第25話 一石二鳥
それから数日。
澪は電子圧力鍋を買っていなかった。
買えないわけではない。
必要性がないわけでもない。
ただ、今月はすでに壺を買っている。
自分で決めた予算を、自分の都合で変えるつもりはなかった。
「……来月です」
そう決めている。
決めているのだが。
「澪」
「はい」
「また見てるの?」
優真に声をかけられ、澪はタブレットから顔を上げた。
「何をでしょうか」
「それ」
優真が画面を指す。
電子圧力鍋の商品ページ。
「比較しています」
「前も比較してなかった?」
「新しいレビューが追加されています」
「欲しいんでしょ?」
「……」
澪が黙る。
「買えばいいじゃん」
「今月は買いません」
「なんで?」
「壺を購入しましたので」
「壺?」
「はい」
「あれと関係あるの?」
「今月の個人的な支出が増えています」
「でも、それ家でも使うんでしょ?」
「はい」
「だったら生活費から買えばいいじゃん」
「必要不可欠なものではありません」
「そう?」
「鍋でも調理は可能です」
「じゃあいらないの?」
「……」
澪が電子圧力鍋を見る。
「なくても問題ありません」
「欲しいかどうか聞いたんだけど」
「……」
「澪?」
「来月、再検討します」
「はいはい」
優真は笑って離れていった。
澪はもう一度画面を見る。
「……」
カートには、まだ入っている。
消してはいない。
ただ、買わない。
今月は。
それだけだった。
その日の夕方。
澪がゴミを出しに外へ出ると、ちょうど隣の家から水森が出てきた。
「あら、澪ちゃん」
「こんにちは」
「ゴミ出し?」
「はい」
「相変わらずきっちりしてるわねえ」
「決められた曜日ですので」
「そういうところよ」
「?」
二人でゴミ置き場へ向かう。
水森がふと澪を見る。
「そういえば、ヨガ続いてる?」
「はい」
「あら、本当に?」
「勧めたのは水森さんでは?」
「そうだけど、澪ちゃんがハマるとは思わなかったのよ」
「ハマってはいません」
「週何回?」
「現在は週一回です」
「料理教室も行ってるんでしょ?」
「はい」
「十分ハマってるじゃない」
「別です」
「そう?」
「はい」
澪はゴミ袋を置く。
少し考えてから。
「料理については、まだ習得すべきことが多いと考えています」
「あら」
「家庭で作れるものを増やしたいので」
「いいじゃない」
「ただ、設備にも不足があります」
「設備?」
「電子圧力鍋の購入を検討しています」
「買えば?」
「今月は壺を購入しましたので」
「……壺?」
「はい」
「なんで?」
「気に入ったからです」
「……そう」
水森が一瞬だけ黙った。
「澪ちゃんって、たまにすごいわね」
「何がでしょうか」
「何でもないわ」
水森が笑う。
「じゃあ来月買えばいいじゃない」
「その予定です」
「それまで普通に料理すればいいでしょ?」
「はい」
「じゃあ何が問題なの?」
「……」
澪が止まった。
「問題はありません」
「でしょうね」
「ただ」
「ただ?」
「もう少し、料理を覚えたいとは思っています」
水森が澪を見る。
「料理教室、増やせば?」
「費用が増えます」
「じゃあ、自分で勉強するとか」
「実際の調理を伴った方が効率的です」
「うーん……」
水森が腕を組む。
しばらく考えて。
「あ」
「何でしょう」
「だったら、カフェで働けば?」
「……」
澪が瞬きをした。
「カフェ?」
「そう。スイーツとか料理を店で作ってるところ」
「なぜ働くのでしょうか」
「働きながら覚えればいいじゃない」
「……」
澪の動きが止まった。
水森が続ける。
「お店によるだろうけど、調理補助なら作り方も覚えられるでしょ?」
「……」
「料理教室ならお金払うけど、働いたらお給料もらえるし」
「……」
料理を覚えられる。
実際の調理経験も増える。
そして。
収入も得られる。
「……一石二鳥」
「そうそう!」
水森が笑う。
「一石二鳥よ」
澪は考える。
問題は時間だった。
ネクシアの仕事がある。
ヨガ。
料理教室。
家事。
そこに、さらに仕事を加える。
以前なら、検討するまでもなく却下していた。
ただ。
今は少し状況が違う。
直人と陸が加わった。
由奈もいる。
会社を立ち上げたばかりの頃のように、澪が電話対応から事務作業まで、すべてを抱える必要はなくなっている。
「週に一回か二回。短時間であれば……」
「あら、もう働く気?」
「可能かどうかを検討しています」
「はいはい」
「本業に支障が出るのは問題です」
「当たり前よ」
「固定シフトより、ある程度調整可能な方が適切です」
「うん」
「自宅からの距離も重要です」
「澪ちゃん」
「はい」
「楽しそうね」
「……」
澪が止まった。
「何がでしょうか」
「何でもない」
水森が笑って歩き出す。
「いいところ見つかるといいわね」
「まだ働くとは決めていません」
「そうね」
「条件を確認してから判断します」
「分かった、分かった」
水森と別れ、澪は家へ戻った。
リビングでは、優真がノートパソコンを見ていた。
「おかえり」
「ただいま帰りました」
「水森さんと話してた?」
「はい」
「また何か勧められた?」
「……」
澪が一瞬止まる。
「何?」
「いえ」
まだ何も決まっていない。
条件も確認していない。
実際に働ける場所があるかどうかも分からない。
「雑談です」
「そっか」
優真はそれ以上聞かなかった。
澪は自分のノートパソコンを開く。
検索画面。
キーボードに指を置く。
カフェ。
アルバイト。
調理補助。
短時間。
検索。
「……」
いくつもの求人が表示された。
澪は一件ずつ条件を確認していく。
勤務地。
勤務時間。
仕事内容。
時給。
未経験可。
調理補助。
スイーツ製造。
「……ありますね」
澪は少しだけ画面へ顔を近づけた。
優真は仕事をしている。
澪が何を調べているのか、気づいていない。
澪も、まだ話す必要はないと判断した。
決まってからでいい。
いや。
自分の空いた時間にすることなのだから、そもそも報告が必要なのだろうか。
「……」
澪は少し考えた。
そして。
「必要ありませんね」
小さく呟き、次の求人を開いた。




