第31話 限界
朝。
目覚ましが鳴るより少し早く、澪は目を覚ました。
「……」
天井を見る。
身体が重い。
いつもなら、目が覚めればすぐに起き上がれる。
今日は少し違った。
澪は時計を確認する。
予定より五分早い。
「問題ありません」
ゆっくりと身体を起こす。
睡眠時間は確保している。
今日の予定も確認済みだ。
午前からネクシア。
仕事を終えたあと、Milky Café。
帰宅後に家事。
すべて予定表に入っている。
管理できる範囲。
ベッドから降りる。
「……」
一瞬、身体がふらついた。
澪は壁に手をつく。
数秒。
待てば収まった。
「……問題ありません」
そのまま寝室を出た。
朝食を用意する。
サラダ。
サラダチキン。
納豆。
スムージー。
いつも通り。
「おはよう」
優真がリビングへ入ってきた。
「おはようございます」
「……澪」
「はい」
「眠い?」
「いいえ」
「そう?」
「はい」
優真が澪の顔を見る。
「顔色悪くない?」
「問題ありません」
「またそれ?」
「睡眠時間は確保しています」
「何時間?」
「六時間四十二分です」
「細かいね」
「計測していますので」
澪は朝食を並べる。
「今日、バイト?」
「はい」
「会社終わってから?」
「はい」
「休んだら?」
澪の手が止まった。
「なぜですか?」
「疲れてそうだから」
「問題ありません」
「でも――」
「本日はシフトが入っています」
「代わってもらえないの?」
「直前の変更は店舗に迷惑がかかります」
「体調悪いなら仕方ないでしょ」
「体調不良ではありません」
「……そっか」
優真はそれ以上言わなかった。
午前九時。
ネクシア。
澪はいつも通り、パソコンに向かっていた。
請求書。
入金確認。
契約書。
メール。
スケジュール。
一つずつ処理していく。
「澪さん」
「はい」
由奈が書類を持ってきた。
「これ、先方から返ってきました」
「確認します」
受け取る。
内容を確認する。
「……」
「澪さん?」
「はい」
「大丈夫ですか?」
「何がでしょう」
「顔色、悪くないですか?」
「問題ありません」
「いや、問題ありそうですけど」
「睡眠時間は確保しています」
「そういう問題じゃなくて……」
由奈は困ったように澪を見る。
「少し休んだ方がよくないですか?」
「必要ありません」
「でも」
「この書類ですが、一か所修正が必要です」
「あ……はい」
澪が該当箇所を指す。
「こちらを先方に確認してください」
「分かりました」
由奈は書類を受け取った。
だが、その場を離れない。
「何でしょうか」
「本当に大丈夫ですか?」
「はい」
「無理してません?」
「していません」
「……分かりました」
由奈は納得していない顔で戻っていった。
昼。
澪はデスクで昼食を取っていた。
「……」
サラダを一口。
サラダチキン。
水。
食欲がない。
それでも必要量は摂取する。
「澪さん」
「はい」
今度は陸だった。
「それだけ?」
「何がでしょう」
「昼飯」
「これから食べます」
「全然減ってないけど」
「問題ありません」
「その言葉、便利だね」
「事実です」
「そうかな」
陸は澪の顔を見る。
「帰った方がいいんじゃない?」
「なぜですか?」
「顔、真っ白」
「……」
「鏡見た?」
「朝、確認しています」
「今見てきたら?」
「必要ありません」
「頑固だな」
「業務に支障はありません」
「支障が出てからじゃ遅いと思うけど」
澪の手が一瞬止まった。
昨夜、優真にも似たようなことを言われた。
「……問題ありません」
「やっぱり便利だね、それ」
陸は呆れたように自分の席へ戻った。
午後。
電話が鳴る。
「はい、株式会社ネクシアです」
いつも通りの声。
内容を聞く。
メモを取る。
「確認いたしますので、少々お待ちください」
保留。
資料を開く。
「……」
文字が少しぼやける。
澪は目を閉じた。
一秒。
二秒。
もう一度見る。
読める。
「澪」
顔を上げる。
優真が立っていた。
「何でしょうか」
「帰ろう」
「勤務時間中です」
「分かってる」
「では――」
「やっぱり顔色悪いよ」
「由奈さんと陸にも同じことを言われました」
「じゃあ三人目だね」
「主観が一致しただけです」
「澪」
「はい」
「今日、バイトもあるんでしょ?」
「はい」
「休んで」
「できません」
「なんで?」
「シフトが入っています」
「店に連絡すればいいでしょ」
「直前の欠勤になります」
「体調悪いなら仕方ないよ」
「体調不良ではありません」
「……」
優真はしばらく澪を見た。
「本当に?」
「はい」
「無理してない?」
「していません」
優真は小さく息を吐いた。
「……分かった」
「はい」
「でも、本当にしんどくなったら帰ってきて」
「分かりました」
澪は仕事へ戻った。
夕方。
ネクシアの業務を終える。
「お疲れさまでした」
澪は鞄を持った。
「澪さん」
由奈が呼び止める。
「はい」
「今から帰りますよね?」
「いいえ」
「……え?」
「アルバイトがあります」
「今から?」
「はい」
「いやいやいや」
由奈が立ち上がる。
「今日は休んでください」
「シフトが入っています」
「そういう問題じゃないですって」
「問題ありません」
「その『問題ありません』が問題なんですよ!」
「……?」
「なんでそこで不思議そうな顔するんですか!」
「ですが――」
「社長!」
由奈が優真を見る。
「止めてくださいよ!」
「……」
優真は澪を見る。
「澪」
「はい」
「俺も今日は休んだ方がいいと思う」
「ありがとうございます」
「いや、お礼じゃなくて」
「ですが、行きます」
「……」
「お疲れさまでした」
澪は頭を下げる。
そのまま会社を出た。
扉が閉まる。
「……社長」
「うん」
「止めなくていいんですか?」
「……」
優真は答えられなかった。
止めたい。
本当は、もっと強く言いたい。
けれど。
澪が自分で決めたことだ。
自分は夫ではある。
ただし。
契約上の。
そこまで口を出していいのか。
分からなかった。
Milky Café。
「おはようございます」
「あ、神谷さん――」
高橋が澪を見る。
すぐに表情が変わった。
「ちょっと待って」
「何でしょうか」
「顔色悪いですよ」
「問題ありません」
「問題ありそうですけど」
「勤務可能です」
「熱は?」
「測っていません」
「今日は帰ります?」
「帰りません」
「……」
「シフトに入っています」
「欠員ならこっちで何とかしますよ」
「直前です」
「体調不良なら仕方ないです」
「体調不良ではありません」
高橋はしばらく澪を見る。
「本当に?」
「はい」
「少しでもしんどくなったら言ってくださいね」
「分かりました」
更衣室へ入る。
着替える。
メイド服。
エプロン。
リボン。
カチューシャ。
鏡を見る。
「……」
確かに、顔色はよくない。
だが。
立てる。
歩ける。
仕事もできる。
「問題ありません」
店へ出る。
ベルが鳴った。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
客を案内する。
注文を取る。
料理を運ぶ。
食器を下げる。
いつも通り。
少なくとも。
澪は、そのつもりだった。
「神谷さん」
「はい」
「三番、お願いします」
「分かりました」
オムライスを運ぶ。
「お待たせしました」
「今日は猫で」
「承知しました」
ケチャップを持つ。
輪郭。
耳。
「……」
手が止まる。
「神谷さん?」
「失礼しました」
続ける。
目。
口。
完成。
「じゃあ、あれもお願い」
「はい」
両手を胸の前へ。
「おいしくなあれ」
ハートを作る。
視界が一瞬揺れた。
「……」
澪はテーブルへ手をつきそうになり、踏みとどまる。
「大丈夫?」
「はい。問題ありません」
そのまま一礼して離れる。
高橋がすぐに近づいてきた。
「神谷さん」
「はい」
「今、ふらつきましたよね?」
「一時的なものです」
「もう上がってください」
「まだ勤務時間中です」
「いいですから」
「欠員になります」
「なりません」
「ですが――」
「神谷さん」
高橋の声が少し強くなる。
「店側の判断です」
「……」
「帰って休んでください」
澪は時計を見る。
閉店まで、まだ時間がある。
「勤務継続は可能です」
「無理しないで」
「無理はしていません」
「……」
高橋は困ったように澪を見る。
「本当に、しんどくなったら絶対言ってくださいね」
「はい」
澪は仕事へ戻った。
時間が進む。
一時間。
二時間。
客足が落ち着いてくる。
閉店時間。
最後の客を見送る。
「ありがとうございました」
扉が閉まった。
澪は小さく息を吐く。
「神谷さん」
「はい」
「もう着替えて帰ってください」
「閉店作業が残っています」
「今日はいいです」
「勤務時間に含まれています」
「……」
「テーブルを拭きます」
「本当に真面目ですね……」
澪は店内を片付ける。
テーブル。
椅子。
食器。
備品。
いつもより身体が重い。
動くたびに息が上がる。
それでも。
最後まで終えた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
更衣室へ入る。
制服を脱ぐ。
私服へ着替える。
「……」
鏡を見る。
朝より顔色が悪い。
澪は水を飲んだ。
「帰宅すれば休めます」
鞄を持つ。
「神谷さん、本当に大丈夫?」
高橋が心配そうに声をかける。
「はい」
「タクシー呼びましょうか?」
「徒歩圏内ですので」
「でも」
「問題ありません」
「……気をつけて帰ってくださいね」
「ありがとうございます」
店を出る。
夜風が頬に当たる。
「……」
少し気持ちいい。
澪は歩き始めた。
一歩。
二歩。
三歩。
「……?」
足が重い。
いつもの道。
自宅まで、それほど遠くない。
歩ける。
そう判断した。
さらに進む。
「……」
視界が揺れる。
澪は足を止めた。
深呼吸。
「……大丈夫です」
もう一歩。
足に力が入らなかった。
「……っ」
膝が崩れる。
咄嗟に手をつく。
鞄が地面へ落ちた。
「……」
立たなければ。
澪は地面へ手をついたまま、身体を起こそうとする。
「……?」
力が入らない。
「神谷さん!」
後ろから声がした。
高橋だった。
店の戸締まりを終えて出てきたところだった。
「大丈夫ですか!?」
「……はい」
「大丈夫じゃないですよ!」
「少し……休めば」
「立たないでください!」
高橋が澪の肩を支える。
「誰か迎えに来てもらえます?」
「……」
「ご家族は?」
「……夫が」
「電話できます?」
「はい」
澪は鞄へ手を伸ばそうとした。
だが。
指に力が入らない。
「私が取りますね」
「……お願いします」
高橋が鞄からスマートフォンを取り出す。
「旦那さん、どれです?」
「優真さん……です」
「これですね」
発信。
数回の呼び出し音。
『もしもし?』
「あの、突然すみません。Milky Caféの高橋と申します」
『……はい?』
「神谷澪さんのご主人でしょうか」
一瞬。
『はい』
「神谷さんが、お店の前で倒れてしまって」
『え?』
「意識はあります。ただ、立てない状態で」
『すぐ行きます』
声が変わった。
『店の前ですよね?』
「はい」
『分かりました。すぐ行きます』
通話が切れた。
澪は壁にもたれたまま目を閉じていた。
「神谷さん」
「はい」
「だから帰った方がいいって言ったじゃないですか」
「……申し訳ありません」
「謝ってほしいわけじゃないですよ」
「はい」
「もう今日は何も考えないでください」
「……はい」
数分後。
「澪!」
聞き慣れた声。
澪が目を開ける。
「……優真さん」
優真が走ってくる。
澪の前にしゃがむ。
「大丈夫?」
「はい」
「大丈夫じゃないでしょ」
「……」
優真が澪の額に手を当てる。
「熱あるんじゃない?」
「分かりません」
「立てる?」
「……試します」
「試さなくていい」
優真は高橋を見る。
「すみません。ありがとうございました」
「いえ」
高橋は首を振る。
「今日、来た時から顔色が悪かったんです」
「……」
「帰った方がいいって言ったんですけど」
「そうですか」
「最後まで働くって聞かなくて」
優真が澪を見る。
「……」
澪は目を逸らした。
「閉店作業まで全部やってくれて……店を出たところで」
「分かりました」
優真は小さく頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
「神谷さん」
高橋が澪を見る。
「次のシフト、休みにしますからね」
「ですが――」
「休みです」
「……」
「三日は来ないでください」
「三日?」
「はい」
「そこまで必要とは――」
「必要です」
「……」
高橋にまで即答された。
「分かりました」
「本当に休んでくださいね」
「はい」
優真が澪の鞄を持つ。
「帰ろう」
「歩けます」
「歩けてないでしょ」
「少し休めば――」
「澪」
「はい」
「今日は俺の言うこと聞いて」
「……」
澪は黙った。
「帰ろう」
「……はい」
優真に支えられ、ゆっくりと立ち上がる。
足元はまだ頼りない。
「大丈夫?」
「はい」
「それ禁止」
「何がでしょう」
「今日だけ『大丈夫』と『問題ありません』禁止」
「……」
「いい?」
「……分かりました」
優真は澪の身体を支えたまま歩き始める。
「重くありませんか?」
「全然」
「ですが――」
「今は何も考えなくていいよ」
「……はい」
澪は、それ以上何も言わなかった。
ただ。
優真の腕に支えられながら。
いつもよりずっと遅い速度で、家へ帰った。




