第19話 足りないもの
佐倉由奈がネクシアで働き始める初日。
「本日からよろしくお願いします」
事務所に入った由奈が頭を下げる。
「よろしく」
優真が笑顔で返す。
「よろしくお願いします」
澪も頭を下げた。
「よろしく」
直人が続き。
「お願いします」
最後に陸。
全員の挨拶を受けて、由奈は自分の席を見る。
小さなデスク。
パソコン。
電話。
必要な文房具。
最低限ではあるが、仕事を始められるように一通り準備されていた。
「こちらが、由奈さんの席です」
「ありがとうございます」
「パソコンの初期設定は完了しています。業務で使用するファイルはこちらです」
「はい」
「取引先一覧、電話対応表、来客予定、備品一覧も共有しています」
「……もう全部あるんですね」
「必要ですので」
澪は当然のように答える。
由奈はパソコンを開いた。
ファイルを確認する。
分かりやすい。
綺麗に整理されている。
必要な情報が、必要な場所にある。
「すごい……」
「何か問題がありますか?」
「逆です」
由奈は笑う。
「すごく分かりやすいです」
「ありがとうございます」
澪の仕事は、本当に正確だった。
顔合わせの時にも感じていたが、事務能力はかなり高い。
これなら困ることはなさそうだ。
そう思った直後。
電話が鳴った。
「あ」
由奈が受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。株式会社ネクシア、佐倉でございます」
事務所が。
妙に静かになった。
「はい、いつもお世話になっております」
相手の名前と会社名を確認する。
「神谷ですね。少々お待ちください」
保留にする。
「優真さん、山崎商事の田中様からです」
「ありがとう」
優真が電話を取る。
「お世話になってます、神谷です」
その瞬間。
直人が顔を上げた。
「……すげえ」
「何がですか?」
陸が聞く。
「会社みたいだ」
「会社ですよ」
「そうなんだけど」
由奈は聞こえないふりをした。
電話を終えた優真が笑顔で言う。
「由奈ちゃん、ありがとう。めちゃくちゃ助かる」
「いえ。これが仕事ですから」
「今まで澪が出てたんだけど」
「優真さん」
「何?」
「何か問題がありましたか?」
「……ないよ」
「でしたら、その説明は不要です」
「はい」
由奈は少しだけ笑った。
やっぱり。
この二人のやり取りは少し変わっている。
しばらくして。
優真が鞄を持った。
「じゃあ、行ってきます」
「本日は三社ですね」
「うん」
「十六時頃には戻る予定です」
「そのつもり」
「予定が変わる場合は連絡してください」
「分かってる」
「昨日は連絡がありませんでした」
「……ごめん」
「一昨日もです」
「ごめんなさい」
由奈は優真を見る。
営業については、とても優秀だと聞いている。
実際、取引先からの電話でも、優真を頼っていることが伝わってくる。
でも。
予定管理は、完全に澪だった。
「じゃあ行ってきます」
「いってらっしゃい」
優真が出ていく。
澪はすぐに自分の仕事へ戻った。
由奈も書類整理を始める。
十分ほど経った頃。
机の上に、一枚の書類が置かれた。
「佐倉さん」
「はい?」
陸だった。
「これ、お願いします」
「はい」
由奈が受け取る。
「……桐生さん」
「何ですか?」
「これ、何の書類ですか?」
「仕様変更です」
「どの案件の?」
「昨日のやつです」
「……昨日の」
「はい」
由奈は微笑んだ。
「会社名を教えていただけますか?」
「山本さんのところ」
「……」
笑顔のまま。
「会社名でお願いします」
「え?」
「私、まだ皆さんのお客様を把握できていないので」
「ああ」
陸は少し考える。
「東和システムです」
「ありがとうございます」
由奈は書類を見る。
「こちら、提出期限は?」
「早めで」
「何日ですか?」
「できたら今日」
「今日ですね」
「はい」
「最初からそう言ってください」
「……はい」
陸が戻っていく。
直人が笑っていた。
「桐生さん」
由奈が呼ぶ。
「はい?」
「佐伯さんには伝わるのかもしれませんが、私はまだ『昨日のやつ』では分かりません」
「すみません」
「お願いします」
「はい」
陸が素直に頷く。
「佐倉さん」
直人が言う。
「陸には全部聞いた方がいいよ」
「全部?」
「主語と期限と相手」
「佐伯さん」
「何?」
「分かってるなら、佐伯さんが教えてあげてくださいよ」
「そのうち慣れる」
「……慣れた結果がそれなんですね」
「何か言った?」
「いえ」
由奈は書類へ視線を戻した。
少しだけ。
分かってきた。
直人は普通に見える。
実際、普通なのだと思う。
ただ。
陸に慣れすぎている。
昼前。
来客があった。
「こんにちは。神谷社長と十一時にお約束しているのですが」
「お待ちしておりました」
由奈が立ち上がる。
「どうぞ、こちらへ」
来客用の席へ案内する。
「少々お待ちください」
「ありがとうございます」
由奈はお茶を用意する。
顔合わせの後に用意された、来客用のお茶だ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「今日は暑いですね」
「本当ですね。外を少し歩いただけで汗が出ますよ」
「冷房、寒すぎませんか?」
「大丈夫ですよ。ありがとうございます」
ほんの短い会話。
それだけだった。
しばらくして客を見送る。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。またよろしくお願いします」
ドアが閉まった。
由奈がカップを片付けようとすると。
「由奈さん」
「はい?」
澪だった。
「先ほどのお客様ですが」
「はい」
「お茶を出す際、天気の話をしていましたね」
「ああ、はい」
「必要でしょうか?」
「……」
由奈の手が止まる。
「今日は暑いですね、という話ですか?」
「はい」
「必要というか……」
由奈は考える。
「何も話さないより、いいかなと思いまして」
「業務には関係ありません」
「そうですね」
「では、なぜ?」
「……」
由奈は澪を見る。
本気だ。
「あの」
「はい」
「待っている間、無言だと気まずい方もいらっしゃるので」
「気まずい」
「はい」
「会話がなくても、待ち時間は変わりません」
「時間の問題ではなくてですね……」
澪が首をかしげる。
由奈は言葉を探した。
「気持ちの問題です」
「……気持ち」
「はい」
澪が少し考える。
「分かりました」
「分かりました?」
「必要性は完全には理解できませんが、由奈さんが必要だと判断したのであれば、お任せします」
「……ありがとうございます」
由奈は笑った。
少し変わっている。
でも、自分に分からないからと否定する人ではないらしい。
必要だと説明すれば、任せてくれる。
ただ。
やっぱり接客には、あまり向いていない。
午後。
優真が戻ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「疲れたー」
「優真さん」
「はい」
「予定より一時間遅れています」
「ごめん。最後のところで話が長くなって」
「連絡してください」
「はい」
優真が鞄から資料を取り出す。
「でも、仕事一件増えたよ」
「……」
陸の手が止まった。
「社長」
「何?」
「増やしていいって言ってないですよ」
「大丈夫。そんなに大きくないから」
「誰が判断したんですか?」
「俺」
「社長、プログラム分からないですよね?」
「……陸くん」
「はい」
「それ言われると弱い」
「資料ください」
「はい」
優真が素直に渡す。
陸が資料を確認する。
「……」
「どう?」
「これなら大丈夫です」
「でしょ?」
「結果的には」
「よかった」
「次から取る前に聞いてください」
「分かった」
「本当ですか?」
「なるべく」
「なるべくじゃなくて」
「善処します」
「それ、やらない人が言うやつですよ」
直人が吹き出した。
「陸、お前も分かってきたな」
「笑ってないで佐伯さんからも言ってください」
「まあ、無理な量なら俺も止めるよ」
「取ってくる前に止めてほしいんですけど」
「……」
由奈はそのやり取りを黙って見ていた。
営業はすごい。
人当たりもいい。
取引先からの信用もある。
仕事も取ってくる。
ただ。
その後の管理は、かなり周りに助けられている。
「由奈ちゃん」
「はい」
「今日どうだった?」
「え?」
「初日」
「ああ……」
由奈は事務所を見回した。
優真。
澪。
直人。
陸。
「そうですね……」
少し考える。
「皆さん、すごいと思います」
「本当?」
「はい」
優真は営業。
澪は管理。
直人と陸は開発。
それぞれ、自分にはできない仕事をしている。
「ただ」
「ただ?」
「……」
由奈は少し迷った。
初日から言っていいのだろうか。
「何?」
優真が聞く。
「いえ」
由奈は柔らかく笑った。
「私の仕事も、ちゃんとありそうで安心しました」
「そりゃあるよ」
優真も笑う。
「だから来てもらったんだし」
「そうですね」
由奈は自分の席へ戻った。
その時、電話が鳴る。
「はい」
すぐに受話器を取った。
「お電話ありがとうございます。株式会社ネクシア、佐倉でございます」
優真が営業へ出ても。
澪が数字に集中していても。
直人と陸が開発を止めなくても。
電話は取れる。
客が来ても対応できる。
書類も整理できる。
一人で何でもできる必要はない。
できないことがあるなら、できる誰かがやればいい。
「はい。いつもお世話になっております」
由奈は電話の向こうの相手に、柔らかな声で応えた。




