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第28話 初出勤

 初出勤の日。


 澪は指定された時間より十分早く、Milky Caféに到着していた。


「おはようございます」


「おはようございます、神谷さん」


 高橋が店の奥から顔を出す。


「早いですね」


「遅刻を避けるためです」


「十分前ならちょうどいいですけどね」


「はい」


「じゃあ、まず着替えましょうか」


「分かりました」


 案内された更衣室。


 ロッカーの前に、制服が用意されていた。


「……」


 澪はそれを見る。


 白いブラウス。


 黒を基調としたワンピース。


 フリルのついたエプロン。


 リボン。


 そして、カチューシャ。


「……」


 面接の時にも見ている。


 求人ページでも確認した。


 業務用の制服。


 それ以上でも、それ以下でもない。


「問題ありません」


 誰に言うでもなく呟き、着替え始める。


 数分後。


 澪は鏡の前に立っていた。


「……」


 サイズに問題はない。


 エプロンの位置を整える。


 リボンの左右を確認。


 カチューシャも曲がっていない。


 身だしなみとしては問題ない。


 ただ。


「……」


 普段の自分とは、あまりにも違う。


 澪は鏡を見つめる。


「神谷さん、着替え終わりました?」


「はい」


 扉を開ける。


 待っていた高橋が澪を見た。


「……」


「何でしょうか」


「やっぱり似合いますね」


「そうですか」


「もう少し反応してもいいんですよ?」


「ありがとうございます」


「そうじゃなくて」


「?」


 高橋は笑いながら手招きした。


「とりあえず、今日は基本的な接客から覚えてもらいます」


「分かりました」


「調理は?」


「最初は接客を覚えてからです」


「……分かりました」


「ちょっと残念そうですね」


「優先順位は理解しています」


「はいはい」


 開店前。


 澪は店内で接客の説明を受けた。


 来店した客への挨拶。


 席への案内。


 注文。


 料理の提供。


 会計。


 基本的には、一般的な飲食店と大きく変わらない。


 問題は。


「では、入店時です」


「はい」


「神谷さん、お願いします」


 高橋が客の代わりに入口から入ってくる。


 澪は姿勢を正した。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


「……」


「次の動作をお願いします」


「あ、はい」


 高橋が苦笑する。


「神谷さん」


「はい」


「もうちょっと柔らかく」


「柔らかく」


「笑顔ですね」


「……」


 澪は口元を少し上げる。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


「さっきよりいいです」


「ありがとうございます」


「でも、まだ銀行の窓口みたいです」


「銀行?」


「丁寧すぎるのかなあ……」


 澪は考える。


「では、敬語を崩しますか?」


「それはダメです」


「難しいですね」


「そこまで真剣に悩まなくても」


「給与が発生していますので」


「……神谷さん、本当に真面目ですね」


「当然です」


 高橋は笑いながら、次の説明に移った。


「次はオムライスです」


「はい」


 テーブルの上には練習用の皿が置かれている。


「ケチャップで絵を描くこともあります」


「絵」


「ハートとか、猫とか」


「猫」


「できます?」


「試します」


 澪はケチャップを持った。


 皿の上へ線を引く。


 丸。


 耳。


 目。


 口。


「……」


 高橋が覗き込む。


「上手ですね」


「猫です」


「分かります」


「では、問題ありません」


「かわいいですね」


「猫ですので」


「そういう意味じゃないんですけどね」


「?」


「まあ、いいです」


 続いて。


「最後に、おいしくなるようにします」


「……」


「覚えてます?」


「はい」


 澪は両手を胸の前に持ってくる。


「おいしくなあれ」


 小さなハート。


「……」


「どうでしょうか」


「正確ですね」


「ありがとうございます」


「ただ、もう少しこう……気持ちを込めて」


「気持ち?」


「はい」


「どのような?」


「おいしくなってほしいな、って」


「実際の味に影響するのでしょうか」


「そこは考えないでください」


「……分かりました」


「もう一回」


「はい」


 澪は皿を見る。


 おいしくなってほしい。


「……」


 少し考える。


 優真が料理教室から持ち帰った料理を食べた時のことを思い出した。


 おいしい。


 そう言って、普通に食べていた。


「……」


 澪はもう一度、両手でハートを作る。


「おいしくなあれ」


「あ」


「?」


「今のいいですよ」


「先ほどとの違いが分かりません」


「今の方が自然でした」


「そうでしょうか」


「はい」


「……分かりました」


 澪には、よく分からなかった。


 開店時間。


 最初の客が入ってくる。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


 澪は教えられた通りに頭を下げた。


 客が一瞬、澪を見る。


「新人さん?」


「はい。本日から勤務しています」


「へえ」


 客が笑う。


「よろしくね」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


「……固いね」


「申し訳ありません」


「いや、面白いからいいよ」


「?」


 席へ案内する。


 注文を取る。


 間違えない。


 料理を運ぶ。


 動線にも無駄はない。


 食器を下げるタイミングも早い。


 会計も正確。


「神谷さん」


「はい」


 高橋が小声で呼ぶ。


「仕事覚えるの早いですね」


「一度説明を受けていますので」


「普通は一回じゃ全部覚えないんですよ」


「そうなのですか?」


「そうなんです」


 澪は店内を見る。


「あちらのテーブル、空いた食器があります」


「……本当に早いですね」


「下げてきます」


「お願いします」


 接客そのものは、得意ではない。


 雑談も苦手。


 愛想よく話すことも、まだよく分からない。


 しかし。


 仕事として考えれば、やるべきことは明確だった。


 客を見る。


 必要なものを確認する。


 先回りして動く。


 それは、秘書をしていた頃と大きく変わらない。


「神谷さん」


「はい」


「三番テーブル、オムライスお願いします」


「分かりました」


 澪はオムライスを受け取る。


 三番テーブルへ。


「お待たせしました」


「おお、新人さんだ」


「はい」


「これ、何か描いてくれる?」


「ご希望はありますか?」


「じゃあ猫」


「承知しました」


 ケチャップを手に取る。


 練習した通り。


 輪郭。


 耳。


 目。


 口。


「うまっ」


「猫です」


「いや、分かるよ」


「?」


 客が笑う。


「じゃあ、あれもやってよ」


「あれ?」


「おいしくなるやつ」


「承知しました」


 澪はオムライスを見る。


 両手を胸の前へ。


「おいしくなあれ」


 ハートを作る。


「……」


 客が澪を見る。


「何でしょうか」


「いや……」


「?」


「なんか、いいね」


「ありがとうございます」


 意味は分からないが、褒められたらしい。


「ごゆっくりどうぞ」


 澪は一礼して離れた。


 高橋がカウンターの奥から見ている。


「……」


「何でしょうか」


「神谷さん、そのままでいいかもしれません」


「何がでしょう」


「接客です」


「改善点はありませんか?」


「あるんですけど……」


 高橋は少し考える。


「無理に変えなくてもいい気がしてきました」


「なぜですか?」


「たぶん、それが神谷さんなので」


「……?」


 よく分からない。


 ただ、業務上問題がないのであれば、それでいい。


 昼を過ぎると、客足が少し落ち着いた。


「神谷さん、休憩入ってください」


「分かりました」


 澪はバックヤードへ入る。


 椅子に座り、スマートフォンを確認する。


 優真からメッセージが来ていた。


『今日、夕飯どうする?』


「……」


 澪は返信する。


『通常通り用意します』


 すぐに返ってくる。


『了解』


「……」


 澪はスマートフォンを伏せた。


 今日、自分がどこにいるのか。


 何を着ているのか。


 何をしているのか。


 優真は知らない。


「……」


 別に隠す必要はない。


 そう思う。


 ただ。


 今さら、


『現在、メイドカフェで勤務しています』


 と送るのも不自然だった。


「……業務です」


 小さく呟く。


 休憩時間が終わる。


 澪は立ち上がった。


「神谷さん、休憩終わりました?」


「はい」


「じゃあ、午後もお願いします」


「分かりました」


 再び店内へ出る。


 ベルが鳴る。


 新しい客が入ってきた。


 澪は姿勢を正す。


 笑顔。


 まだ少し難しい。


 それでも。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


 朝よりは、ほんの少しだけ自然に言えた。

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