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第32話 休んでください

 家に着くと、優真は澪をそのまま寝室へ連れていった。


「座って」


「はい」


 澪がベッドに腰を下ろす。


「体温計どこ?」


「洗面所の収納、上から二段目です」


「分かった」


 優真が寝室を出ていく。


 澪はベッドに座ったまま、時計を見た。


「……」


 予定より帰宅が遅れている。


 夕食。


 洗濯。


 明日の準備。


「……優真さん」


「何?」


 体温計を持って戻ってきた優真が答える。


「夕食の準備が」


「しなくていいよ」


「ですが」


「今日はいい」


「冷蔵庫に――」


「澪」


「はい」


「体温」


「……分かりました」


 体温計を受け取る。


 しばらくして、電子音が鳴った。


 優真が表示を見る。


「三十八度一分」


「……」


「熱あるじゃん」


「微熱の範囲では」


「三十八度超えてるよ」


「……」


「今日はもう寝て」


「入浴は?」


「なし」


「洗濯は?」


「俺がやる」


「優真さんが?」


「洗濯くらいできるよ」


「手順を説明します」


「いいから」


「洗剤の量は――」


「澪」


「はい」


「寝て」


「……はい」


 優真は布団をかけた。


「水持ってくる」


「ありがとうございます」


「他に何かいる?」


「ありません」


「本当に?」


「はい」


 優真が寝室を出る。


 少しして、水と冷却シートを持って戻ってきた。


「はい」


「……冷却シート?」


「あったから」


「必須ではありません」


「いいから貼るよ」


「自分でできます」


「今日は俺がやる」


「……」


 優真が澪の額に冷却シートを貼る。


「冷たいです」


「そりゃそうでしょ」


「必要性は――」


「気持ちいい?」


「……」


 少し間があった。


「はい」


「じゃあいいじゃん」


「……そうですね」


 優真が笑う。


「今日はもう寝てて」


「はい」


 部屋を出ようとする。


「優真さん」


「ん?」


「申し訳ありません」


「何が?」


「迎えに来ていただいて」


「夫なんだから、それくらいするよ」


「……」


「おやすみ」


「……おやすみなさい」


 優真が寝室を出る。


 澪は額の冷たさを感じながら、目を閉じた。


 翌朝。


 優真が寝室を出ると、リビングから小さくキーボードを叩く音が聞こえた。


「……?」


 時計を見る。


 まだ、いつもの出勤時間よりかなり早い。


 嫌な予感がした。


 リビングへ向かう。


「……何してるの?」


 澪はダイニングテーブルに座っていた。


 すでに着替えを済ませ、ノートパソコンを開いている。


「メールの確認です」


「寝てて」


「熱は下がりました」


「何度?」


「三十七度四分です」


「あるじゃん」


「昨日より低下しています」


「あるよ」


「業務に支障が出る体温ではありません」


「出るから」


「本日は重要な打ち合わせがあります」


「直人に任せる」


「契約関係の確認も」


「由奈さんに送って」


「最終確認は私が――」


 優真はノートパソコンを閉じた。


「……」


 澪が優真を見る。


「何をするのですか」


「休ませてる」


「まだメールの確認が終わっていません」


「終わらなくていい」


「五分で済みます」


「ダメ」


「三分でも」


「ダメ」


「確認だけです」


「ダメ」


「……」


 澪の眉がわずかに寄る。


「返してください」


「返さない」


「私のパソコンです」


「知ってる」


「業務に必要です」


「今日は必要ない」


「優真さん」


「はい」


「横暴です」


「今日は横暴でいいよ」


「……」


「ベッド戻って」


「ですが――」


 インターホンが鳴った。


「誰?」


「分かりません」


 優真が玄関へ向かう。


 扉を開ける。


「おはようございます」


 由奈だった。


「……由奈さん?」


「社長、おはようございます」


「どうしたの?」


「これ」


 由奈が紙袋を持ち上げる。


「ゼリーとかスポーツドリンクとかです」


「わざわざ?」


「昨日あんな状態で帰ったら、そりゃ心配しますよ」


「ありがとう」


「澪さんは?」


「仕事しようとしてる」


「……は?」


 由奈の表情が変わった。


「ちょっと入っていいですか?」


「どうぞ」


 由奈がリビングへ入る。


「澪さん」


「おはようございます」


「何してるんですか?」


「メールの確認を」


「休んでください」


「由奈さん」


「はい」


「本日の打ち合わせですが――」


「直人さんが行きます」


「契約書は?」


「陸さんと確認します」


「請求処理は?」


「私がやります」


「ですが――」


「澪さん」


「はい」


「会社、澪さん一人でやってるんじゃないんですよ」


「……」


 澪が黙った。


「私もいます」


「はい」


「直人さんもいます」


「はい」


「陸さんもいます」


「はい」


「社長も……」


 由奈が優真を見る。


「一応います」


「一応?」


「そこはいいんです」


「よくないよ」


「今は澪さんの話です」


「……はい」


 由奈が澪へ向き直る。


「一日くらい任せてください」


「一日ではありません」


「え?」


「高橋さんから、三日休むように言われています」


「じゃあ三日休んでください」


「三日は長すぎます」


「昨日倒れた人が決めることじゃないです!」


「……」


 澪が少しだけ目を見開いた。


「すみません」


「いえ」


「でも、本当に休んでください」


「……はい」


「絶対ですよ?」


「はい」


 由奈が優真を見る。


「社長」


「何?」


「見張っててください」


「分かった」


「パソコンも触らせないでください」


「スマートフォンは必要です」


「澪さん」


「はい」


「仕事の連絡は私たちが何とかします」


「……」


「だから、今日は休んでください」


「分かりました」


「じゃあ、会社戻ります」


「ありがとう、由奈さん」


「いえ」


 由奈は玄関へ向かう。


 途中で振り返った。


「澪さん」


「はい」


「ちゃんと治してから来てくださいね」


「……分かりました」


「お大事に」


 扉が閉まった。


「……」


「……」


 澪が優真を見る。


「由奈さんは、以前より発言が強くなりましたね」


「誰のせいだと思う?」


「分かりません」


「だろうね」


 優真は笑った。


「ベッド戻ろうか」


「熱は下がっています」


「戻ろうか」


「……」


「澪?」


「分かりました」


 澪は立ち上がる。


「ふらつかない?」


「昨日ほどではありません」


「じゃあ、ゆっくりね」


「はい」


 寝室までついていく。


 澪がベッドに入るのを確認してから、優真は水を置いた。


「何か食べられそう?」


「食欲はあまりありません」


「ゼリーにする?」


「由奈さんが持ってきたものですか?」


「うん」


「では、それを」


「分かった」


 優真はゼリーを持ってくる。


 澪は半分ほど食べたところで手を止めた。


「もういい?」


「はい」


「じゃあ残しといていいよ」


「食品ロスになります」


「元気になってから考えて」


「……はい」


 優真が容器を受け取る。


「優真さん」


「何?」


「会社は?」


「今日は少し遅れて行く」


「私のために?」


「うん」


「必要ありません」


「俺がそうしたいだけ」


「……」


「昼にも一回戻ってくるから」


「そこまでしなくても」


「俺がそうしたいだけ」


 同じ言葉だった。


「……分かりました」


 その日の昼。


 優真は本当に戻ってきた。


「ただいま」


「……おかえりなさい」


 寝室から澪の声がする。


「熱は?」


「三十七度一分です」


「下がってきたね」


「はい」


「何か食べる?」


「少しなら」


「お粥作ろうか」


「優真さんが?」


「その反応やめて」


「料理をする印象がありませんでしたので」


「簡単なのならできるよ」


「そうですか」


「卵入れる?」


「タンパク質が取れます」


「じゃあ入れる」


 しばらくして。


 優真が卵粥を持ってきた。


「はい」


「ありがとうございます」


 澪が一口食べる。


「……」


「どう?」


「問題ありません」


「あ」


「?」


「言った」


「何をですか?」


「問題ありません」


「……」


「昨日禁止したでしょ」


「昨日だけでは?」


「そうだった」


「では問題ありません」


「二回言った」


「……」


 優真が笑う。


 澪も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 二日目。


 熱はほぼ下がった。


 そして。


「優真さん」


「ダメ」


「まだ何も言っていません」


「仕事でしょ?」


「……はい」


「ダメ」


「体温は三十六度七分です」


「知ってる」


「平熱です」


「知ってる」


「では出勤可能です」


「高橋さん、何日休めって?」


「三日です」


「今日は?」


「二日目です」


「じゃあ休み」


「ネクシアの勤務について、高橋さんに決定権はありません」


「そこ突いてくる?」


「事実です」


「じゃあ俺が休んでって言う」


「優真さんにも、私の勤務について決定権は――」


「夫としてお願いする」


「……」


 澪が止まった。


「今日も休んで」


「……」


「お願い」


 少し長い沈黙。


「……分かりました」


「ありがとう」


 澪はソファに座り直した。


「何か食べたいものある?」


「特には」


「じゃあ、またお粥?」


「昨日と同じでは栄養が偏ります」


「急に元気になったね」


「体調は回復しています」


「じゃあ、うどん?」


「卵を入れてください」


「はいはい」


「野菜も」


「注文増えてない?」


「栄養バランスです」


「分かりました」


 優真がキッチンへ向かう。


 澪は、その背中を見ていた。


 三日目。


 朝。


 澪は体温計を確認した。


 三十六度五分。


 食欲もある。


 立ちくらみもない。


 身体の重さも消えている。


 リビングへ行く。


「おはよう」


「おはようございます」


「体調どう?」


「回復しています」


「ほんと?」


「はい」


「ふらつかない?」


「ありません」


「食欲は?」


「あります」


「熱は?」


「三十六度五分です」


「そっか」


 優真は安心したように息を吐いた。


「よかった」


「ご心配をおかけしました」


「ほんとだよ」


「申し訳ありません」


「謝らなくていいけど」


「はい」


「じゃあ今日までゆっくりして」


「……」


「澪?」


「本日は出勤します」


「え?」


「体調は回復しました」


「今日も休みじゃないの?」


「三日目です」


「三日休んでって言われたんでしょ?」


「倒れた当日を一日目と解釈することも可能です」


「そう来たか」


「間違いではありません」


「間違いじゃないけどさ」


「業務も確認したいです」


「明日でいいよ」


「……」


「由奈さんたちに任せたんでしょ?」


「はい」


「信用してる?」


「もちろんです」


「じゃあ、今日まで任せよう」


「ですが」


「お願い」


「……」


 また、その言葉だった。


「分かりました」


「よし」


 優真が笑う。


「じゃあ今日は何もしない」


「何もしない?」


「休む」


「……非効率です」


「知ってる」


 澪は少し考える。


「では、料理のレシピを確認する程度なら」


「それはいいよ」


「電子圧力鍋があれば作れる料理も調べます」


「……」


 優真の動きが、ほんの一瞬止まった。


「まだ欲しいんだ?」


「はい」


「買わないの?」


「購入は来月です」


「なんで?」


「今月は壺を購入していますので」


「……ああ」


「予算は守ります」


「そっか」


「それに、バイトを継続すれば追加収入もあります」


「……」


 優真は何も言わなかった。


 澪はタブレットを開く。


 電子圧力鍋。


 煮込み料理。


 無水調理。


 蒸し料理。


 プリン。


「……これなら可能ですね」


「何が?」


「豆乳プリンです」


「ああ、最初に作りたかったやつ?」


「はい」


「そっか」


 澪は画面をスクロールする。


「角煮も作れます」


「いいね」


「カレーも調理時間を短縮できます」


「それもいい」


「低温調理に対応している機種もあります」


「結構いろいろできるんだね」


「はい」


 澪は次々と機能を確認していく。


 優真は、その横顔を見ていた。


 仕事の資料を確認している時とは、少し違う。


 ほんのわずかだが。


 楽しそうに見えた。


「……」


 優真は何も言わず、スマートフォンを手に取った。

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