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第37話 優真さん

 翌日。


 ネクシア。


 澪は数日分の業務を確認していた。


 自分が休んでいた間も、会社は問題なく動いている。


 請求処理。


 契約書。


 顧客対応。


 スケジュール管理。


「……」


 由奈が処理した書類を確認する。


 問題はない。


 直人が対応した案件も予定通り。


 陸の開発も進んでいる。


「澪さん」


「はい」


 由奈が少し不安そうに澪を見る。


「どうですか?」


「何がでしょうか」


「私がやったところです」


「問題ありません」


「本当ですか?」


「はい。適切に処理されています」


「よかったぁ……」


 由奈が胸を撫で下ろす。


「澪さんにチェックされるの、なんか緊張するんですよね」


「なぜですか?」


「細かいからです」


「確認は必要です」


「そういうところです」


「?」


 由奈が笑いながら自分の席へ戻る。


 澪は次の書類を開いた。


「……」


 一か所。


 優真の確認が必要な項目がある。


 澪は書類を持って立ち上がった。


 優真のデスクへ向かう。


「優真さん」


「ん?」


「こちらの契約書ですが、一点確認を――」


 優真の動きが止まった。


「……」


「……」


 直人の手が止まる。


 由奈も顔を上げる。


 陸のキーボードを叩く音まで止まった。


「?」


 澪だけが書類を見ている。


「こちらです」


「……澪」


「はい」


「今、なんて呼んだ?」


「何がでしょうか」


「俺のこと」


「……」


 澪が優真を見る。


「社長ですが」


「いや」


「?」


「優真さんって言わなかった?」


「……」


 澪の動きが止まった。


「言っていません」


「言ったよ」


「言っていません」


「いや、言ったって」


「社長と呼びました」


「澪さん」


 由奈が小さく手を上げる。


「はい」


「言いました」


「……」


「はっきり、優真さんって」


「……」


 澪が由奈を見る。


 陸も頷いた。


「言ったね」


「……」


 直人も口を開く。


「言うたな」


「……」


 三方向から証言された。


 澪は数秒、完全に停止した。


「……社長」


「うん」


「こちらの契約書ですが」


「なかったことにするんだ」


「一点、確認をお願いします」


「はい」


 優真は笑いを堪えながら書類を受け取った。


 澪は自分の席へ戻ろうとする。


「澪さん」


「何でしょうか」


 由奈だった。


「耳、赤いですよ」


「……」


 澪の足が止まった。


 反射的に耳へ手を当てる。


「……室温の影響です」


「そうなんですか?」


「はい」


 陸が室内を見回す。


「さっきまで普通だったけど」


「……」


「急にこの辺だけ暑くなった?」


「陸さん」


「はい」


「仕事をしてください」


「してるけど」


「では、続けてください」


「はいはい」


 澪は自分の席へ戻った。


 パソコンへ向かう。


「……」


 耳が熱い。


 室温。


 そういうことにする。


 仕事を再開した。


 十分ほど経った。


「澪さん」


「はい」


 由奈が書類を持ってくる。


「これ、取引先から戻ってきました」


「確認します」


「お願いします」


 澪が内容を見る。


「……」


 一か所。


 また優真の判断が必要だ。


「こちらは社長に確認します」


「はい」


 澪は書類を持って立ち上がる。


 今度は意識する。


 社長。


 会社では社長。


 それでいい。


 優真のデスクへ向かう。


「社長」


「はい」


「こちらですが」


「うん」


「先方から条件変更の希望が出ています」


「どこ?」


「こちらです」


 澪が指を差す。


「これくらいなら大丈夫かな」


「では、修正版を作成します」


「お願い」


「はい」


 問題ない。


 いつも通りだ。


 澪は席へ戻った。


 さらに仕事を続ける。


 電話。


 メール。


 書類。


 スケジュール。


 しばらくして。


「澪」


「はい」


 優真が呼ぶ。


「さっきの案件なんだけど」


「はい」


「先方に納期も確認してもらえる?」


「分かりました」


「できれば今日中に」


「はい」


 澪はメモを取る。


「他には?」


「今のところ大丈夫」


「分かりました」


 優真が自分の席へ戻ろうとする。


 澪は画面を確認した。


「あ、優真さん」


「うん?」


「こちらも――」


「……」


「……」


 止まった。


 今度は。


 澪自身が、言った瞬間に気づいた。


「……」


 優真が振り返る。


「また言ったね」


「……」


 由奈が顔を上げる。


 陸も見る。


 直人までこちらを見ている。


「……社長」


「うん」


「こちらも確認をお願いします」


「はい」


 優真が戻ってくる。


 澪は画面を指す。


「この金額で進めて問題ありませんか」


「大丈夫」


「分かりました」


「……」


「何でしょうか」


「いや」


 優真が少し笑う。


「別に会社でも優真さんでいいよ」


「いけません」


「なんで?」


「公私の区別が必要です」


「じゃあ社長で」


「はい」


「でも家では優真さん?」


「当然です」


「そっか」


「……」


 また耳が熱くなった。


 優真は気づいていない。


 そのまま自分の席へ戻っていく。


「……」


 澪はパソコンへ視線を戻した。


 すると。


「……」


 視線を感じる。


 顔を上げる。


 由奈と目が合った。


「何でしょうか」


「いえ」


「何かありますか?」


「何もありません」


「……」


 由奈はすぐに自分のパソコンへ視線を戻した。


 だが。


 口元が少し緩んでいる。


「由奈さん」


「はい」


「何でしょうか」


「何もないです」


「そうですか」


「はい」


 澪は再び仕事へ戻る。


「……」


 そっと耳に触れた。


 まだ熱い。


 なぜ間違えたのか。


 一度なら、単純な言い間違いで処理できる。


 二度。


「……」


 澪は小さく息を吐く。


「社長」


 誰にも聞こえない声で確認する。


「……社長」


 もう一度。


「……」


 少し間を置く。


「優真さん」


 自分で言って。


 また耳が熱くなった。


「……」


 澪は何も言わず、書類に視線を戻した。

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