婚約破棄されたけど、隣国の竜王陛下に溺愛されているので今更遅いと言い放ちます
王宮の広間は、刺すような静寂に包まれていた。
豪華絢爛なシャンデリアの光が、中央に立つ私、リディア・ヴェルディアを冷たく照らす。
私の目の前には、傲慢な笑みを浮かべた金髪の男がいた。
この国の王太子であり、私の婚約者であったアリステア殿下だ。
彼の隣には、薄っぺらな笑みを貼り付けたセレナが寄り添っている。
「リディア・ヴェルディア。貴様との婚約を、ここに破棄する」
アリステア殿下の声は、高らかに、そして高慢に響き渡った。
私はただ静かに、その言葉を受け止める。
顔色一つ変えずに。
私の胸中に渦巻くのは、怒りよりもむしろ、冷え切った嘲笑だった。
「貴様は地味で魅力に欠け、精霊の加護も持たぬ。この国の繁栄には何の貢献もできない無能な存在だ」
アリステア殿下はそう言い放ち、セレナへと視線を向けた。
「それに比べ、セレナ嬢は違う。彼女こそが高位の精霊に愛されし乙女。この国の真の光となるだろう」
セレナは、甘ったるい声で「もったいないお言葉ですわ」と囁きながら、わざとらしく胸元で手を組んだ。
その瞬間、彼女の背後で、事前に仕込まれたかのように光る魔石が輝く。
広間の貴族たちは、それを精霊の奇跡だと信じ込み、口々に感嘆の声を上げた。
彼らは何も知らない。
あの魔石がただの贋作であることも、セレナが精霊の加護など一片も持たぬことも。
本当の精霊の加護とは、こんな表面的な輝きなどではない。
私の足元で、宮廷の床から伸びた小さな雑草が、ひっそりとだが鮮やかな花を咲かせた。
アリステア殿下は、花など目にも留めず、私を侮蔑の眼差しで見下ろす。
「貴様のような役立たずは、我が国の王妃には相応しくない。即刻、屋敷から立ち去るがいい」
周囲の貴族たちは、彼の言葉に同調するようにざわめく。
「やはり王太子殿下は正しかったのだ」
「リディア嬢では、頼りないからな」
「セレナ嬢こそ、国の希望だ」
彼らの視線は、盲目的な熱狂と、私への憐憫、そして嘲りを含んでいた。
だが、彼らが崇める「精霊の加護」とやらが、いかに薄っぺらいものか。
この国の豊かな土壌、清らかな水、穏やかな気候、その全てが、私という存在が隣国の竜王陛下から授かった「高位精霊の息吹」によって維持されていることを、誰も知らない。
知らぬままに、彼らは自らの首を絞めようとしているのだ。
私は、ただ無言で頭を下げ、王宮の出口へと歩き始めた。
私の内側では、隣国から遠く離れた場所で、ただ一人の男性が私の身を案じ、この茶番を冷徹に見つめている気配を確かに感じていた。
冷酷なる竜王陛下。
私の真の婚約者。
彼の強大な力が、私を包み込むように優しく、そして激しく求めているのを感じる。
アリステア殿下とセレナの背後から、彼らの愚かさを嘲笑うかのように、風がそよぎ、広間の窓を小さく揺らした。
その風は、どこか遠い国の、凍えるような高地を思わせる冷たさを宿していた。
この国が失うものと、私が手にするものの差は、あまりにも大きい。
そう、愚かな彼らに気づかせるのは、まだ先の話だ。
私は振り返ることなく、王宮の門を後にした。
私の心は、凍てつくように冷たく、しかし同時に、燃えるような期待を秘めていた。
この茶番劇は、今、始まったばかりだ。
そして、その結末は、私が知る限り、彼らにとって決して喜ばしいものではない。
***
王宮の重い扉が背後で閉まる音は、まるで愚かな劇の終幕を告げるかのようだった。
私は振り返らず、ただ前だけを見た。
足元に広がる石畳は、まだ夏の盛りだというのに、妙に冷たく感じられた。
王都の喧騒も、いつの間にかどこか遠くに追いやられ、代わりに不穏な静けさが街を覆い始めていた。
私の背後で、宮廷魔術師たちがセレナ嬢の「奇跡」を讃える声が聞こえる。
彼らは、彼女が咲かせたという、偽りの花に陶酔しているのだろう。
だが、その偽物の輝きは、長くは続かない。
なぜなら、この国の生命線である高位精霊の息吹は、私と共にこの王宮を去ったのだから。
私が王都の外縁にあるささやかな隠れ家に着く頃には、異変は既に始まっていた。
街路樹の葉が、本来の色を失い、早くも枯れ色に変わり始めている。
道行く人々の表情にも、微かな不安の色が浮かび始めた。
彼らはまだ、その異変の原因が、私という存在がこの国から去ったことにあるとは気づいていない。
翌日、王宮からはセレナ嬢が「新たな精霊の加護を得た」と宣言し、大規模な灌漑プロジェクトを開始したという報が届いた。
しかし、その報告とは裏腹に、王都の泉は徐々に干上がり、畑の作物は萎れ、家畜は理由もなく病に倒れていった。
精霊の恵みなくして、この豊かな国は成り立たない。
隣国の竜王陛下が、私の存在を通じて与えてくださっていた加護は、まさにこの国の礎だったのだ。
「フン、リディアなどいなくても、セレナ嬢がいればこの国は盤石だ!」
王太子アリステア殿下の高慢な声が、風に乗って私の隠れ家まで届くようだった。
彼らは、自分たちの愚かさに気づくことなく、破滅への道を突き進んでいる。
その時、隠れ家の窓の外を、一陣の凍えるような風が吹き抜けた。
それは、隣国の高地から吹く、竜王陛下の息吹を思わせる風だった。
その日の午後、王宮に隣国「ドラコニア帝国」からの緊急使節団が到着した。
彼らは武装した竜騎士を従え、威風堂々たる姿で王宮に乗り込んだ。
使節団を率いるのは、竜王陛下直属の宰相、アトラスだ。
広間に集められた貴族たちの前で、アトラスは冷徹な声で告げた。
「貴国が我が帝国の第二皇女であり、竜王陛下の婚約者であるリディア・ヴェルディアを侮辱し、追放したことを確認した」
広間は静まり返った。
宰相の言葉に、アリステア殿下もセレナも、そして貴族たちも、耳を疑う表情を浮かべる。
「り、リディアが……ドラコニア帝国の、第二皇女だと? まさか!」
アリステア殿下が震える声で叫んだ。
アトラスは、嘲笑を隠すことなく続ける。
「ご存知なかったとは。我が国は、貴国に与えていた『高位精霊の息吹』、すなわち我が陛下の加護を、本日をもって完全に撤回する」
「精霊の息吹……まさか、この国の豊かさが、リディアの加護だったとでも言うのか!」
セレナがヒステリックに叫んだが、その声は焦燥に満ちていた。
その瞬間、広間の窓から差し込む陽光が、急激に力を失い、部屋全体が薄暗くなった。
天井の豪華な装飾が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちる。
「嘘だ! そんな馬鹿なことが!」
アリステア殿下は顔面蒼白になり、足元が崩れ落ちるかのようにぐらついた。
彼の隣で、セレナもまた、その偽りの笑顔を完全に剥がれ落ちさせ、恐怖に歪んだ顔で茫然と立ち尽くしていた。
「今更、気づいても遅い。貴国が愚かな選択をした代償は、これから支払われることになる」
アトラス宰相の言葉は、氷のように冷たく、彼らの心臓に直接突き刺さった。
王都の空には、不気味な暗雲が立ち込め始め、遠くで雷鳴が轟いた。
ドラコニア帝国の宣戦布告と、彼らが失ったものの大きさを、ようやく彼らは悟り始めたのだ。
***
ドラコニア帝国の宰相アトラスが、氷のような宣告を下したその瞬間から、旧ヴェルディア王国の破滅は電光石火で進んだ。
王都の空は常に分厚い鉛色の雲に覆われ、太陽の光は完全に途絶えた。
精霊の息吹が失われた大地は、瞬く間に不毛の荒野と化し、水は枯れ、作物は腐り落ちた。
人々は飢え、喉の渇きに苦しみ、絶望が街を覆い尽くした。
「嘘だ! これは精霊の加護だと言ったではないか!」
セレナは宮廷魔術師たちに詰め寄ったが、彼らの顔もまた青ざめ、口々に「私には何もできません!」と叫ぶばかりだった。
彼女が咲かせたという偽りの花は、水も光も失った世界では、醜く萎れるしかなかった。
精霊の力は、彼女の薄っぺらい模倣では決して代替できない、真実の恩恵だったのだ。
飢えと渇きに苦しむ市民たちは、次第にその矛先を王宮に向け始めた。
「リディア様を追放したせいだ! あの方がいたからこそ、私たちは豊かだったのだ!」
「あの女と無能な王太子が、この国を滅ぼした!」
盲目的にアリステアとセレナを崇拝していた民衆は、掌を返したように怒号を浴びせかけた。
王宮前には、日を追うごとに怒れる群衆が増えていった。
そして、ついにその時が来た。
厚い雲を突き破り、王都の空に巨大な影が現れた。
それは、宵闇の黒髪に血の紅眼を持つ、絶対的な支配者――竜王陛下、ルキウスその人だった。
ルキウスは巨大な竜の姿で空を舞い、その威圧的な存在は、旧ヴェルディア王国のわずかな抵抗すらも粉砕するかのようだった。
彼の背には、優雅に玉座に座る私の姿があった。
ルキウスが王宮の庭に降り立つと、その圧倒的な覇気にひれ伏さない者は誰もいなかった。
アリステアとセレナは震えながら広間に引き出され、ルキウスの前に跪かされた。
彼の血の紅い瞳が、冷徹に二人を見下ろす。
「愚かなる者たちよ。我が妃、リディアを侮辱し、我が加護を拒んだ罪は、万死に値する」
ルキウスの声は、大地を震わせるほどの重みがあった。
私はルキウスの隣に立ち、かつての婚約者と、その横で震えるセレナを見下ろした。
「リディア……すまない、頼む、許してくれ! もう一度、この国に精霊の息吹を……!」
アリステアが這い蹲り、醜く命乞いをする。
「違います! 私も騙されたのです! リディア様、どうか……」
セレナもまた、かつての傲慢な輝きを完全に失い、顔を歪ませて懇願した。
私は冷たく一蹴した。
「今更遅い。あなた方が選んだ道は、あなた方が望んだ結末だ」
その言葉に、アリステアとセレナは愕然として顔を上げたが、そこにあったのは、もはやかつての優しき令嬢ではなく、気高きドラコニア帝国の第二皇女の、氷のような眼差しだった。
ルキウスは手を上げ、彼の背後に控えていたアトラス宰相が前に出た。
「これより、旧ヴェルディア王国の全領土はドラコニア帝国の直轄領となる。アリステア・ヴェルディア元王太子と、セレナ・ラファエルは、最北の『極寒の冷宮』へ幽閉とする」
「極寒の冷宮……あそこは、氷の砂漠で、何も作物も育たない……」
アリステアは絶望に顔を歪めた。
そこは、かつて罪を犯した王族が送られた、生きて帰れることのない流刑地だった。
精霊の加護が失われた今、そこはまさに地獄と化すだろう。
セレナは顔面蒼白になり、乾いた唇からか細い悲鳴を漏らした。
「そんな……! 私がこんな目に遭うなんて……!」
王都の民衆からは、歓声と怒号が入り混じった声が上がった。
彼らは自分たちの過ちを認め、新しい支配者であるルキウスと、真の救世主である私を、熱狂的に受け入れた。
アリステアとセレナは、民衆の罵声と、無慈悲なドラコニア帝国の兵士に引きずられ、その姿は遠のいていった。
彼らの視線の先には、もはや何もない、未来のない絶望だけが広がっていた。
ルキウスは私を優しく抱き上げ、再び竜の背に乗せた。
彼の腕は力強く、私を世界の全てから守るかのようだった。
「さあ、リディア。もう、あの愚かな場所を見る必要はない。我らの新しい旅が始まる」
私は頷き、振り返ることなく、生まれ変わったドラコニア帝国の皇女として、ルキウスと共に夕焼けの空へと舞い上がった。
遥か下には、精霊の息吹が戻り、徐々に活気を取り戻し始める王都の姿が見えた。
私とルキウスの旅は、ここから新たな輝かしいステージへと向かうのだ。




