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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:4幕:教導寮二級童~卒業

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96話:灰色の海へ

 朝が来ていた。


 枕元で翼が動いた。鳴弦が首を巡らせている。障子の桟に切り取られた朝の光が褥の上を横切り、灰銀色の羽に当たって白く跳ねていた。


 朔が目を開けた。


 天井の木目が見える。昨日と同じ木目だった。昨日も一昨日も、この天井を見て一日が始まった。


 鳴弦が枕の角に止まっている。朔が起き上がるのを待っているのではなく、窓の方を向いている。障子を透かした光の向こうに、何かを見ている。


 あの日から——郁が走り出してから——鳴弦はときおり窓の外を見るようになった。朔ではなく、障子の向こう側に首を向ける。何を見ているのか、朔には分かる。外だ。結界の外。かつて郁の目だった琥珀の瞳が、壁の向こうに何かを探すように止まっている。


 郁が見ていた空だ。


 朔は褥から起き上がった。寝間着の袖を抜きながら部屋を見回す。夕べのうちに揃えておいた装備が壁際に並んでいる。練錫杖。防穢衣。護帯。感光紙の筒。錫杖を手に取ると、十二歳の掌が柄をひと巻き半で握り込んだ。金属の環が微かに触れ合い、涼やかな音を落とした。


 鳴弦が首を回した。音を聞いて、朔を見た。


 「行くよ」


 声は小さかった。けれど鳴弦には届いていた。灰銀色の翼がひと打ちで枕元を離れ、朔の右に降りた。鉤爪が布を掐む。鳴弦の脚に結ばれた結縁紐が揺れた。薄鼠と琥珀——あの日から変わらない色が、朝の光に透けている。


---


 廊下を渡って居間に出ると、瑞が朝餉の支度を終えていた。


 膳の上に白粥と焼き味噌、漬物。いつもの朝と変わらない並びだった。瑞が朔を見て、少しだけ目を細めた。


 「早いのね。今日は」


 「うん」


 朔は膳の前に座った。白粥の湯気が立ち上り、朝の空気に薄く溶けていく。瑞は何も聞かなかった。今日が何の日かを聞く必要がなかった。母の膳は言葉より正確に時節を知っている——味噌が少しだけ甘かった。瑞が選んだ甘さだった。


 箸を置く。「ごちそうさまでした」


 立ち上がりかけたとき、式台の方から草履の音がした。引き戸が音を立てずに開き、要が庭の方角から入ってきた。朝の鍛錬帰りらしく、袖を捲ったまま直衣の襟元が乱れている。額に薄く汗が光っている。


 要は朔を見た。装備を纏った弟を上から下まで一瞥し、口の端だけで笑った。


 要は食卓に座り、箸を取った。それだけで十分だった。


 朔は式台に向かった。


---


 篝が式台に座っていた。


 膝の上に手を置いて、門の方を向いている。守篝の鎖が首元で光を拾い、淡い反射を小袖の胸元に落としていた。


 朔は一瞬、足を止めた。


 この光景を知っていた。配属発表の日に帰ってきたとき、篝はこの場所に座っていた。あの日は「待っていた」顔だった。今日は違う。篝の顔に不安がない。朔を「送り出すため」にここにいる。


 篝が朔を見上げた。漆黒の瞳が、鳴弦と、錫杖と、防穢衣の朔を映した。


篝は守篝に触れた。首元の鏈を、掌でそっと包むように。


 「篝もがんばるから」


 短かった。声は跳ねなかった。けれど——震えてもいなかった。


 あの日、篝は怖いと言った。怖いと言った上で「待ってる」と言った。待つことが篝の強さだった。けれど——今の篝は「待つ」と言わなかった。がんばる。浄身院で古文献を読み、癒除術を磨き、穢れの脈動を記録して。朔が結界の外で歩くように、篝もまた、この結界の中で自分の道を歩く。


 朔は微笑んだ。


 「行ってくるね」


 抜穂の儀の朝は「行ってくる」と言った。あの朝はまだ足元が固かった。今朝の「ね」が一つ多い。出陣ではない。赴任だ。——篝の「がんばるから」が返ってきたことが、声をひとつ柔くした。


 篝がうなずいた。笑った。——朔と同じ場所に立っている顔だった。


 瑞が居間の奥から微笑んだ。


 門の外に——要が立っていた。いつの間にか食卓を離れ、門柱にもたれている。何も言わず、外を見ている。帰還の夜に父がそうしていたように。要もまた——弟の出立の後ろに立っている。


 朔は門をくぐった。要の広い後ろ姿が視界の端を過ぎた。


 門の外——屋敷と里の道のあいだに基が立っていた。


 朝の出仕前の時刻だった。いつもなら、基はとっくに鎮護寮へ向かっている時刻だ。今朝の基は屋敷の前にいた。——朔を待っていた。


 基が朔を見た。低い目線が、朔の装備を確かめるように一巡してから、朔の目を捉えた。


 「こっちは気にするな」


 声は低く、短かった。母音が少ない。基が最も大事なことを言うときの声だった。


 「お前の帰る場所は、ここにある」


 篝を。瑞を。この家を。朔が心配しなくていいように。ここは基が守っている。だから迷うな。足を止めるな。その全部が、二つの短い文に詰まっていた。


 朔は深く頭を下げた。言葉が出なかった。出なくてよかった。「はい」と言えば軽い。「ありがとうございます」と言えば長い。頭を下げた時間の分だけ、基に伝わるものがあった。


 基はわずかに顎を引いた。——それが基の「行け」だった。


 朔は歩き出した。後ろを振り返らなかった。基の視線が届いているのが、結界の脈動と一緒に伝わっていた。


---


 外采門が見えた。


 結界の外に通じる最後の門。石造りの門柱が朝の空を四角く切り取り、その向こうに琥珀色の空と灰の大地が薄く滲んでいた。


 三つの影が先に着いていた。


 善次郎が門柱にもたれ、練薙刀を地面に突いて立っている。防穢衣の裾が朝の風に揺れている。——七年前、教導寮の門を初めてくぐった日、善次郎はこの倍ほど小さかった。今は薙刀の柄を握る手だけで善次郎と分かる。節くれ立った掌が、木肌を掐むのではなく、触れるように握っている。


 凌が門の反対側に立っていた。片膝を門柱の石に当て、練刀を腰に佩いたまま腕を組んでいる。朔が来るのを見ても言葉はなかった。赤銅色の目がちらりと動き、装備を確認して——それで終わった。あとは朔が来ることを知っていたという顔だけが残った。


 蓮が門と門のあいだに立っていた。練弓を背負い、矢筒を腰に据えて、脚絆の紐を結び直している。朔に気がつくと顔を上げ、前髪をかき上げて笑った。


 「遅いよ、朔くん」


 蓮らしかった。声に陰りがなかった。——蓮の「遅いよ」は「待ってたよ」と同じ温度を持っている。笑顔が鎧だった頃を越えた蓮の声は、飾らないぶん明るい。


 四人が外采門の前に揃った。


 全員が防穢衣を纏っている。護帯を身につけている。朔の錫杖。凌の練刀。善次郎の練薙刀。蓮の練弓。——出仕見習いで初めて身につけたとき、装備は鎧だった。体を守るためのものだった。今も同じものを纏っているのに、空気が違う。身につけるべくしてここにある。道具が体の一部になっている。


 善次郎が門柱から体を起こした。結縁紐が手首で揺れた。朔はそれを見た。善次郎も朔の視線に気がついた。


 沈黙が流れた。


 善次郎の掌が結縁紐に触れた。——あの夜と同じ仕草。抜穂の儀の前夜、大楠の根元で全員が座っていた。あの夜、善次郎は「また明日」を言えなかった。口を開きかけて閉じ、代わりに結縁紐に触れた。


 今日も言わなかった。


 「また明日」は日常の約束だった。帰り道の分かれ道で交わし、翌日にまた顔を合わせる確認だった。——もうその約束では足りない。今日から先、四人が歩くのは帰り道ではない。


 善次郎が短く息を取った。


 「……行くぞ」


 言葉は全員に向いていた。善次郎が先に動いた。門に向かって一歩——その一歩の中に、鎮護寮を辞して外采寮を選んだ全てが踏まれていた。壁の中にいることが怖くなった善次郎が、結界の外に向かって歩き出す。


 凌が鼻で息をついた。膝を門柱から離し、腰の刀に手をかける。無言で善次郎の斜め後ろにつく。凌の歩幅は善次郎より半歩短いが、速い。追いつくでもなく遅れるでもない間合い——七年かけて作った距離だった。


 蓮が脚絆の紐を結び終えて立ち上がった。弓の紐を直し、朔を見た。


 「行こっか」


 明るかった。日常の延長のように生死の門をくぐろうとしている。——蓮がそう言うことで、門をくぐる行為が特別でなくなる。蓮の声は戦場を日常に接続する。


 朔は頷いた。歩き出した。


---


 門の手前に——剛丈が立っていた。


 鉄灰色の短髪。右頬の古い傷跡。腰に太刀を佩き、正装ではない崩した軽装の戦闘衣のまま、袖を捲り上げて腕を組んでいる。門柱の影に半身を預け、四人が来るのを黄鉄色の目で見ていた。


 朔は足を止めた。善次郎が薙刀を掴み直した。凌の手が刀の柄に触れた。——反射だった。剛丈の存在感が、四人の体に「上官がいる」と教えた。出仕見習いで叩き込まれた身体の記憶。


 剛丈が腕をほどいた。


 「来たか」


 低い声だった。声量はなかった。剛丈が重要なことを言うとき、声は大きくならない。


 「——立ってるだけで怪異は減らんぞ。歩け」


 歓迎の言葉はなかった。ねぎらいもなかった。——しかし「歩け」が全てだった。お前たちは今日から外采使だ。新人でも客でもない。歩く人間だ。歩いて、帰ってこい。「取ってこなかったら次がある。死んだら次はない」——あの日の言葉が「歩け」の奥に透けていた。


 剛丈が踵を返した。大きな後ろ姿だった。


 四人が剛丈の後につこうとしたとき——門柱の影に、もう一人いた。


 玄外だった。


 工房の前掛けのまま。袖を肘の上まで捲り上げ、鉄錆の染みがついた作業着で、門柱の内側にもたれている。片手に何かを持っていた。——剛丈より先にここにいたのか、後から来たのか、分からなかった。玄外はそういう人間だった。工房にいるか、いないか。音を立てずに現れて、用が済めば踵を返す。


 朔は足を止めた。


 玄外が朔を見た。無言で手を差し出した。


 影写し用の感光紙の束。薄い木箱に収められた、煤の匂いのする紙。朔が設計し、玄外の窯で焼いた紙。——玄外が自分の手で焼いたものだ。端が少し歪んでいるのは、工房の窯の癖だった。


 「壊すなよ」


 玄外の声は低かった。いつもの声だった。


 「作り直すのが面倒だ」


 朔は紙の束を受け取った。煤と鉄の匂いが掌に移った。——この匂いを知っている。内工座の扉を初めてくぐった日から、この匂いの中で作ってきた。影写し。守篝。護帯。呼吸結界の刻印道具。全部がこの匂いの中から生まれた。


 「壊すなよ」は「帰ってこい」だった。作り直すのが面倒だ、は「撮ったものを見せろ」だった。——玄外の言葉はいつも一枚裏がある。感光紙の束に「帰る約束」を詰め込んでいた。


 「……はい」


 朔の声は小さかった。けれど十分だった。師弟の間に長い言葉は要らない。玄外は頷きもしなかった。既に踵を返している。工房へ戻る姿が、里の道に消えていく。振り返らなかった。


 四人が剛丈の後についた。


---


 外采門をくぐった。


 結界の内と外の境を踏み越えた瞬間、空気が変わった。脚の下の土が硬くなった。里の道は踏み均された泥の柔らかさがあったが、灰輪の街道は乾いている。砂利と枯草と、靴底に伝わる細かな振動。結界の内側にはなかった音が、足裏から上がってきた。


 結界の脈動が——後方へ退いていった。


 一歩ごとに遠くなる。門から十歩。二十歩。足裏に伝わっていた脈動が薄くなり、十間も離れると振動ではなく記憶になった。——消えたわけではない。遠いだけだ。離れていても繋がっている。篝の守篝がそうであるように。


 鳴弦が飛び立った。


 唐突ではなかった。翼を小さくひと打ちして離れ、低い弧を描いて上昇していく。灰銀色の羽が朝の薄日に染まり、灰でもない——白金に近い光を秋の空に引いた。


 高く舞い上がった。旋回する。灰輪の空を、街道の上を、一周して戻ってくる。——しかし降りてこない。もう一周。もう一周。翼を広げたまま弧を描き続けている。


 朔は歩きながら鳴弦を見上げた。


 郁の目だった。この空を最も多く飛んだのは鳴弦で、鳴弦の目は郁の目だった。七年間、教導寮の上空から郁に世界を見せ続けた瞳が——今は朔のために飛んでいる。


 鳴弦が「キィ」と一声鳴いた。


 警戒音ではなかった。郁を探す声でもなかった。大広間の鎮魂で厳島が郁の名を読んだとき、鳴弦は細く呼びかけるように鳴いた。配属発表で朔が外采寮を宣言したとき、鳴弦は凛とした一声で応えた。——今日の声はそのどちらでもなかった。もっと明るい。開けた場所に出た鷹が、風を噛んで鳴く声だった。


 朔は足を止めずに歩いた。鳴弦を見上げたまま歩いた。あの翼が見渡しているのは、これから朔たちが踏む大地だ。


 善次郎が先頭を歩いていた。自然とそうなっていた。足元の土を確かめるように踏み、薙刀の石突が砂利を突くたびに乾いた音を立てている。凌が善次郎の斜め後ろを、刀に手をかけたまま並んでいる。蓮が朔の半歩横にいる。弓を背負った体が、歩くたびに小さく揺れていた。


---


 灰輪の街道を五人が歩いていた。


 四人と一羽。剛丈が先を行き、善次郎がその後ろを、凌が右の視界を、蓮が左を取り、朔が中央にいた。誰が決めたわけでもない隊形だった。七年間の鍛錬が足の置き場所を決めている。


 鳴弦が上空を旋回し、降りてきた。朔の右に止まる。足元の結縁紐が揺れた。薄鼠と琥珀の結び目が、朝の光を受けて柔らかく揺れている。


 朔は歩きながら一度だけ後ろを振り返った。


 結界が——遠かった。


 琥珀色の壁が朝の空に薄く透けて、小さくなっている。あの壁の内側に篝がいる。基と瑞と要がいる。玄外がいる。結界は息をしている。朔が刻んだ呼吸結界の回路が、今も足裏の底のどこかで微かに脈打っている。遠い。けれど——繋がっている。


 前を向いた。


 街道の先に——空気の色が変わる場所がある。


 護帯が微かに温度を持った。穢れの気配。結界の中にはなかった密度が、大気の端から滲み始めている。靴底の砂利の感触が変わった。枯草の匂いに、わずかに甘い——けれど甘さの中に腐りかけた果実のような酸みが混じる。穢れの匂いだった。出仕見習いの初日に嗅いだ匂いだった。


 その先に、霧が見えた。


 灰色の霧。


 街道の果てに薄く垂れ込め、地表と空の境を曖昧にしている。淡い灰が空気に溶けたような、濃度の揺らぐ壁。あの向こうに何があるのか、ここからは見えない。四歳のとき、高台から結界越しに見た「あやかしの海」。一面の灰色。歪んだ影が蠢く世界。


 あの日は——怖かった。


 今も、怖い。


 結界がない。父がいない。訓導がいない。自分の足で立ち、自分の錫杖で結界を張り、仲間と一緒に歩くしかない。それが怖い。怖いままでいい。怖さは生きている証だ。剛丈が教えた。「死んだら次はない」。怖いから立ち止まるのではなく、怖いまま前に出るのだと分かっている。


 善次郎が先頭にいる。凌が斜め前にいる。蓮が隣にいる。鳴弦がいる。


 灰色の海が、目の前に広がっていた。


 ——十二歳の少年とその仲間は、結界の外へ踏み出した。


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