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第22話 料理教室

 料理教室の体験日。


 澪は少し早めにスタジオへ到着していた。


 ヨガで何度か訪れている場所だから、もう迷うことはない。


 ただ、今日はいつもと違う。


 ヨガウェアではなく、エプロンを持ってきている。


「こんにちは、澪さん」


「こんにちは、ゆりさん」


 声をかけてきたゆりに、澪は頭を下げた。


「本当に来てくれたんですね」


「はい」


「ヨガの方はどうですか?」


「問題ありません。以前より身体を動かしやすくなりました」


「それはよかったです」


 ゆりが笑う。


「今日は料理も楽しんでいってくださいね」


「はい」


 澪は答えてから、少しだけ考えた。


 楽しむ。


 料理に対して使ったことのない言葉だった。


 これまで料理は、食事を用意するための作業だった。


 必要な栄養を摂る。


 時間をかけすぎない。


 後片付けまで含めて、できるだけ効率よく済ませる。


 それで問題はなかった。


 今日ここに来るまでは。


「こちらで受付をお願いします」


「分かりました」


 受付を済ませる。


 初回用の簡単な用紙に記入していると、スタッフが尋ねた。


「料理教室に参加されたきっかけは何ですか?」


「きっかけ……」


 澪のペンが止まる。


「健康のためとか、料理が上手になりたいとか。ご家族のためという方も多いですよ」


「……」


 理由ならある。


 ヨガに通い始めた。


 そこで料理教室を知った。


 ゆりの雰囲気も気に入った。


 そして。


 少し、やってみたいと思った。


 ただ、それをそのまま口にするのは、なぜか落ち着かなかった。


「栄養効率の改善と、調理時間の短縮です」


「……なるほど」


 スタッフが少しだけ困ったように笑う。


 嘘ではない。


 料理の技術が上がれば、調理時間は短縮できる。


 作れるものが増えれば、栄養面でも選択肢は広がる。


 合理的な理由だ。


「ご主人のためでもありますか?」


「……」


 澪が止まった。


 頭に浮かんだのは、優真の言葉だった。


 ――夫なんだから、そこは食べさせてよ。


「家庭での食事の選択肢を増やすためです」


「ふふっ」


「何でしょうか」


「いえ。ご主人、喜んでくれるといいですね」


「……はい」


 澪はそれ以上説明しなかった。


 なぜか、少しだけ落ち着かなかった。


 教室には、澪を含めて数人の参加者がいた。


 年齢もばらばらだった。


 友人同士らしい女性もいれば、一人で参加している人もいる。


「じゃあ、始めましょうか」


 前に立ったゆりが手を叩く。


「今日は初心者向けなので、難しいことはしません。失敗しても大丈夫ですからね」


 失敗しても大丈夫。


 ヨガの時と似ている。


「まずは材料を確認しましょう」


 澪は配られたレシピを見る。


 材料。


 分量。


 手順。


 加熱時間。


 すべて書かれている。


「……」


 これなら問題ない。


 澪はそう判断した。


 必要な材料を揃え、指定された分量を量る。


 包丁を使う。


 切る大きさも揃える。


「澪さん、綺麗ですね」


「指定された大きさに切っていますので」


「うん。すごく丁寧です」


「ありがとうございます」


 ここまでは順調だった。


 問題が起きたのは、火を使い始めてからだった。


「……」


 澪がフライパンを見る。


 レシピには中火と書いてある。


 時間も書いてある。


 その通りにしている。


 しかし。


 隣の人とは、明らかに状態が違う。


「ゆりさん」


「はい?」


「同じ時間ですが、見本と状態が異なります」


「ああ、もう少し火を弱くして大丈夫ですよ」


「ですが、中火と」


「コンロによって違いますから」


「……」


 澪がレシピを見る。


 もう一度、フライパンを見る。


「同じ中火でも違うのですか?」


「違いますね」


「では、時間は?」


「それも目安です」


「……目安」


「はい」


 澪の表情が少しだけ険しくなった。


「正確な時間はないのでしょうか」


「料理は、そういうものも多いですよ」


「……」


 曖昧だ。


 かなり曖昧だ。


 澪にとっては、あまり好ましくない。


「色とか、音とか、香りを見ながら調整します」


「数値ではなく?」


「そうですね」


「……非効率です」


 思わず漏れた。


 ゆりが笑う。


「そうかもしれませんね」


 否定されなかった。


「でも、その方がおいしくなることもありますよ」


「……」


「澪さん、ちょっと焦げそうです」


「え?」


「火、弱くしましょう」


「はい」


 慌てて火を弱める。


 少し遅かった。


 一部に焼き色が強くついている。


「……失敗でしょうか」


「これくらいなら全然大丈夫ですよ」


「見本とは違います」


「見本と同じじゃなくても大丈夫です」


「ですが――」


「澪さん」


「はい」


「料理は、効率より様子を見る方が大事な時もあります」


「様子を見る」


「はい。レシピ通りにやることより、今どうなってるかを見るんです」


 澪はフライパンを見る。


 今、どうなっているか。


 決められた手順を守るだけではない。


 相手に合わせる。


 状態を見る。


 必要なら変える。


「……難しいですね」


「最初から上手にできなくていいですよ」


「でも、作る以上は――」


「焦らなくて大丈夫です」


 ヨガの時と同じだった。


 できるところまで。


 無理をしない。


 焦らない。


 澪は小さく息を吐く。


「分かりました」


 火を少し弱くする。


 今度は時間だけを見なかった。


 色を見る。


 香りを確認する。


 音を聞く。


「……」


 少しだけ。


 分かる気がした。


 料理が完成した。


 見本と並べる。


「……違います」


 澪が呟く。


 見本は綺麗に整っている。


 自分のものは少し形が崩れている。


 焼き色も均一ではない。


「初めてなら十分ですよ」


 ゆりが隣から覗き込む。


「そうでしょうか」


「味見してみましょう」


「はい」


 澪は少しだけ取って口に入れた。


「……」


「どうですか?」


「判断が難しいです」


「おいしくない?」


「いえ」


「じゃあ、おいしい?」


「……」


 澪はもう一口食べる。


「問題はないと思います」


「ふふっ」


「何でしょう」


「澪さんらしい感想だなって」


「そうですか?」


「はい」


 ゆりも少し味を見る。


「ちゃんとおいしいですよ」


「本当ですか?」


「はい」


 澪は自分の料理を見た。


「ですが、見本とは形が違います」


「完璧じゃなくてもいいんですよ」


「……」


「食べる人がおいしいと思ってくれたら、それで十分です」


「食べる人……」


「持って帰るんですよね?」


「はい」


「ご主人に?」


「……はい」


「だったら、食べてもらってください」


「でも、成功しているかどうか――」


「それを決めるのは、ご主人かもしれませんよ」


「……」


 澪は料理を見る。


「完璧じゃなくても、食べる人はちゃんと嬉しいですから」


 その言葉が、妙に残った。


 数値でもない。


 効率でもない。


 見本と同じかどうかでもない。


 誰かが食べて、喜ぶ。


 それが評価になる。


 澪には、まだよく分からなかった。


 教室を出る前。


「澪さん、どうでした?」


 ゆりが尋ねた。


「難しかったです」


「楽しくなかった?」


「……」


 澪は少し考える。


「いえ」


 もう一度、考える。


「楽しかった……と思います」


「ならよかった」


 ゆりが笑う。


「また来ますか?」


「……はい」


 今度は、それほど迷わなかった。


「次回もお願いします」


「お待ちしてます」


 帰り道。


 澪はエコバッグの中を何度も確認した。


 料理が入った容器。


 傾いていない。


 汁漏れもない。


 問題なく持ち帰れる。


 それなのに。


 いつもより歩き方が慎重になっていた。


 家に着く。


「ただいま帰りました」


「おかえり」


 リビングから優真が顔を出した。


「どうだった、料理教室?」


「……問題ありませんでした」


「またそれ?」


「今回は、少し問題もありました」


「どっち?」


「調理中に想定との差異が発生しました」


「何作ってきたの?」


 澪はエコバッグを見る。


「食べますか?」


「もちろん」


「……」


「何?」


「いえ」


 澪は容器を取り出す。


「一応、食べられると思います」


「一応?」


「教室では問題ないと言われました」


「じゃあ大丈夫でしょ」


 優真は気にする様子もなく、テーブルについた。


 澪が料理を皿に移す。


「見た目、普通においしそうじゃん」


「見本とは異なります」


「見本知らないから分かんないよ」


「……確かに」


 優真が箸を取る。


 澪は向かいに座った。


「いただきます」


「……はい」


 優真が一口食べる。


「……」


 澪はその顔を見る。


「どうですか?」


「うん」


「……」


「おいしい」


「……」


 澪は少しだけ目を見開いた。


「本当ですか?」


「うん。普通においしいよ」


「ですが、一部の焼き色が均一ではありません」


「全然気にならないけど」


「形も見本とは違います」


「味に関係ないでしょ」


「……」


 もう一口。


 優真は普通に食べる。


 特別な反応ではない。


 大げさに褒めるわけでもない。


 ただ、おいしいと言って食べている。


 ――完璧じゃなくても、食べる人はちゃんと嬉しいですから。


 ゆりの言葉を思い出した。


「澪は食べた?」


「教室で味見はしました」


「じゃあ一緒に食べようよ」


「これは優真さんに――」


「俺一人で全部食べるの?」


「量としては可能だと思います」


「そういう話じゃなくて」


「?」


「せっかく作ってきたんだから、一緒に食べよ」


「……」


 澪は少し迷ってから、箸を取りに立った。


「分かりました」


 自分の分を取り分ける。


 二人で同じ料理を食べる。


「やっぱりおいしいよ」


 優真が言う。


「……そうですか」


「うん」


 澪も一口食べる。


 教室で食べた時と、味は変わっていない。


 同じ料理だ。


 それなのに。


 少しだけ違う気がした。


「また行くの?」


「……はい」


「そっか」


 優真が笑う。


「じゃあ、次も楽しみにしてる」


「毎回持ち帰るとは限りません」


「持って帰れる時でいいよ」


「……分かりました」


 澪は箸を動かす。


 効率が上がったわけではない。


 むしろ今日だけを見れば、自宅で作るより時間はかかっている。


 それでも。


 もう一度行くことを、非効率だとは思わなかった。


 そして。


 優真がもう一口食べるのを見て。


 澪はほんの少しだけ、嬉しいと思った。

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