第35話 クビです
数日後。
澪はMilky Caféの前に立っていた。
「……」
体調は完全に戻っている。
熱もない。
立ちくらみもない。
食欲も普段通り。
今日からネクシアにも復帰していた。
そして仕事を終えたあと。
澪はここへ来た。
ただし。
今日は働くためではない。
「……」
澪は一度、店の看板を見る。
短い期間だった。
接客は得意ではなかった。
最初は「おかえりなさいませ、ご主人様」と言うことにも違和感があった。
それでも。
料理を覚えた。
スイーツの作り方も教えてもらった。
楽しくなかったわけではない。
だが。
続けない方がいい。
体調を崩したこと。
本業があること。
そして。
『本当は、あの店で働いてほしくなかった』
優真の言葉。
「……」
それだけで判断したわけではない。
だが、無視する必要もない。
澪は扉を開けた。
ベルが鳴る。
「おかえりなさいませ――あっ」
店員が澪に気づいた。
「澪さん!」
「お久しぶりです」
「もう大丈夫なんですか?」
「はい。完全に回復しました」
「よかったぁ」
店員が安心したように笑う。
「高橋さん呼んできますね」
「お願いします」
少しして、店の奥から高橋が出てきた。
「あっ、澪さん!」
「お久しぶりです」
「大丈夫なんですか?」
「はい」
「本当に?」
「はい。体温、食欲、睡眠時間、すべて正常です」
「そこまで聞いてないですけど」
「必要であれば記録もあります」
「大丈夫です」
「そうですか」
高橋が苦笑する。
「でも、本当によかったです。あの日はびっくりしましたよ」
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑じゃないですよ。こっちこそ、最後まで働かせちゃって」
「私が勤務継続を希望しました」
「そうなんですけど……」
「高橋さん」
「はい」
「本日は、お話があります」
「あっ」
「?」
高橋の表情が変わった。
「澪さん」
「はい」
「その前に、私からいいですか?」
「構いません」
「……すみません」
突然、高橋が頭を下げた。
「?」
「何でしょうか」
「私、澪さんに大事なこと伝えるの忘れてました」
「大事なこと?」
「はい」
高橋は顔を上げる。
「この前、旦那さんが迎えに来たじゃないですか」
「はい」
「あの時に初めて知ったんですけど」
「何をでしょうか」
「澪さん、結婚してたんですね」
「はい」
「……」
「?」
「その……」
高橋が申し訳なさそうな顔をする。
「うちのお店、既婚者はお断りしてるんです」
「……」
澪が止まった。
「既婚者は勤務できないということでしょうか」
「はい」
「求人情報には記載されていませんでした」
「そうなんです」
高橋がすぐに頷く。
「面接の時に確認することになってるんですけど、私がすっかり忘れてて」
「確認されませんでした」
「はい……」
「私から申告もしていません」
「それは澪さん悪くないですよ。私が聞かなかったので」
「そうですか」
「本当にすみません」
「では」
澪は少し考える。
「私は勤務条件を満たしていない?」
「……そうなります」
「分かりました」
「え?」
「規則であれば仕方ありません」
「あの……」
「次回以降のシフトは取り消しでしょうか」
「はい」
「つまり」
澪が確認する。
「私は解雇されるという認識でよろしいですか?」
「言い方が重いなぁ……」
「違うのですか?」
「違わないんですけど」
高橋は言いにくそうに視線を逸らした。
そして。
「本当に申し訳ないんですけど……澪さんはクビです」
「分かりました」
「……」
「何でしょうか」
「もう少し怒ったりしません?」
「なぜですか?」
「こっちの確認不足ですよ?」
「はい」
「それで急にクビって」
「規則であれば仕方ありません」
「……そうですか」
「それに」
澪が続ける。
「ちょうどよかったです」
「え?」
「本日、私もアルバイトを辞めたいとお伝えする予定でした」
「……」
高橋が瞬きをする。
「辞めるつもりだったんですか?」
「はい」
「どうして?」
「複数の理由があります」
「体調?」
「それもあります」
澪は頷く。
「本業とアルバイトを並行した結果、体調管理に失敗しました」
「……はい」
「勤務日数を減らす方法も検討しましたが」
「はい」
「現在の生活では、継続しない方が適切だと判断しました」
「そうだったんですね」
「はい」
「……」
高橋が小さく息を吐いた。
「よかった……」
「?」
「あっ」
「何がよかったのでしょうか」
「いえ!」
高橋が慌てて首を横に振る。
「よくはないですよ!」
「今、よかったと」
「言葉の綾です」
「そうですか」
「はい」
「分かりました」
澪はあっさり納得した。
高橋は少しだけ胸を撫で下ろす。
「それにしても」
「はい」
「短い間でしたけど、澪さん仕事覚えるの早かったですよね」
「ありがとうございます」
「オムライスの猫も上手でしたし」
「練習しましたので」
「おいしくなあれも、最後の方は結構自然でしたよ」
「……」
「どうしました?」
「思い出す必要はありません」
「恥ずかしいんですか?」
「業務です」
「はいはい」
高橋が笑う。
「でも、料理はどうです?」
「続けています」
「本当?」
「先日、豆乳プリンを作りました」
「おお!」
「電子圧力鍋を使用しました」
「買ったんですか?」
「優真さんに買っていただきました」
「……旦那さんに?」
「はい」
高橋の表情が少し柔らかくなる。
「そうなんですね」
「はい」
「美味しくできました?」
「はい」
「よかった」
「次は配合を変更する予定です」
「澪さんらしいですね」
「?」
「何でもないです」
高橋は笑った。
「料理が楽しいなら、これからも続けてくださいね」
「はい」
「別に仕事にしなくても、料理はできますから」
「……」
澪が少しだけ考える。
「そうですね」
「料理教室にも通ってるんですよね?」
「はい」
「だったら十分ですよ」
「……はい」
澪は小さく頷いた。
「高橋さん」
「はい」
「短い期間でしたが、お世話になりました」
澪が頭を下げる。
「こちらこそ」
「スイーツの調理についても、勉強になりました」
「それならよかったです」
「ありがとうございました」
「はい」
澪が帰ろうとする。
「あ、澪さん」
「何でしょうか」
「働くのはダメですけど」
「はい」
「お客さんとしては大歓迎ですからね」
「客として?」
「もちろん」
高橋が笑う。
「今度は旦那さんと一緒に来てください」
「優真さんと?」
「はい」
「……」
澪は考える。
優真と、この店。
そして思い出す。
昼休み。
何も知らずに直人と入ってきた優真。
自分を見て固まった顔。
猫のオムライス。
『おいしくなあれ』
「……」
「どうしました?」
「いえ」
「旦那さん、オムライス食べてましたよね?」
「はい」
「じゃあ今度は二人で」
「……」
「澪さんもお客さんなら、私たちに『おいしくなあれ』ってしてもらえますよ」
「必要ありません」
「即答ですね」
「はい」
高橋が笑う。
「でも、本当に気が向いたら来てくださいね」
「……検討します」
「はい」
澪はもう一度頭を下げた。
「では、失礼します」
「お疲れさまでした、澪さん」
「お疲れさまでした」
店を出る。
扉が閉まった。
「……」
澪は店の前で立ち止まった。
辞めるつもりで来た。
結果として。
辞めると伝える前に、クビになった。
「……」
大きな違いはない。
目的は達成された。
それでも。
「クビ……」
人生で二度目だった。
「……」
前回とは、ずいぶん事情が違う。
澪はスマートフォンを取り出した。
優真にメッセージを送る。
『予定より早く帰宅します』
すぐに返信が来た。
『分かった。気をつけて帰ってきて』
「……」
理由までは書かなかった。
帰宅してから説明すればいい。
スマートフォンを鞄へ戻す。
そして。
澪は家へ向かって歩き始めた。




