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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
2部:1幕:外采使入寮~

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98話:明日の分まで

 灰色の空気はもう三度目だった。


 朔は外采門の控え詰め所で苗札を棚に預けた。木片を立てかける手つきは、まだぎこちない。隣に並ぶ何十枚もの苗札が視界の端にちらつく。一度目は木の手触りだけだった。三度目は——木目の色の違いが見えるようになった。それだけ、ここに通っている。


---


 虎太郎が控え詰め所に立ち、隊形を示した。


 「今日の巡哨は灰輪の東寄りを廻る。隊形はいつも通り。——朔くんたちの仕事は、見ること」


 虎太郎が先頭。最前衛。彰吾が右翼に散って遊撃。澪が後方で索敵の菌糸を地中に広げる。巴が虎太郎の後背に位置する。朔の班は——その後ろ。後方観察。


 虎太郎がにこりと笑った。


 「手を出さなくていい。——でも、目は閉じないでね」


 凌が鼻から息を抜いた。「見てるだけ」が、凌にはいちばん難しい任務だった。練刀の鞘に添えた手が微かに動いている。善次郎は腕を体の脇に下ろしたまま、静かに虎太郎の配置を目に収めた。蓮は弓の弦を親指で弾いて張りを確認していた。


 朔は鳴弦に手を向けた。偵察飛行を出そうとした——鳴弦が翼をわずかに広げかけた瞬間、虎太郎の声が届いた。


 「まだいいよ。まず地上を見て」


 理由は言わなかった。朔は一拍、間を置いた。鳴弦が翼を畳む。朔は頷いた。


---


 外采門が開いた。


 灰色の大気が流れ込んだ。鉄錆と腐葉の匂い。法力が肌の上をすべる感触。三度目でも体は馴れない。結界を出た瞬間に五感のすべてが切り替わる——それだけのことが、もう「驚き」ではなく「確認」に変わりつつある。驚かなくなった分だけ、異質さの輪郭が鮮明になった。


 虎太郎が先頭を歩いた。迷いのない足取り。朔の歩幅より半歩長く、けれど急がない。灰の道を歩き慣れた者の速度。


 彰吾が右翼に散って走った。走りながら——一瞬、片手を地面につく。指先が灰の地面に触れ、離れた。地錬術の仕込み。朔の燭明術が彰吾の法力の残滓をかすかに捉える。彰吾が通った地面に、人の目には見えない法力の仕込みが点々と埋まっていく。


 澪は後方にいた。何も言わない。ただ指先が微かに動いている。地中に菌糸の網を展開している気配。朔は燭明術の視界の端に、地面の下で細い法力の糸が四方に伸びていくのを感じた。


 巴が虎太郎の二歩後ろを歩いた。癒し手の位置。前衛のすぐ背後。


---


 枯蔦の森の外縁に差しかかったとき、彰吾が足を止めた。


 「虎。右前方、三」


 短い報告。澪の視線が右に動いた。


 灰色の枯草の影から——三体が這い出た。


 骸狗。穢魔の六位。犬の骨格から肉が削げ落ちたような姿。四肢が不自然に長く、関節が人間と逆に折れている。骨と灰色の筋繊維が剥き出しになった体躯から、低い唸りが漏れた。


 朔は骸狗を知っていた。教導寮の出仕見習いで何度も倒した相手。凌なら戦刃術の一薙ぎで崩せる。善次郎の壁の前では足を止める。蓮の癒除術で穢れを抑えながら処理する——教導寮の訓練で確立した手順がある。


 けれど——体が違うことを告げた。


 骸狗が跳んだ。


 朔が結界の法力を掌に集めようとした。反射だった。後方観察だと分かっていても体が動く。法力を流す——流れが、鈍い。結界内なら意識しなくても法力が形を取る。ここでは手の先で法力を「押し込む」必要がある。同じ術式なのに応答が遅れる。水の中で腕を振るような抵抗。


 法力が——すべる。


 朔は手を止めた。虎太郎の班が動いたからだ。


 彰吾が右翼から走り込んだ。骸狗の足元——先ほど仕込んだ地錬術が発動した。乾いた灰の地面が一瞬で泥濘に変わり、骸狗の前脚が膝まで沈んだ。三体が同時に姿勢を崩す。前脚が泥に吸い込まれ、体が前のめりに傾いた。


 虎太郎が穿月を抜いた。


 一歩も動かなかった。


 骸狗が崩れた姿勢のまま前に倒れ込む軌道——その到達点に、虎太郎は最初から立っていた。穿月が弧を描いた。一閃。背筋を使っただけの振りだった。腕力ではなく、体幹の軸の回転が刃を走らせた。


 三体が——一太刀で落ちた。


 斬撃の軌跡が三体の頸を同時に通った。骸狗の体が崩れ、灰の地面に倒れ込み、法石だけが鈍い光を残して転がった。


 虎太郎の体が定位置に戻った。穿月を下ろす。構えが解かれる。——呼吸が乱れていない。


 朔は燭明術で見た。虎太郎の法力の流れが——戦闘前と変わっていない。あの密度のまま。雷火術も使っていない。体術と刃の角度だけで六位三体を一振りで仕留めた。


 「……あの法力消費で、三体を」


 朔が呟いた。


 凌の赤銅色の目が虎太郎の太刀筋を追っていた。何も言わなかった。練刀の柄を握る手が——強くなっていた。


 善次郎が足元を見ていた。彰吾の地錬術で崩れた泥濘を。彰吾がどこに仕込みを入れたか、善次郎は確認していた。同じ土行の使い手として、彰吾の地形制御の精度を測っている目だった。


 蓮は護帯の法石に目を落とした。光は変わっていない。まだ満ちている。観察者として——法石の光を確認する習慣が、蓮の中で形を取り始めていた。


---


 石牙丘陵の手前に差しかかったとき。


 澪の声が響いた。


 「正面。一体。大きい」


 それだけだった。短く、平坦で、感情が乗っていない。けれど「大きい」という一言が——六位ではないことを告げていた。


 灰色の街道の先に影が見えた。


 鉄食み。悪鬼の五位。大猪ほどの体躯に、錆びた武器の破片が無数に突き刺さっている。外殻は鉄と穢れの複合装甲。朔は教導寮の出仕見習いで鉄食みを見たことがある。凌が雷火術で加速し、戦刃術の全力の一太刀で装甲ごと叩き割った。善次郎が樹相術の壁で受け止め、朔の結界で安全地帯を確保した。四人がかりの全力戦闘。法力を大きく消費して、ようやく一体。


 虎太郎が足を止めた。


 穿月を引き抜かなかった。右手が柄にかかっただけ。腰を微かに落とし——待った。


 鉄食みが虎太郎を認識した。大猪の顔が持ち上がり、装甲の隙間から赤い光が覗いた。地面を蹴った。重量のある突進。灰の地面が砕け、砂利が弾ける。轟音。


 虎太郎が動かない。


 突進が近づく。十間。五間。三間——。彰吾が右から駆け込み、地錬術で鉄食みの右前脚の地盤だけを一瞬柔らかくした。鉄食みの体がわずかに右に傾いた。軌道が一尺ずれた。


 その一尺のずれを、虎太郎は最初から待っていた。


 穿月が一閃した。


 装甲を斬らなかった。首元の——外殻が途切れる肉の結節部だけを、正確に通した。刃が肉に入り、抜けた。穿月の軌道は最短。振りかぶりもしなかった。体幹の回転だけの、背筋の一振り。


 鉄食みは止まらなかった。突進の勢いのまま虎太郎の脇を通り過ぎ——三歩で足がもつれ、五歩で地面に崩れ落ちた。首元から黒い血が灰の地面に染みた。


 虎太郎が穿月を振って血を払った。刀身を確認し、鞘に収める。息が乱れていない。


 朔は燭明術をかけた。虎太郎の法力の流れを見た。


 ——変わっていない。


 五位を仕留めた前と後で、虎太郎の法力残量がほとんど変わっていなかった。雷火術を使っていない。戦刃術の法力付与すら最小限。体の動きと刃の角度——装甲の隙間という一点に、必要なだけの斬撃を、必要なだけの法力で通した。


 凌が——立ち尽くしていた。


 赤銅色の目が虎太郎の姿を射抜くように見ている。何も言わなかった。言葉が出なかった。凌の中で起きていることを、朔は横顔から読み取ろうとした。


 凌が同じ鉄食みを倒すなら——雷火術で加速して突っ込み、戦刃術を全開にして装甲ごと叩き割る。勝てる。倒せる。けれど法力は大きく消耗する。凌の戦い方は「全力の一撃」だ。練刀に法力を注ぎ込み、蒼白い光を纏わせて、一撃で叩き潰す。それが凌の強さであり、教導寮では誰にも負けなかった。


 虎太郎は——法力をほとんど使わずに同じことをやった。


 同じ戦刃術の最高適性。同じ雷火術の最高適性。凌と同じ術式適正でありながら、使い方がまるで違う。虎太郎は「斬る力」ではなく「斬る場所」で仕留めた。出力ではなく精度。爆発ではなく効率。


 凌は「負けた」とは感じていなかった。力で負けた気はしない。もしここで虎太郎と切り結べば——いや、勝てないことは見習い派遣のときに知っている。けれどそれは「力の差」だと思っていた。今日、初めて見えたのは——力の差ではなく、質の差だった。


 何が違うのか。凌にはまだ名づけられなかった。「効率」という言葉を凌は持っていなかった。ただ——「わからない」という感覚が、胸の奥に刺さった。


 北斗衆第一班はいつも通りだった。彰吾が鉄食みに近づき、装甲の隙間から法石を取り出した。何事もなかったように動いている。手慣れた所作。澪は黙って穢れの分布を走査していた。鉄食みの血が灰の地面に染みた場所を、無言で避けて立っている。


 巴が虎太郎に近づいた。


 「怪我は」


 穏やかな低い声だった。癒し手が班長に問いかける、日常の一言。


 虎太郎が振り返った。


 「ないよ」


 笑った。穏やかに。五位を一太刀で仕留めた後の顔が——朝、控え詰め所で朔たちに笑いかけた顔と、同じだった。


 この班は——これが日常だった。


---


 巡哨は半日に及んだ。穢魔の群れを二つ、悪鬼を一体。虎太郎の班が処理し、朔の班は後方で見ていた。


 昼を過ぎた。灰色の空に変化はなかった。太陽の位置すら判然としない均質な灰の天蓋。時間の感覚が薄れる。足裏に蓄積した硬い地面の感触だけが、歩いた距離を教えていた。


 朔は護帯の法石に手を当てた。光を確認する。悪鬼の法石が五つ、淡い光を湛えている。——まだ充分に満ちていた。出発時から目に見えるほどの変化はない。法力残量も、朔の分析では七割以上が残っている。


 まだ行ける。帰還予定時刻にも達していない。朔の分析はそう出した。


 虎太郎が足を止めた。


 全員の足が止まった。彰吾が右翼から歩いて戻り、澪が菌糸の展開を止めた。巴が虎太郎の隣に並んだ。


 虎太郎が灰色の空を一度見上げた。


 「——帰るよ」


 朔は——一瞬、耳を疑った。護帯の光はまだ満ちている。法力も余裕がある。穢れの累積も基準を大きく下回っている。帰還予定時刻まで数刻ある。撤退三条件のいずれにも該当しない。


 なぜ——今、帰るのか。


 朔の疑問は口に出さなかった。けれど表情に出ていたのだろう。虎太郎が朔を見た。


 叱らなかった。


 「朔くん」


 穏やかな声。問いの形をしていた。


 「朔くんの護帯、今日の分はどのくらい消耗した?」


 朔は法石に意識を向けた。燭明術の精密な視界で護帯の法力残量を読む。出発時の光量と今の光量の差。


 「……おそらく、三分ほどです」


 虎太郎が頷いた。


 「うん。じゃあ、明日も同じだけ消耗するとして——明後日も、その次の日も——一ヶ月後に護帯の残量はどうなってる?」


 朔の中で数字が動いた。


 毎日三分。十日で三割。二十日で六割——法石交換までの一ヶ月の間に、消耗は九割に届く。しかも穢れ濃度は一定ではない。日によっては倍の六分を食われることもある。変動を加味すれば——三週間目で護帯の光が痩せ始める計算になる。


 毎日三分で帰れば、一ヶ月後にまだ法石は保つ。けれど毎日「まだ行ける」と思って粘り、五分六分と消耗を重ねれば——二十日を待たずに護帯の底が見え始め、引き返せない日が来る。


 朔は——理解した。


 虎太郎が言葉を継いだ。


 「一回の任務だけでなく、翌日の分、翌々日の分まで計算する。護帯の消耗の推移を考えると、余力を残して帰るのが——」


 虎太郎の声は穏やかだった。教えているのではなく、事実を並べている声だった。


 「——俺たちの帰り方だよ」


 外采使は——毎日出る。


 朔の中で数字が繋がった。毎日三分。十日で三割。二十日で六割。今日「まだ行ける」と粘って五分六分と消耗を重ねれば、二十日を待たずに護帯の底が見え始める。一回の勝利ではなく、三十日間勝ち続けること——「一回勝てること」と「毎日勝ち続けること」は別だった。


 虎太郎の法力管理が繋がった。骸狗三体を体の動きだけで斬った。鉄食みを装甲の隙間だけを通して仕留めた。法力を使わないのではなく——残している。


---


 外采門が見えた。


 門に近づくにつれて法力のすべりが消えていく。体が先に知った——ここから向こうは里だ。


 虎太郎が門の前で立ち止まった。法力信号を送り、門が軋みを上げて開いた。門の向こうから炊事の煙と土の湿りが流れ込んだ。朝、断ち切られた匂いが戻ってくる。


 門番が里に向かって合図を送った。


 「灯りが帰った——」


 朔はその言葉を初めて聞いた。まだ、ただの合図だった。


---


 控え詰め所に戻った。


 朔は棚から自分の苗札を手に取った。桐の木片は朝のまま——朽ちていない。名前が刻まれている。当たり前のことだった。出かけて帰ってきただけだ。苗札が朽ちるはずがない。それなのに——木片を手に取ったとき、少しだけ体が軽くなる気がした。


 凌が苗札を取り、何も言わず腰に差した。


 善次郎が苗札を取り、掌に乗せて一瞬だけ確かめた。それから布の袋にしまった。


 蓮が苗札を取り、「よし」と小さく呟いた。


 法石の提出を済ませ、班長の虎太郎が口頭報告を行った。彰吾が回収した法石を計数し、書記官が聞き取る。


 朔は虎太郎の報告が終わるのを待って、声をかけた。


 「虎太郎さん。今日の護帯の消耗、三分でした」


 虎太郎が振り返った。朔を見て——少し驚いた顔をした。それから穏やかに笑った。


 「うん。明日も教えて」


 短いやり取りだった。けれど朔は自分の中で何かが始まったのを感じた。毎日の消耗を記録し、累積を管理する——虎太郎の「帰り方」を、自分の体に刻み込む最初の一歩。


 穢れ検査に並んだ。浄身院の派出所。癒し手が一人ずつ術式で穢れの蓄積度を確認する。朔の番が来た。第零期——自覚症状なし。結界内で安静にしていれば自然回復する水準。


 「問題なし」


 癒し手が淡々と告げた。凌も善次郎も同じ判定だった。


 蓮の番が来た。浄身院の癒し手が蓮を診る。穢れの蓄積を確認し——ふと、蓮の手に目を落とした。


 「……いい手だね」


 短い言葉だった。蓮が一瞬きょとんとした。翡翠色の目が癒し手を見上げる。


 「えっ——ありがとうございます」


 癒し手はもう次の検査に移っていた。蓮は自分の手のひらを見下ろした。何がいいのか——まだわからなかった。


---


 日が傾いた。


 朔は里の道を歩いて帰った。通勤路。朝と同じ道を逆に辿る。板橋を渡り、水路の音を聞き、竃の煙を嗅いだ。すべてが朝と同じだった。けれど足の裏が覚えていた。灰の野の硬い砂利の感触が、まだ靴底の奥に残っている。


 土御門家に着いた。


 玄関の引き戸を開けると、夕餉の匂いが迎えた。瑞が台所に立っていた。朔に気づき、微かに目を細めた。「おかえり」は言わなかった。瑞はいつも——視線だけで迎える。


 居間に入った。鳴弦が右肩から飛び下り、梁に止まった。琥珀色の結縁紐が脚もとで揺れた。


 篝がいつもの場所にいた。


 「おかえり、さくにぃ」


 篝の声はいつも通りだった。変わらない。里の中で変わらないもの。


 「うん。ただいま」


 朔は座った。瑞が椀を並べた。汁物の湯気が立ち上る。箸を手に取った。


 帰って食べる飯は、いつもの味がした。それだけのことが、少しだけ嬉しかった。


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