第40話 帰ってきた現実
玄関のドアが開いた。
「ただいま帰りました」
買い物袋を持った澪が中へ入る。
靴を脱ごうとして。
「……?」
見覚えのない靴がある。
いや。
見覚えはある。
「……」
澪の動きが止まった。
まさか。
そう思った直後。
「おかえり」
リビングから声がした。
「……」
聞き間違えるはずがない。
澪はゆっくりと顔を上げた。
「……お母さん?」
「ええ」
「……」
澪は買い物袋を持ったまま、リビングへ向かった。
ソファに座っている母。
その向かいには優真。
テーブルには二人分のお茶が置かれている。
「なぜ……」
澪は母を見る。
「なぜ、いるんですか?」
「来たからよ」
「それは分かります」
「そう」
「事前の連絡は?」
「してないわ」
「なぜですか」
「したら、あなた何か準備するでしょう?」
「当然です」
「だからよ」
「……」
澪は言葉に詰まった。
「澪」
優真が立ち上がる。
「その袋、重いでしょ」
「問題ありません」
「いいから」
「ですが」
「持つよ」
優真が澪の手から買い物袋を受け取った。
「……ありがとうございます」
「うん」
優真はそのままキッチンへ向かう。
「……」
母の視線が二人を追った。
澪は気づかない。
優真が戻ってくる。
「澪」
「はい」
「とりあえず座ったら?」
「……はい」
澪は母の向かいへ座る。
優真は、その隣に座った。
「……」
母が二人を見る。
「澪」
「はい」
「もう神谷さんから聞いたけど」
「……」
「あなた、結婚したの?」
「……はい」
「いつ?」
澪は日付を答えた。
「……」
母の眉がわずかに動く。
「そんな前なの?」
「はい」
「それなのに、何も言わなかったの?」
「……はい」
「どうして?」
「……」
澪は答えを探す。
結婚した理由。
起業。
社会的信用。
契約。
だが。
それをそのまま話すことはできない。
「仕事の事情など、複数の理由がありました」
「仕事の事情?」
「はい」
「結婚に?」
「……はい」
母の視線が少し鋭くなる。
「どういう意味?」
「それは……」
澪が言葉に詰まる。
「すみません」
優真が口を開いた。
母が優真を見る。
「俺が会社を立ち上げることになって」
「はい」
「澪にも手伝ってもらっています」
「それは聞きました」
「その時期に、いろいろ重なって……」
「いろいろ?」
「……はい」
優真も言葉を選んでいる。
契約結婚であることを言わずに説明する。
思っていた以上に難しい。
「……」
母は二人を交互に見た。
「まあ、いいわ」
「……」
澪が顔を上げる。
「いいんですか?」
「よくはないわよ」
「では」
「今ここで全部説明させても、あなたたち二人とも困るだけでしょう?」
「……」
否定できない。
「それより」
母は澪を見る。
「どうして黙っていたの?」
「……」
「結婚したことを」
「それは……」
澪は少し考える。
「伝える必要性を、感じていませんでした」
「……」
母が目を閉じた。
「澪」
「はい」
「そういうところよ」
「?」
「結婚したのよ?」
「はい」
「普通は親に言うでしょう?」
「成人しています」
「そういう問題じゃないの」
「では、どういう問題でしょうか」
「……」
母が額に手を当てた。
「神谷さん」
「はい」
「この子、いつもこうなの?」
「え?」
「何でも必要か必要じゃないかで考えるの?」
「……」
優真が澪を見る。
「まあ……」
「優真さん」
「はい」
「今、肯定しましたか?」
「してないよ」
「間がありました」
「……」
母が小さく息を吐いた。
「変わってないわね」
「何がでしょうか」
「昔からそうだったのよ」
「……」
「一人で考えて、一人で決めて、終わってから報告する」
「自分で処理できることであれば、その方が――」
「効率的?」
「はい」
「……やっぱり変わってない」
「?」
母は呆れたように言った。
だが。
その声は怒っているというより、困っているように聞こえた。
「それで」
母が話を戻す。
「壺」
「……」
澪が止まった。
「なぜ、あんなものを突然送ってきたの?」
「電話でも説明しました」
「大きすぎたから?」
「はい」
「置く場所がない?」
「はい」
「それだけ?」
「それだけです」
「……」
「何でしょうか」
「あなたね」
母がため息をつく。
「普段、実家に何か送ってくる?」
「いいえ」
「でしょう?」
「はい」
「その娘が、突然大きな壺を送ってきたのよ」
「はい」
「心配するでしょう?」
「……なぜですか?」
「なぜって……」
母が言葉を失う。
優真が横から小さく口を挟んだ。
「澪」
「はい」
「俺でもちょっと心配すると思う」
「優真さんも?」
「うん」
「……」
澪は考える。
「ですが、電話で理由を説明しました」
「『大きすぎたので送りました』だけだったんでしょう?」
優真が聞く。
「はい」
「……それは来るかも」
「なぜですか」
「なんとなく」
「説明になっていません」
「そうなんだけど」
母が優真を見る。
「神谷さん」
「はい」
「苦労してるでしょう?」
「え?」
「澪と暮らしていて」
「……」
澪が優真を見る。
「優真さん?」
「いや」
「苦労していますか?」
「してないよ」
「本当ですか?」
「うん」
優真は少し笑う。
「慣れたし」
「……慣れた?」
「悪い意味じゃないよ」
「……」
「澪は澪だから」
「……」
澪の耳が、わずかに赤くなる。
母はそれを見ていた。
「……」
「お母さん?」
「何?」
「なぜ私を見ているのですか?」
「別に」
「そうですか」
「ええ」
母は湯呑みに手を伸ばした。
一口飲む。
そして。
「でも」
静かに置いた。
「結婚したことを黙っていたのは、やっぱり納得できないわ」
「……申し訳ありません」
「謝ってほしいんじゃないの」
「では、どうすれば?」
「話してほしかったのよ」
「……」
「結婚したなら、結婚したって」
「はい」
「生活が変わったなら、変わったって」
「はい」
「何かあったなら、何かあったって」
「……」
「あなた、何でも一人で抱えるでしょう?」
「抱えてはいません」
「そう思ってるのは、あなただけかもしれないわよ」
「……」
澪は答えられなかった。
「少なくとも」
母が優真を見る。
「今は一人ではないみたいだけど」
「……」
澪も優真を見る。
目が合う。
「……」
先に目を逸らしたのは澪だった。
「まあ」
母が小さく息を吐く。
「せっかく来たんだから、もう少し話しましょう」
「はい」
「神谷さんも、いい?」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
優真が立ち上がる。
「お茶、淹れ直しますね」
「お願いします」
「澪も飲む?」
「はい」
「分かった」
優真がキッチンへ向かう。
「……」
澪はその背中を目で追った。
「澪」
「はい」
母に呼ばれ、振り向く。
「……何でしょうか」
「別に」
「?」
「なんでもないわ」
「そうですか」
「ええ」
母は何も言わず、澪を見ていた。
しばらくして。
優真が三人分のお茶を持って戻ってきた。
新しい湯気が、静かに立ち上っていた。




