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第38話 嬉しいかな

 昼前。


 ネクシアのオフィスは、午前中の慌ただしさが少し落ち着いていた。


 澪はパソコンに向かっていた。


「……」


 仕事は進んでいる。


 問題はない。


 昨日休んでいた分の確認も、ほとんど終わった。


 それなのに。


「……」


 少しだけ集中できない。


 理由は分かっている。


 昨日。


 会社で二度も、優真を「優真さん」と呼んだ。


 家ではいつもそう呼んでいる。


 だが、会社では違う。


 社長。


 それが正しい。


「……社長」


 小さく呟く。


 問題ない。


 今日は間違えない。


「澪」


「はい」


 突然呼ばれ、澪の背筋が伸びた。


 顔を上げると、優真が立っていた。


「ちょっといい?」


「はい」


 優真が澪のデスクの横まで来る。


「昨日のことなんだけど」


「昨日?」


「呼び方」


「……」


 澪の指が止まった。


「業務上の呼称についてでしょうか」


「そんな固い話じゃないよ」


「ですが、二度間違えました」


「気にしてたの?」


「当然です」


「なんで?」


「公私の区別は必要です」


「別に仕事に支障出てないでしょ」


「出てはいません」


「じゃあいいよ」


「よくありません」


「そう?」


「はい」


 澪は少しだけ視線を落とす。


「これまでは問題なく区別できていました」


「うん」


「それが突然できなくなった理由が分かりません」


「……」


「再発する可能性があります」


「再発って」


 優真が笑う。


「そんな病気みたいに言わなくても」


「では、言い間違える可能性があります」


「それでもいいよ」


「ですが」


「俺は別に、どっちで呼ばれても気にしないし」


「……そうですか」


「うん」


 澪が小さく頷く。


 それなら。


 今後、間違えても必要以上に気にする必要はない。


 そう処理しようとした時だった。


「まあ」


「?」


 優真が少し考える。


「優真さんの方が嬉しいかな」


「……」


 澪の動きが止まった。


「……嬉しい?」


「うん」


「なぜですか?」


「なんでって言われても……」


 優真が少し困ったように笑う。


「澪に名前で呼ばれる方が嬉しいから」


「……」


「家ではずっとそう呼んでるし」


「はい」


「会社でも別にいいんじゃない?」


「……」


「嫌なら社長でいいけど」


「嫌ではありません」


 即答だった。


「そっか」


「はい」


「じゃあ、気にしなくていいよ」


「……分かりました」


「それだけ」


 優真は自分の席へ戻っていった。


「……」


 澪は、その背中を見る。


 名前で呼ばれる方が嬉しい。


「……」


 耳が熱い。


 澪はそっと耳へ触れる。


「……室温」


「今日は普通ですよ」


「……」


 横を見る。


 由奈だった。


「何でしょうか」


「何でもありません」


「そうですか」


「はい」


 由奈は笑いを堪えるように、自分のパソコンへ視線を戻した。


 澪も仕事へ戻る。


 しばらくして。


「澪」


 優真に呼ばれる。


「はい」


「この前の見積もり、出せる?」


「すでに作成しています」


「ほんと?」


「はい」


 澪はファイルを開く。


「社――」


 止まる。


「……」


 優真が待っている。


 澪は一瞬だけ迷った。


 優真さんの方が嬉しい。


 先ほど、そう言われた。


「……優真さん」


「うん」


「メールで送付します」


「ありがとう」


「はい」


 優真は普通に仕事へ戻った。


「……」


 澪の耳が、また少し熱くなる。


 だが。


 今度は言い間違いではない。


 自分で選んだ。


 優真が、その方が嬉しいと言ったから。


 なら。


 そう呼べばいい。


 昼休み。


「澪、昼どうする?」


 優真が声をかける。


「外食で問題ありません」


「じゃあ直人たちも――」


「優真さん」


「ん?」


「午後一時から打ち合わせがありますので、十二時四十分までには戻ってください」


「あ、そうだった」


「忘れていたのですか?」


「ちょっと」


「スケジュールは昨日共有しています」


「ごめん」


「気をつけてください」


「はい」


「……」


 澪は予定表へ視線を戻す。


 また。


 ちゃんと言えた。


「……」


 耳は少し熱い。


 それでも。


 優真は嬉しいと言った。


 なら、こちらの方がいい。


「……」


 その様子を、由奈が見ていた。


 何も言わない。


 ただ。


 口元を両手で押さえる。


「……っ!」


 椅子に座ったまま、両足をばたばたさせる。


「きゃーーーっ!」


「うるさい」


 陸がキーボードを打ちながら言った。


「だって!」


「仕事しろ」


「今、お昼休みです!」


「じゃあ飯食え」


「無理です!」


「何がだよ」


「澪さんが!」


「聞こえるぞ」


「だって、昨日まで社長だったのに!」


「由奈さん」


「はい!」


 澪が振り向く。


「何でしょうか」


「……」


 由奈は澪を見る。


 耳が、まだ少し赤い。


「何でもありません!」


「そうですか」


「はい!」


 澪が前を向く。


「……っ!」


 由奈は再び両足をばたばたさせた。


「きゃーーー!」


「だからうるせえって」


「陸さんには分からないんです!」


「分からなくていい」


「澪さん、絶対意識して呼んでますよ!」


「本人に聞けよ」


「聞きません!」


「なんでだよ」


「見てるだけでいいんです!」


「意味分からん」


「もう!」


 由奈はまだ何か言おうとしていた。


 だが。


 突然、動きが止まった。


「……」


 足も。


 声も。


 完全に止まる。


 陸が横を見る。


「……なんだよ」


「……」


 由奈は少し離れたところにいる二人を見る。


「優真さん」


「ん?」


「こちら、午後の打ち合わせで使用します」


「分かった。ありがとう」


「はい」


 澪は書類を優真に渡す。


 優真は自然に受け取った。


 それだけだった。


「……」


 由奈は胸の前で両手を組む。


「……尊い」


「は?」


「ふぅ……」


 深く息を吐く。


「尊い……」


「何が!?」


 陸が思わず突っ込んだ。


「全部です」


「全部ってなんだよ!」


「分からない人には分かりません」


「だから分かりたくねえって」


「……」


 澪が二人を見る。


「由奈さん」


「はい!」


「先ほどから呼吸が乱れていますが」


「……はい」


「体調が悪いのですか?」


「違います」


「では、なぜ深呼吸を?」


「澪さんのせいです」


「私?」


「はい」


「……」


 澪は少し考える。


「何かしましたか?」


「しました」


「何を?」


「それは言いません」


「なぜですか?」


「言ったら台無しなので」


「……意味が分かりません」


「そのままでいてください」


「?」


「由奈」


 陸が呆れた声を出す。


「もうやめとけ」


「陸さんには分かりません」


「さっきからそれしか言ってねえだろ」


 澪は二人を見たあと、優真へ視線を向ける。


「優真さん」


「何?」


「由奈さんの様子がおかしいのですが」


「……」


 優真が由奈を見る。


 由奈は再び両手で口元を押さえた。


「……っ!」


「……元気そうだから大丈夫じゃない?」


「そうでしょうか」


「たぶん」


「分かりました」


「きゃーーー!」


「由奈さん?」


「何でもありません!」


「……」


 澪は首をかしげた。


「優真さん、昼食に行きましょう」


「うん」


 二人が並んでオフィスを出ていく。


 扉が閉まった。


「……」


 由奈が静かになった。


 陸が警戒するように横を見る。


「今度はなんだよ」


「……」


「おい」


「……尊い」


「だから何が!?」


 由奈は陸のツッコミを無視して、二人が出ていった扉を見つめた。


「私、下手な恋愛リアリティショーより、こっちの方が好きかも」


「仕事場だぞ、ここ」


「毎日続きが見られるんですよ?」


「見るな」


「無理です」


「仕事しろ」


「今、お昼休みです!」


「……」


 陸は何も言えなくなった。


 由奈は満足そうに、二人が出ていった扉をもう一度見た。

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