜ今、自分は結婚相手として審査されているのか。
「……黒瀬さん」
「はい」
「そもそも結婚って、好きな人とするものじゃないの?」
澪は少し考えた。
「必ずしも、そうとは限らないと思います」
「そうなの?」
「恋愛結婚以外にも、結婚の形はあります」
「それはそうだけど……」
「私は恋愛感情を、結婚の必須条件とは考えていません」
「じゃあ……俺のこと、好きじゃないよね?」
「……」
澪が少し困った顔をした。
「恋愛対象として考えたことがありません」
「そこまで真面目に答えられると地味に傷つくな」
「す、すみません」
「謝られるともっと傷つく!」
「では、どう答えれば……」
「いや、もういいよ」
澪が困っている。
無表情でも、無感情でもない。
むしろ結構、顔に出ている。
ただ。
人との距離の取り方が、少し下手なのだ。
「……結婚って、一生の話だよ?」
「会社も長期間継続することを前提に設立します」
「同じじゃないよ!」
「失敗した場合は……」
澪が少し考える。
「離婚、でしょうか」
「会社の解散みたいに言わないで!」
「ですが、婚姻も法的な契約関係です」
「そうだけど!」
「でしたら――」
「問題はあるからね!?」
「……難しいですね」
「そこで悩むんだ……」
優真は呆れながらも、少し笑ってしまった。
めちゃくちゃだ。
普通なら、笑い飛ばして終わる話だ。
なのに。
完全には否定できない自分もいる。
「一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「俺が失敗したら、どうするの?」
「……」
今度は澪がすぐに答えなかった。
少し考えてから口を開く。
「その時は、二人で原因を分析します」
「え?」
「改善できるのであれば、やり直します」
「それでも駄目だったら?」
「その時に考えます」
「離婚じゃないんだ?」
「……先ほどは少し、簡単に考えすぎていました」
澪は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「結婚するのであれば、簡単に解消することを前提にするのは違う気がします」
「……そっか」
「はい」
その答えに。
優真はほんの少しだけ、澪への印象を変えた。
「ただ」
澪が優真を見る。
「私は、失敗することより、何もしないことの方が問題だと考えています」
「……」
「神谷さんには資金があります。事業構想もある。営業能力もある」
澪は静かに続ける。
「足りないのは、踏み出すための理由だけではありませんか?」
「……理由?」
「一人ではないことです」
優真は言葉を失った。
「起業すれば、判断も責任も、すべて神谷さんが背負うことになります」
澪は優真を見る。
「それが怖いのではありませんか?」
図星だった。
三年間。
失敗が怖いのだと思っていた。
貯めた金を失うことが怖いのだと思っていた。
だが。
本当に怖かったのは。
自分で決めて。
自分で責任を負って。
一人で失敗することだった。
「私は判断と管理を引き受けられます」
澪は言った。
「神谷さんは、事業と営業に集中してください」
「……それ、秘書の仕事を超えてない?」
「ですから」
澪は少し考えてから。
「妻になります」
「なんでそこに戻るの!?」
思わずツッコんだ。
「だ、駄目でしょうか?」
「そこでちょっと不安そうな顔するのやめて!」
「なぜですか?」
「こっちが悪いみたいになるから!」
「そんなつもりは……」
「分かってるよ!」
優真はとうとう笑ってしまった。
「……黒瀬さんって、変わってるね」
「よく言われます」
「言われるんだ」
「……はい」
少し落ち込んだ。
「悪い意味じゃないから」
「そうですか?」
「たぶん」
「たぶん……」
「あ、ごめん」
澪が少し頬を膨らませる。
ほんの少しだけ。
それを見て、優真はまた笑った。
「……少し疲れました」
澪が息を吐く。
そして。
メガネを外した。
「…………」
優真の笑いが止まった。
メガネをテーブルへ置いた澪が、目元を軽く押さえる。
「神谷さん?」
「え?」
「どうかしましたか?」
「いや……」
優真は思わず澪の顔を見た。
印象がまるで違う。
メガネをしている時は、仕事のできる秘書という雰囲気が強かった。
だが。
メガネを外すと。
ボブの髪型も相まって、一気に年下らしい柔らかな印象になる。
美人というより。
可愛い。
しかも。
ものすごく好みだった。
――待て。
これはまずい。
「……?」
澪が不思議そうに首をかしげる。
その仕草まで可愛い。
優真は慌てて視線をパソコンへ戻した。
「メガネ外すと、結構印象変わるね」
「そうでしょうか」
「うん」
澪は外したメガネを見る。
「こちらの方が秘書らしく見えると言われたので、仕事中は着用しています」
「……え?」
「何でしょうか」
「もしかして、それ伊達メガネ?」
「はい」
「目、悪くないの?」
「両目とも裸眼で一・五です」
「めちゃくちゃいいじゃん!」
「はい」
「じゃあ本当に秘書っぽく見せるためだけに?」
「そうです」
澪は当然のように答えた。
「秘書ですから」
「……そこまでしてたんだ」
「私は、その……」
澪が少し言いにくそうに視線を落とす。
「人と話すことが、あまり得意ではありませんので」
「うん」
「せめて見た目だけでも、頼りになる秘書に見えるようにと……」
「なるほどね」
優真は少しだけ納得した。
たぶん、この人は。
仕事ができる。
間違いなく有能だ。
でも。
何でも簡単にこなせる人ではない。
苦手なものもある。
それを自分なりの方法で補って、ちゃんと仕事をしようとしていた。
その結果が、伊達メガネだったのだ。
少し可笑しくて。
少し可愛かった。
そして。
だからこそ、困る。
「……」
優真はもう一度、澪を見る。
見た目だけなら。
完全にタイプだ。
いや。
見た目だけなら、という言い方も失礼かもしれない。
仕事はできる。
真面目。
少し不器用。
そして、メガネを外すとものすごく可愛い。
そんな女性から。
結婚しませんか、と言われている。
普通の男なら喜ぶところなのかもしれない。
だが。
澪の条件は――恋愛感情不要。
結婚する。
ということは、一緒に暮らす。
朝起きれば澪がいる。
仕事から帰っても澪がいる。
当然、家では秘書みたいな格好をしているわけではない。
メガネも外すだろう。
部屋着にもなる。
風呂にも入る。
風呂上がりに鉢合わせすることだって――。
「……いやいやいや」
優真は小さく頭を振った。
「どうかしましたか?」
「何でもない」
「そうですか?」
「うん」
危ない。
想像するな。
優真は自分に言い聞かせる。
澪は恋愛感情なんて必要ないと言っている。
つまり。
結婚しても、そういう関係を求めているわけではない。
ただの共同経営者。
生活を共有するパートナー。
それだけだ。
――できるのか?
俺に。
こんなにタイプの女性と一つ屋根の下で暮らして。
何も意識せず。
何も期待せず。
ずっと仕事仲間として接する。
「……無理じゃないか?」
「何がですか?」
「何でもない!」
「先ほどから、そればかりですね」
澪が少し不満そうに言う。
その表情まで可愛く見えてしまう。
――駄目だ。
むしろ、結婚を即決できない理由が増えた。
「……黒瀬さん」
「はい」
「考えさせて」
「もちろんです」
「そこは急かさないんだね」
「結婚ですから」
「……うん」
「重要な契約ですので」
「やっぱり契約なんだ……」
優真は苦笑した。
まだ答えなんて出せない。
出せるはずがない。
昼休みに偶然相席した、ほとんど話したこともない三年後輩から。
会社を作るために結婚しようと言われたのだから。
しかも。
その相手は、自分の好みに見事なくらい刺さっている。
仕事だけの関係でいられる自信なんて、今の時点ですでに怪しい。
恋愛感情は不要。
澪はそう言った。
問題は。
結婚した後も、自分がその条件を守れるのかどうかだ。
会社を作る。
仕事を一緒にする。
同じ家で暮らす。
そして――結婚する。
どう考えても、順番がおかしい。
それでも。
三年間、止まったままだった優真の人生は。
この日、初めて動き始めた。




