〈あれ〉
とある里のはずれ。
山奥に進んだ先に、さびれた数寄屋造りの離れがある。
化け物の忌み姫がいると噂されるその屋敷で、妖狐の少女が独りぽつねんと、座敷の鏡台をのぞき込んでいた。
――鏡の向こうで、〈あれ〉がじーっとこちらを見つめている。
齢七歳の瑞々しい白肌と、深栗色のさらさらとした髪の毛。
そして、異質な、両目にまとわりつく黒い闇の靄。
(やっぱり、とれないや……)
その黒もやは、ごしごしと擦っても、水で洗っても、決して消えることはない。
物心ついた時から、両目はこの気味の悪いもやもやに覆われていた。
目は見える。
でも、相手からこちらの目は見えない。
名もなき不気味な化け物。
忌み子の姫。
通称、〈あれ〉〈それ〉〈これ〉。
里の大人たちが忌々しげにそう呼ぶから、鏡の中の〈それ〉は〈あれ〉なのだ。
〈あれ〉には名前がない。
話し相手も、触れ合える相手も、誰もいない。
週に一度、里の者がこの山奥の離れにやって来て、玄関に一週間分の物資を置いていく。
彼らの会話に聞き耳を立てることはできても、話しかけたり、人前に現れることは禁止されている。
与えられた本を独りで読んで学び、与えられた食料を独りでやりくりして生き延び、人の温もりや常識を知る機会はない。
生まれた時から、どうしてなんだろう。
――そういうものだからです。
ふいに、記憶の欠片が脳裏をよぎる。
分からないけれど、そういうものなんだ。
だから、きっと、仕方ない。
〈あれ〉は、縁側に座った。
常夜の闇のなか、月光で照らされた庭と、池の周りに群生する赤いヒガンバナ。
それらを何となく見て、ふんふんふーんと、鼻唄を歌ってみる。
遠くから、楽しげな祭囃子が聞こえて来る。
里には一度も行ったことがない。気になるけれど、ここを出てはいけないから仕方ない。
太鼓の音に合わせて、足をぶらぶらさせてみる。
やわらかいほっぺを、むにゅっと両手で持ち上げて、笑ってみる。
よく、分からない。
『黎明の宴』の本に書いてあった笑顔って、どうやって作るんだろう。
祭りの音と鈴虫の鳴き声が彩る夜に、孤独な少女は独り、きょとんと首をかしげたのだった。




