〈わたし〉
――いいですか? 決して、ここを出てはなりません。人前にも出てはなりません。
――どうして?
――そういうものだからです。
――そういうものだから……?
〈あれ〉は、目を覚ました。
思い出すと、なぜだか胸が締めつけられる昔の夢。
ほんの少しの記憶の欠片。
物心つく前の、何年か前までそばにいた、黒子の女。
〈あれ〉が話しかけても、すがりついても無反応だったから、滅多に会話をすることはなかった。ただ、身の回りのことをしてくれていたのは、ぼんやりと覚えている。
黒子の女の動きはいつも最低限で、一切の無駄がなかった。
発語を覚えるのに必要な絵本を、決まった時間に機械のように読み上げ、着替えを手伝い、身体の洗い方や用の足し方を事務的に教える。
〈あれ〉が一人で歩けるようになり、必要最低限の身の回りのことができるようになるまでそれが続いた。
そして、夢で見た会話をしたその日に、忽然と姿を消した。
この『黎明の宴』という本を一冊だけ残して。
〈あれ〉は、常夜の月明りを頼りに、胸に抱いていた本を開いた。
和紙を糸で綴じた、古めかしい絵本。
描かれているのは、一人の英雄と少女の物語。
英雄は、化け物と呼ばれた女の子にも分け隔てなく接し、ともに世界を照らす光を求めて、龍の賢者を探す旅へ出たという。
困難な旅路の果てに龍の賢者と出会い、仲良くなった彼らのそばには、日に日に仲間が増えていく。
そうして、夜も賑わうお祭り――『黎明の宴』で、笑い合うのだ。
一週間に一度の物資の中には、他の絵本も、よく分からない難しい本もあったが、この『黎明の宴』は特別だった。
この絵本を読むたびに、〈あれ〉の胸は熱くなる。
だから、絵本の女の子の笑顔を真似して笑ってみるのだが、いまだによく分からない。
いつも、何かが足りない気がする。
〈あれ〉は、いつものように縁側に座り、足をぶらぶらさせながら考えた。
絵本の中の女の子は、自分のことをきらきらした言葉で呼んでいる。
それはとても温かくて、すがりたくなる衝動を抑えられないほど、優しい響きに思えた。
その言葉にずっと熱いものを感じつつも、〈あれ〉にはもったいないんじゃないかと、口に出すのをためらっていた。
けれど、今日は、少しだけ勇気を出してみることにした。
誰もいない。誰も見ていない。だから、真似してみても大丈夫。
「――わたし……」
喉が震えた。
ほっぺがぶわっと熱くなり、それが目元まで集まってくる。
黒い靄を、消し飛ばしてくれる気さえした。
〈あれ〉じゃない。〈わたし〉は、〈わたし〉なんだ。
絵本の中の英雄が、そう許してくれるような気がしたのだ。
「わたし、うれしいんだ」
その声が誰もいない中庭に響き、少しだけ、口角が上がった気がした。




