97話:色のない朝
向かう先が違う。
朔は里の道を歩いていた。配属から数日が経っていた。朝の支度は教導寮に通っていた頃と変わらない——防穢衣を纏い、練錫杖を手に取る。鳴弦が右の肩先に降りた。
変わったのは門だった。
教導寮の門は木と漆喰で出来ていた。蓮が手を振り、善次郎が柱にもたれていた七年間の門。足が覚えている。目を閉じても歩けた。
今朝の足は、北へ向いている。
水路を跨ぐ板橋を渡った。竃から上がる煙が里の空を薄く引いている。里人が朔の装備を見た。——その目が微かに変わった。朔にはまだ名前をつけられない視線だった。
鳴弦が右肩で穏やかな声を落とした。結縁紐——薄鼠と琥珀の結び目——が歩くたびに脚もとで揺れた。
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外采門の控え詰め所に着いた。
木造の詰め所の壁に「帰還予定表」が釘で打たれていた。墨書された班名と帰還予定日の列。
教導寮の朝は声が多かった。ここには声がない。外采使たちが装備の点検をしている。会話は短く、実務的で、誰も声を荒げなかった。
朔は燭明術を起動した。
癖だった。教導寮では訓練場に立つたびに周囲の法力を読んでいた。ここでも体が先に動いた。法力の波長を合わせ、視界を切り替える——控え詰め所に並ぶ外采使たちの法力の流れが、淡い光の筋となって浮かび上がった。
違った。
教導寮の生徒は安静時でも法力が外に漏れていた。体の表面に微かな光が揺れていた。ここにいる外采使たちは違う。法力が体の内側に閉じ込められている。護帯の法石と同じだ——使わないときは光を殺す。
とりわけ虎太郎の法力が目を引いた。穏やかに立っているだけなのに、芯が太い。流れは乱れず、外にも漏れず、体の底に深く沈んでいる。穏やかな表情とは不釣り合いなほどの密度だった。
あの法力管理を、自分も身につけなければならない。朔は意識して自分の法力の漏洩を閉じた。閉じられる。だが意識し続けなければまた漏れるだろう。その「意識し続ける」にどれほどの持久力が要るのか——まだ分からなかった。
凌が控え詰め所の壁にもたれていた。腕を組み、練刀の鞘に片手を添えている。重心がわずかに前にある。いつでも動ける構えを、凌の体が既に覚えていた。善次郎が練薙刀の柄を布で拭いている。丹念な手つきは昔と変わらない。
控え詰め所の向かい側に千早がいた。防穢衣の紐を結びながら、自分の姿勢を確かめるように背筋を正している。朔と同じ見習い。同じ今朝。朔と視線が交わった。千早が小さく顎を引いた。
梶が千早の近くにいた。口を閉じている。教導寮では一番声が大きかった梶が黙っているのは、場の空気のせいか——それとも、あの日から変わったのか。朔には分からなかった。
少し離れた場所でいつきが地面に片手を当てていた。索敵手の習慣がもう体に入っている。朔が通り過ぎるとき目が合い、穏やかに一つ頷いた。
護帯に手をやった。悪鬼の法石が五つ、淡い光を湛えている。「光が痩せる」——先輩外采使が言っていた言葉を、初めて自分ごととして意識した。
蓮が防穢衣の紐を確認しながら、隣の先輩外采使に声をかけた。
「あの、これ——ちゃんと締まってますか?」
先輩は黙って蓮の結び目を見た。何も言わず、手を伸ばし、結び目を直した。紐をきゅっと引いて——それだけだった。直して、手を離した。
蓮が一瞬きょとんとした。無駄な声をかけない。それが外采寮の流儀なのだと、蓮は初めて知った。
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虎太郎が穏やかな声で呼びかけた。
「朔くん、凌くん、善次郎くん、蓮くん——先に一つ、やることがある」
控え詰め所の奥から歩いてきた虎太郎は、見習い派遣のとき出会ったときと同じ笑顔をしていた。くん付けの柔らかさは変わらない。——けれど声の奥に、指揮官の芯が通っていた。
虎太郎が控え詰め所の壁際に四人を連れていった。壁に沿った木棚が並んでいる。棚板の上に苗札が何十枚も立てかけられていた。
桐の木片。名前が刻まれている。
朔は見た。棚の上に並ぶ苗札は大きさも色も微かに違う。新しいものは桐の白が保たれているが、古いものは黄ばみ、木目が浮き上がっている。——中にはくすんで黒ずんだものがあった。名前は刻まれているのに、木の色が暗い。持ち主は——もう取りに来ない。
虎太郎が四人を見た。
「この苗札が朽ちれば、君たちが死んだことになる」
静かな声だった。冷たさはなかった。あくまで事実を伝えている。その静けさが、かえって言葉の重みを隠さなかった。
「——遠征に出るたびにここに預けて、帰ったら自分で取る。それだけのことだよ」
朔は自分の苗札を手に取った。裏面に「外采寮」と三文字が刻まれている。棚に立てかけた。「それだけのこと」が――重い。木片に名前が刻まれている。僕の名前だ。この木片が朽ちれば——。
凌が何も言わず苗札を棚に立てかけた。手が離れる瞬間、一瞬だけ隣の苗札を見た。知らない名前が刻まれている。凌はそのまま手を引いた。
善次郎が苗札を手に取った。掌が一瞬きつく握られた。関節が白くなり——放した。棚に置く音は静かだった。
蓮が苗札を棚に置いた。自分の名前をそっとなぞった。「葛葉 蓮」——細い爪の先が横に動いた。
「……うん」
小さく頷いた。蓮の「うん」は承認だった。自分に対する承認。明るさの中に、決意が静かに据わっている。
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苗札の預託を終えた後。虎太郎が朔に声をかけた。
「朔くん。俺のこと覚えてるかい?」
「はい」
虎太郎は口の端をわずかに持ち上げた。
「あのときの俺と、今日からの俺は少しだけ違う。——でも、嫌なやつにはならないつもりだから」
冗談の響き。だが同時に宣言だった。目の奥に覚悟が据わっている。
控え詰め所の奥から、弓を背負った女が歩いてきた。
虎太郎と同じ黄鉄色の目。ただし虎太郎の目尻が下がって柔らかいのに対し、こちらは目尻が上がって鋭い。漆黒の長髪を高い位置で結い上げ、戦闘衣の袖を肘の上まで捲っている。骨格がしっかりした、精悍な立ち姿だった。
「兄さん、新人?」
虎太郎を見ずに言った。視線は朔たちに向いている。
「うん。——鶫、挨拶してくれる?」
虎太郎の声は穏やかだった。兄が妹に頼む声だった。鶫が朔たちに向き直った。
「矛代 鶫。北斗衆第三班。——弓のことなら聞いてくれていいよ」
歯切れが良かった。回りくどさがない。
鶫の目が蓮に止まった。弓を背負った蓮の手に目を落とし、蓮の弓に目を移した。弓使いが弓使いを見ている目だった。何かを確かめたらしいが、口にはしなかった。
虎太郎の視線が壁に向いた。帰還予定表。
「明朝、卯の刻に」
穏やかだった。けれど——そう告げる虎太郎の目は、指揮官の目だった。
虎太郎が帰還予定表に筆を走らせた。北斗衆第一班と見習い。翌日の日付。朔達見習いの名前が、予定表に初めて並んだ。苗札とは別の「ここにいる証」。ただし帰還予定は「予定」であって——「約束」ではない。
これが——日常になる。
控え詰め所の奥に目を向けると、北斗衆第一班の面々がいた。
彰吾が柱にもたれて四人を見ていた。片手をかるく持ち上げた。
「新人か。……よろしく」
軽い声だった。飄々としている。けれど短い言葉で空気を整える人だと分かった。
澪がその隣にいた。朔たちに視線だけ向け——何も言わなかった。声を出す理由がないという態度だった。
巴が蓮を見た。蓮の護帯に目を落とし、蓮の手に目を止めた。癒し手が新しい癒し手の手を見ている。台詞はなかった。
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外采門が開いた。
鎮護寮の結界担当官が門柱の法力回路を起動させ、結界紋が淡く光った。石造りの門が低い軋み音を上げて開く。門の向こうから、別の空気が流れ込んだ。
鉄錆と腐葉の匂い。甘い腐りかけの酸み。結界の内側にはなかった密度の匂いが、朝の炊事の煙と緑の残り香を断ち切った。
色がない。
空は鉛色だった。雲がないのに空が灰色をしていた。灰色の大地が広がり、百間先が白く滲み、それより先は存在しないかのように消えている。
朔は掌を開いた。
結界を張った。教導寮なら息をするようにできた所作だった。法力を掌に集め、薄い膜を形成する。——結界は張れた。だが維持に必要な意識の量が違う。結界内では張ったら忘れていい。ここでは張った瞬間から結界が痩せていく。法力を注ぎ続けなければ、三十数えるうちに消える。
朔は結界を畳んだ。
法力を温存する判断。ここでは同じ術式でも「持ち」が違う。それが分かっただけでも、掌を開いた意味があった。
虎太郎がそれを見ていた。何も言わなかった。口の端がわずかに動いただけだった。
鳴弦が右肩で——黙っていた。飛ばなかった。灰銀色の翼を体に寄せたまま、琥珀色の瞳を半ば閉じて朔に寄り添っている。結界の内側では朝の空を見上げていた鳴弦が、ここではただ静かだった。鳴弦が鳴かない場所。
殉職碑が視界の端に入った。外采門の右脇に並ぶ石碑群。名前を読もうとした——多すぎて、歩く速度のまま横を過ぎていった。読めない。数えない。ただ「多い」と感覚で分かるだけ。
虎太郎が門をくぐった。当たり前のように灰の野を歩き始めた。右手が門柱に触れた。
朔の足は一歩ずつ確かめている。毎朝門をくぐる者と、初めて仕事としてここに立つ者の歩き方は——違った。
朔は一度だけ後ろを振り返った。
結界が——遠かった。あの壁の内側に篝がいる。
前を向いた。
灰色の海が、今日は仕事場の風景として目に映っている。




