第33話 嘘
三日目の夕方。
澪はリビングのソファで、料理のレシピを見ていた。
電子圧力鍋。
煮込み。
無水調理。
蒸し料理。
低温調理。
そして、豆乳プリン。
「……」
やはり便利だ。
だが、購入するのは来月。
今月は壺を買っている。
予算は守る。
それで問題ない。
「澪」
「はい」
優真が立ち上がった。
「ちょっと出てくる」
「どちらへ?」
「買い物」
「夕食の材料ですか?」
「まあ、そんな感じ」
「必要なものがあれば、一覧にしますが」
「大丈夫」
「そうですか」
「すぐ戻るよ」
「分かりました」
優真が出ていく。
澪は再びタブレットへ視線を戻した。
電子圧力鍋の商品ページ。
すでに候補は三機種まで絞っている。
容量。
消費電力。
サイズ。
調理モード。
価格。
「……来月ですね」
タブを閉じた。
しばらくして。
玄関が開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「澪、ちょっと来て」
「何でしょうか」
リビングへ向かう。
優真は大きな箱を抱えていた。
「……」
澪が止まる。
見覚えがある。
というより。
今日、何度も見た。
「優真さん」
「うん」
「それは」
「電子圧力鍋」
「見れば分かります」
「だよね」
「なぜ持っているのですか」
「買ったから」
「……」
澪が箱を見る。
商品名を確認する。
「……」
自分が候補に入れていた機種だった。
「なぜですか」
「欲しかったんでしょ?」
「はい。ですが、購入は来月です」
「知ってる」
「今月は壺を購入しています」
「それも知ってる」
「では、なぜ?」
「俺が買ったから、澪の予算は減ってないよ」
「そういう問題ではありません」
「そう?」
「はい」
澪は箱を見る。
「これは、優真さんのお金です」
「うん」
「高額です」
「払えるよ」
「払えるかどうかではありません」
「じゃあ、何が問題?」
「……」
澪が言葉に詰まる。
欲しかった。
確かに欲しかった。
だが。
自分で買う予定だった。
「返品は可能ですか?」
「え?」
「未開封であれば――」
「返品しないよ」
「ですが」
「澪」
優真の声が少し変わった。
「はい」
「ごめん」
「……」
澪が止まった。
「何がでしょうか」
「俺、澪に嘘ついた」
「嘘?」
「うん」
優真は箱から手を離した。
少しだけ視線を落とす。
「この前さ」
「はい」
「バイトのこと話したでしょ」
「はい」
「澪がやりたいなら続ければいいって言った」
「……はい」
「俺が決めることじゃないって」
「はい」
「無理しなければ、それでいいって」
澪は黙って聞いていた。
「でも」
優真が顔を上げる。
「本当は、あの店で働いてほしくなかった」
「……」
澪の表情が止まる。
「なぜですか」
「……」
今度は優真が黙った。
少し考えてから、口を開く。
「嫌だったから」
「何がでしょうか」
「澪がメイド服着て」
「……」
「知らない男の人に、ご主人様って言って」
「……」
「オムライスに絵描いて」
「業務です」
「分かってる」
「『おいしくなあれ』も業務です」
「それも分かってるよ」
「では――」
「分かってても嫌だった」
「……」
澪が黙った。
優真は少し困ったように笑う。
「変だよね」
「……」
「でも、嫌だった」
澪には、その理由が理解できない。
「なぜですか」
「……それは」
優真が言葉に詰まる。
答えは、たぶんある。
けれど。
まだ、それを口にすることはできなかった。
「俺たち、契約結婚でしょ」
「……はい」
「本当の夫婦じゃない」
「……」
「だから、こんなこと言う資格ないと思った」
澪の指が、わずかに動いた。
「澪がどこで働くかは、澪が決めることだし」
「はい」
「俺が嫌だからやめてなんて」
優真は小さく息を吐く。
「そんなこと、言っていい立場じゃないと思った」
「……」
「だから言わなかった」
「……」
「澪がやりたいなら続ければいいって言った」
「はい」
「でも」
優真の表情が変わる。
「あの日」
「……」
「朝から顔色悪かった」
「はい」
「会社でも、由奈さんも陸も止めた」
「……はい」
「俺も止めた」
「はい」
「でも最後は、澪が決めることだからって」
優真は拳を握る。
「行かせた」
「……」
「もっとちゃんと止めればよかった」
「優真さん」
「澪が倒れたの」
優真が澪を見る。
「俺のせいだと思ってる」
「違います」
即答だった。
「私が自分で判断しました」
「うん」
「アルバイトを始めたのも私です」
「うん」
「体調管理に失敗したのも私です」
「分かってる」
「では、優真さんに責任はありません」
「……うん」
「私は子供ではありません」
「分かってるよ」
「自分の行動には、自分で責任を持ちます」
「うん」
「ですから――」
「それでも」
優真が遮った。
「……」
「夫として、止めたかった」
澪が止まる。
「……夫として?」
「うん」
「ですが」
澪の口から、自然と言葉が出る。
「先ほど、本当の夫婦ではないと」
「……そうだね」
「矛盾しています」
「うん」
「……」
「俺もそう思う」
優真は少し笑った。
「自分でもよく分からない」
「……」
「契約なんだから、澪が何してても関係ないはずなのに」
「……」
「でも、関係ないって思えなかった」
澪は答えられない。
契約上の夫婦。
互いの生活に必要以上に干渉しない。
それが最初に決めたことだった。
なのに。
優真は今。
夫として止めたかったと言っている。
「だからさ」
優真が電子圧力鍋を見る。
「これから、こういう欲しいものがあったら」
「……」
「俺に買わせてほしい」
「なぜですか」
「今回みたいに、欲しいもの買うために無理して働くくらいなら」
「アルバイトの目的は、それだけではありません」
「分かってる」
「調理経験も――」
「それも分かってるよ」
「……」
「全部とは言わない」
優真が少し笑う。
「壺とかは知らないけど」
「壺も必要です」
「そこは自分で買って」
「なぜですか」
「俺、壺の価値分かんないし」
「私も分かりません」
「分かってないの?」
「鑑定はできませんので」
「それで買ってるの?」
「はい」
「……じゃあ、なおさら自分で買って」
「分かりました」
ほんの少し。
張り詰めていた空気が緩んだ。
優真は電子圧力鍋へ手を置く。
「でも、料理に使うものとか」
「はい」
「家で二人で使うものとか」
「……」
「そういうのは、俺にも買わせて」
「なぜですか」
澪がもう一度聞いた。
優真は少し困ったように笑う。
「夫だから、じゃダメ?」
「……」
澪は答えられなかった。
夫。
確かにそうだ。
書類上は。
契約上も。
けれど。
今、優真が言った『夫』は。
これまで二人が使っていた意味とは、少し違う気がした。
「……」
澪は電子圧力鍋を見る。
「開けないの?」
「……よろしいのですか」
「そのために買ったんだから」
「返品は?」
「しない」
「……」
澪は箱へ手を伸ばす。
テープを丁寧に剥がす。
箱を開ける。
「……」
中から本体を取り出す。
「どう?」
「まだ使用していませんので、評価できません」
「そうじゃなくて」
「?」
「嬉しい?」
「……」
澪が止まった。
合理的。
便利。
効率的。
そういう答えなら、すぐに出せる。
だが。
優真が聞いているのは、それではない。
「……はい」
小さな声だった。
「嬉しいです」
優真が笑った。
「そっか」
「ありがとうございます」
「うん」
澪はもう一度、電子圧力鍋を見る。
「豆乳プリンが作れます」
「最初にそれ?」
「はい」
「じゃあ作ってよ」
「本日はまだ休養日です」
「……ちゃんと覚えてるね」
「当然です」
「じゃあ明日?」
「はい」
澪は頷いた。
「明日、作ります」
その返事は。
いつもの「問題ありません」よりも。
ずっと素直だった。




