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第30話 説明の限界

 その日の夜。


 玄関のドアが開いた。


「ただいま帰りました」


「おかえり」


 リビングにいた優真が顔を上げる。


 澪はいつも通りだった。


 靴を揃える。


 鞄を置く。


 上着を脱ぐ。


「……」


「……」


 ただ。


 二人とも分かっていた。


 今日は、このまま終わらない。


 澪がリビングへ入る。


 優真の向かいに座った。


「優真さん」


「うん」


「本日の件について、説明します」


「うん」


 澪は姿勢を正した。


「現在、Milky Caféでアルバイトをしています」


「それは……今日見たから分かるよ」


「はい」


「いつから?」


「まだ数回です」


「そっか」


 優真はそれ以上、追及しなかった。


 澪が続ける。


「アルバイトを始めた目的は二つあります」


「うん」


「一つは、調理経験を増やすためです」


「料理教室だけじゃ足りなかった?」


「足りないということではありません」


 澪は少し考える。


「より多くの調理に触れたいと思いました。特に、スイーツについてです」


「なるほど」


「料理教室では費用が発生します」


「うん」


「しかし、飲食店で勤務すれば、調理を学ぶ機会を得ながら収入も得られます」


「……一石二鳥?」


「はい」


 即答だった。


 優真は少し笑った。


「澪らしいね」


「そうでしょうか」


「うん」


 澪は続ける。


「もう一つは、追加収入です」


「圧力鍋?」


「……」


 澪が止まった。


「やっぱり?」


「それだけではありません」


「でも欲しいんでしょ?」


「今月は壺を購入しました」


「それは知ってる」


「その状態で、さらに個人的な支出を増やすのは適切ではありません」


「だからバイト?」


「それだけが理由ではありません」


「料理も覚えられるから?」


「はい」


「なるほどね」


 優真はソファの背もたれに身体を預けた。


 理由は分かった。


 澪なりに考えた結果なのも分かる。


 ただ。


「一個だけ聞いていい?」


「はい」


「なんで俺に言わなかったの?」


「……」


 澪が黙った。


「バイトするのがダメって言ってるわけじゃないよ」


「はい」


「別に俺の許可が必要なわけでもないし」


「……はい」


「でも、言ってくれてもよかったんじゃない?」


「……」


 澪は考える。


「必要性がないと判断しました」


「必要性?」


「本業には影響させません。家事にも影響はありません。私の空いている時間を利用しています」


「うん」


「そのため、報告が必要な事項ではないと」


「そっか」


「はい」


 優真は怒らなかった。


 声も変わらない。


 ただ、少しだけ間を置いて。


「ちょっと寂しいけどね」


「……」


 澪が顔を上げた。


「寂しい?」


「うん」


「なぜでしょうか」


「妻がメイドカフェで働いてるのを、夫が偶然店に入って初めて知るって」


「……」


「結構びっくりするよ?」


「それは……」


 澪にも反論できなかった。


「直人もいたし」


「……はい」


「『おいしくなあれ』まで見たし」


「……」


 澪の視線が逸れた。


「業務です」


「分かってるよ」


「必要な接客です」


「うん」


「私の意思で行っているわけではありません」


「そこまで説明しなくていいって」


「……そうですか」


 優真が笑う。


 澪は少しだけ居心地が悪そうだった。


「似合ってたけどね」


「……」


 澪が止まる。


「何でしょうか」


「メイド服」


「制服です」


「うん」


「業務上、着用しています」


「分かってる」


「……」


「似合ってたって言っただけ」


「……そうですか」


 澪はそれ以上、何も言わなかった。


 優真も、それ以上はからかわなかった。


 少しして。


「でもさ」


「はい」


「しんどくない?」


「……」


「会社もあるでしょ」


「はい」


「ヨガも行ってるし、料理教室もある」


「すべて予定に組み込んでいます」


「バイトは?」


「週一日を基本としています。必要に応じて週二日です」


「休みは?」


「確保しています」


「ほんとに?」


「はい」


 返事は早かった。


 優真は澪を見る。


「無理してない?」


「問題ありません」


「……」


「スケジュール上、管理可能です」


「スケジュール上は、ね」


「はい」


「澪」


「何でしょうか」


「予定に入るかどうかと、身体がしんどいかどうかは別だからね」


「……」


 澪が黙る。


「やめろとは言わないよ」


「はい」


「澪がやりたくて始めたんでしょ?」


「……」


 少しだけ間があった。


「はい」


 以前なら。


 効率的だから。


 合理的だから。


 そう答えていたかもしれない。


 でも今は。


 料理を覚えたい。


 スイーツも作れるようになりたい。


 そして、自分で使えるお金も増やしたい。


 自分がやりたくて始めた。


「なら、続ければいいよ」


「……いいのですか?」


「俺が決めることじゃないでしょ」


「はい」


「でも」


 優真は澪を見る。


「しんどくなったら休むこと」


「……」


「そこだけ約束して」


「体調管理は行っています」


「そうじゃなくて」


「?」


「澪って、多少しんどくても『問題ありません』って言いそうだから」


「……」


「違う?」


「状況によります」


「ほら」


「……」


 澪は少し考えた。


「業務に支障が出る場合は、適切に判断します」


「支障が出てからじゃ遅いんだけどな」


「では、支障が予測される場合も含めます」


「契約書みたいになってきたね」


「条件は明確にすべきです」


「はいはい」


 優真は苦笑した。


「とにかく、無理しないで」


「分かりました」


「ほんと?」


「はい」


 澪は頷いた。


 その返事に嘘はなかった。


 無理をするつもりなど、澪にもない。


 自分なら管理できる。


 本気でそう思っていた。


 優真は立ち上がる。


「じゃあ、この話終わり」


「はい」


「ところで」


「何でしょうか」


「家でもやってくれる?」


「何をですか?」


 優真が両手で小さなハートを作った。


「おいしくなあれ」


「……」


 澪の表情が止まった。


「優真さん」


「はい」


「それは業務です」


「ダメ?」


「勤務時間外です」


「残念」


「当然です」


 澪は立ち上がり、食器を片付け始める。


 優真は笑いながら、その後ろ姿を見ていた。


 少なくとも。


 いつもの澪だった。

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