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第21話 ヨガ

 運動会の翌日。


 澪は自宅のリビングで、スマートフォンを見ていた。


 画面に表示されているのは、駅前にあるヨガスタジオ。


 昨日、水森に教えてもらった場所だった。


 初心者向け。


 体験レッスンあり。


 駅から徒歩五分。


 料金も、それほど高くない。


「……」


 澪は右肩を回した。


「痛っ……」


 小さく声が漏れる。


「やっぱり筋肉痛?」


 向かいに座っていた優真が笑う。


「軽度です」


「三十一回も投げるから」


「競技ですので」


「普通、そこまで数えないけどね」


「自分が何回投げたかは把握しておくべきです」


「何のために?」


「……」


 澪が止まる。


「何でしょう」


「いや」


 優真は笑いを堪えた。


「続けて」


 澪は少しだけ不満そうに画面へ戻る。


「水森さんに勧められたヨガですが」


「うん」


「一度、試してみようと思います」


「いいんじゃない?」


「日常生活に支障はありませんが、身体が硬いことは事実でした」


「うん」


「改善できるのであれば、試す価値はあります」


「うん」


「……何でしょう」


「いや」


 優真は頬杖をつく。


「行ってみたいんでしょ?」


「……」


 澪の指が止まった。


「改善の必要性を感じています」


「そういうことにしとく」


「事実です」


「はいはい」


 澪は体験レッスンの予約ボタンを押した。


 数日後。


 澪は駅前にあるヨガスタジオを訪れた。


 扉を開けると、外とは空気が違った。


 木の床。


 白い壁。


 小さな観葉植物。


 静かな音楽が流れている。


 仕事場とも、自宅とも違う。


「こんにちは」


 声をかけられ、澪が振り返る。


 柔らかな雰囲気の女性が立っていた。


「体験の方ですよね?」


「はい。神谷です」


「ゆりです。今日はよろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


 ゆりは笑顔を見せる。


「ヨガは初めてですか?」


「はい」


「運動は?」


「ほとんどしていません」


「じゃあ今日は、無理せずゆっくりやりましょう」


「可能な範囲までは行うつもりです」


「ふふっ」


 ゆりが笑った。


「何でしょう」


「いえ。真面目な方なんだなと思って」


「……そうでしょうか」


「はい」


 嫌な笑い方ではなかった。


 澪はそれ以上、何も言わなかった。


 レッスンが始まる。


 最初は呼吸。


 次に身体を伸ばす。


 ゆっくりと腕を上げ。


 身体を倒し。


 姿勢を保つ。


 地味だった。


 もっと運動らしいことをするのだと思っていた。


 息が切れるわけでもない。


 汗だくになるわけでもない。


 なのに。


「……」


 きつい。


「神谷さん、そこまでで大丈夫ですよ」


 ゆりが声をかける。


「まだ伸ばせます」


「無理しなくて大丈夫です」


「無理はしていません」


 さらに伸ばそうとする。


「はい、ストップ」


「……」


「痛くなる前までです」


「しかし、もう少し――」


「今日は初めてですから」


「……」


 澪は動きを止めた。


 ゆりが隣にしゃがむ。


「できるところまででいいんですよ」


「できるのであれば、やった方がいいのでは?」


「そうとも限りません」


「なぜですか?」


「頑張りすぎると、嫌になっちゃいますから」


「……」


 澪には、よく分からなかった。


 仕事なら。


 できるところまでやる。


 必要なら覚える。


 問題があれば改善する。


 それが普通だった。


「続ける方が大事です」


 ゆりが言う。


「続ける……」


「はい。今日全部できなくても、次がありますから」


 澪は少し考えた。


「分かりました」


 完全には納得していない。


 それでも、言われた通りに力を抜いた。


 次は呼吸だった。


「ゆっくり吸って」


 息を吸う。


「ゆっくり吐きます」


 吐く。


「肩の力を抜いて」


「……」


「神谷さん」


「はい」


「まだ力入ってます」


「……入っていますか?」


「入ってます」


 ゆりが笑う。


「もっと楽にして大丈夫ですよ」


 楽に。


 言われてみても、よく分からない。


 それでも。


 息を吐く。


 肩を下げる。


 もう一度、吸う。


 吐く。


「……」


 少しだけ。


 違った。


 普段、自分がどんな呼吸をしているのか。


 考えたことなどなかった。


「呼吸が……」


「はい?」


「楽です」


 思わず口から出た。


 ゆりが微笑む。


「それなら十分です」


「十分?」


「はい」


「まだ始めたばかりですが」


「今日は、それに気づけただけでも十分ですよ」


「……」


 評価されない。


 もっとやれとも言われない。


 できているかどうかだけを求められるわけでもない。


 不思議だった。


 でも。


 嫌ではなかった。


 一時間ほどで、体験レッスンは終わった。


「お疲れさまでした」


「ありがとうございました」


「どうでした?」


 澪はすぐには答えなかった。


 身体を軽く動かしてみる。


 肩。


 首。


 背中。


「始める前より、動かしやすいです」


「よかったです」


「一回でも変化があるのですね」


「人によりますけどね」


「継続した場合は?」


「身体は少しずつ変わると思いますよ」


「少しずつ……」


「焦らずに」


 また、その言葉だ。


 澪はスタジオを見回した。


 静かだった。


 仕事の電話も鳴らない。


 メールも来ない。


 何かを決める必要もない。


 ここにいた一時間。


 仕事のことをほとんど考えていなかった。


 それに気づいて。


 澪自身が少し驚いた。


「神谷さん?」


「いえ」


 澪は首を振る。


「何でもありません」


「そうですか」


 ゆりは、それ以上聞かなかった。


 その距離感も。


 澪には心地よかった。


「次回の予約は、今決める必要がありますか?」


「いいえ」


「そうですか」


「帰ってから考えてもいいですし、また来たいと思った時に予約してください」


「……勧めないのですか?」


「無理に来ても楽しくないですから」


「楽しい……」


 また、澪には馴染みの薄い基準だった。


 必要か。


 不要か。


 効率的か。


 非効率か。


 そういう基準ではない。


「また来たいと思ったら、でいいですよ」


「……」


 澪は少し考える。


「では」


 スマートフォンを取り出した。


「来週もお願いします」


「もう決めるんですか?」


「はい」


 ゆりが笑う。


「お待ちしています」


 予約を済ませて帰ろうとした時。


 澪の視線が、壁に貼られた案内で止まった。


 料理教室。


 週一回。


 初心者歓迎。


「……料理教室もされているんですか?」


「はい。私が教えてます」


「ゆりさんが?」


「そうですよ」


 澪が案内を見る。


「どのような料理を?」


「家庭料理が多いですね。難しいものじゃなくて、家で作れるものを中心に」


「家庭料理……」


「興味あります?」


「いえ」


 即答した。


 それから。


「……少しだけ」


 ゆりが笑う。


「よかったら、そっちも体験できますよ」


「……」


 澪は案内をもう一度見る。


「検討します」


「はい。ゆっくり考えてください」


 勧誘は、それだけだった。


 その夜。


「ヨガ、どうだった?」


 夕食を食べながら優真が聞いた。


「問題ありませんでした」


「それ、感想?」


「はい」


「もうちょっとない?」


「……」


 澪は箸を止める。


「身体は、少し楽になりました」


「へえ。よかったじゃん」


「はい」


「また行くの?」


「来週、予約しました」


「もうハマってない?」


「一度で判断するのは適切ではありません。継続した場合の効果を確認する必要があります」


「はいはい」


「何でしょう」


「何でもない」


 優真が笑う。


 澪は食事を続ける。


 しばらくして。


「優真さん」


「ん?」


「料理教室は、どう思いますか?」


「料理教室?」


「ヨガスタジオに併設されていました」


「へえ」


「ゆりさんが教えているそうです」


「ゆりさん?」


「ヨガの先生です」


「もう名前で呼んでるんだ」


「自己紹介されましたので」


「そりゃそうか」


 澪は少し黙った。


「家庭料理を教えているそうです」


「行ってみたいの?」


「……」


 澪はすぐには答えなかった。


 効率。


 栄養。


 必要性。


 理由なら、いくつか思いつく。


 けれど。


「少し」


 それだけ答えた。


「じゃあ、行ってみたら?」


「いいのでしょうか」


 優真は少し不思議そうに澪を見る。


「いいに決まってるでしょ」


「ですが――」


「澪がやってみたいんでしょ?」


「……はい」


「だったら行っておいでよ」


 優真は笑う。


「料理できるようになったら、俺も嬉しいし」


「……食べるつもりですか?」


「夫なんだから、そこは食べさせてよ」


「……」


 澪の箸が、一瞬止まった。


 夫。


 ただ事実を言っただけなのだろう。


 婚姻届を出しているのだから、優真は夫だ。


 何もおかしくない。


「まだ、作れるとは言っていません」


「じゃあ楽しみにしとく」


「話を聞いていますか?」


「聞いてるよ」


「……」


 澪は少しだけ困ったように優真を見る。


 けれど。


「……では、体験だけ」


「うん。行っておいで」


「はい」


 澪は再び箸を動かした。


 ヨガを始める理由なら、あった。


 身体が硬かったから。


 運動不足だったから。


 続ける理由も、効果を確認するためと言える。


 でも。


 料理教室は少し違う。


 今の生活に、絶対に必要なものではない。


 行かなくても困らない。


 それでも。


 少し、やってみたい。


 澪はその気持ちに、まだ名前をつけなかった。

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