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第36話 解雇されました

 玄関の扉が開いた。


「ただいま帰りました」


「おかえり」


 リビングから優真の声が返ってくる。


 澪は靴を脱ぎ、鞄を置いた。


「……」


 予定していた時間より、かなり早い。


 リビングへ入ると、優真がソファから顔を上げた。


「早かったね」


「はい」


「今日はバイトじゃなかった?」


「その件ですが」


「うん」


 澪は優真の前に立った。


「解雇されました」


「……え?」


 優真の動きが止まった。


「解雇されました」


「いや、聞こえたけど」


「そうですか」


「なんで!?」


「既婚者だからです」


「……え?」


「Milky Caféでは、既婚者の勤務を認めていないそうです」


「……」


 優真はしばらく澪を見る。


「そんなルールあるの?」


「あるそうです」


「知らなかったの?」


「はい。求人情報には記載されていませんでした」


「じゃあ、店が悪いんじゃない?」


「面接時に確認する決まりだったそうです」


「確認された?」


「されていません」


「……それでクビ?」


「はい」


「澪、悪くないじゃん」


「高橋さんも、自分の確認不足だと謝罪されていました」


「じゃあ、なおさら……」


「規則であれば仕方ありません」


「いや、まあ……そうなのかな」


 優真は納得できていない顔をしている。


 澪はソファへ座った。


「ですが、問題ありません」


「……問題ないの?」


「はい」


「せっかく仕事覚えたのに」


「元々、本日辞めるつもりでしたので」


「……え?」


 優真が澪を見る。


「辞めるつもりだったの?」


「はい」


「なんで?」


「……」


 澪は一瞬だけ黙った。


「本業との両立が困難だと判断しました」


「そっか」


「実際に体調管理にも失敗しています」


「うん」


「勤務日数を減らすことも検討しましたが、今後ネクシアの業務が増加すれば、同様の問題が発生する可能性があります」


「そうだね」


「それに」


 澪の言葉が止まった。


「……」


「それに?」


「……」


 優真を見る。


 数日前。


『本当は、あの店で働いてほしくなかった』


 そう言った優真の顔が浮かぶ。


「澪?」


「……優真さんも」


「俺?」


「働いてほしくないと、おっしゃっていましたので」


「……」


 今度は優真が黙った。


「それも、判断材料の一つです」


「……そっか」


「はい」


「……」


「……」


 少しだけ沈黙が続く。


 澪には、その沈黙の理由が分からなかった。


「優真さん?」


「いや」


「何でしょうか」


「ちゃんと考えてくれたんだなって」


「当然です」


「俺が言ったこと」


「はい」


「……そっか」


 優真が少し嬉しそうに笑った。


「……」


 澪はその顔を見る。


 なぜ嬉しそうなのか。


 分からない。


 だが。


「……」


 なぜか、目を逸らした。


「どうしたの?」


「何でもありません」


「そう?」


「はい」


 澪は鞄からスマートフォンを取り出す。


「なお、高橋さんからは、お客としての来店は歓迎すると言われました」


「客?」


「はい」


「まあ、そりゃそうだよね」


「今度は旦那さんと一緒に来てください、と」


「……俺と?」


「はい」


「……」


「どうしました?」


「いや、あの店に?」


「はい」


「二人で?」


「そう言われました」


 優真は少し考える。


「澪は行きたい?」


「……」


 その聞き方。


 どこかで聞いた。


『食べたい?』


 スーパーで、いちごを見ていた時。


 必要かどうかではなく。


 自分が食べたいか。


 優真は、そう聞いた。


「……澪?」


「はい」


「行きたくないなら、別に行かなくてもいいけど」


「……」


 澪は考える。


 働く必要はない。


 料理を覚える必要もない。


 収入にもならない。


 合理的な目的は、特にない。


 だが。


「一度くらいであれば」


「行ってみる?」


「……はい」


「じゃあ今度行こうか」


「はい」


 優真はそれ以上、理由を聞かなかった。


「……」


 澪は、また優真の顔を見る。


「何?」


「いえ」


「今日、なんか俺の顔見るね」


「見ていません」


「今見てたよ?」


「見ていません」


「いや、目合ったじゃん」


「偶然です」


「そう?」


「はい」


 澪は立ち上がった。


「夕食を準備します」


「今日は何?」


「まだ決めていません」


「圧力鍋使う?」


 澪の足が止まる。


「……使用してもよろしいですか?」


「なんで俺に聞くの?」


「優真さんが購入されたものですので」


「澪に買ったんだから、好きに使っていいよ」


「……」


「使いたかったんでしょ?」


「はい」


「じゃあ使おう」


「……はい」


 キッチンへ向かう。


 電子圧力鍋を見る。


 優真が、自分のために買ってくれたもの。


 その横に、スーパーで一緒に買ったラカントが置かれている。


 冷蔵庫には、残った豆乳といちご。


「……」


 なぜか。


 それらが以前より少しだけ違って見えた。


「澪」


「はい」


「今日、何作る?」


「現在考えています」


「カレーとか?」


「材料はあります」


「じゃあカレー食べたい」


「分かりました」


 澪は電子圧力鍋の蓋を開けた。


「優真さん」


「何?」


「辛さは?」


「中辛」


「分かりました」


 材料を取り出す。


 玉ねぎ。


 にんじん。


 じゃがいも。


 肉。


 いつもの夕食。


 ただ、それだけだ。


「……」


 澪は玉ねぎを切りながら、ふとリビングを見る。


 優真はソファでスマートフォンを見ている。


 すぐに視線を戻す。


「……」


 数秒後。


 また見る。


「……?」


 優真が顔を上げた。


 澪はすぐに玉ねぎへ視線を戻した。


「澪?」


「何でしょうか」


「今、見てた?」


「見ていません」


「……そっか」


「はい」


 包丁を動かす。


「……」


 なぜ見たのか。


 自分でも分からない。


 ただ。


 なんとなく。


 そこに優真がいることを、確認したくなっただけだった。

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