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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:4幕:教導寮二級童~卒業

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95話:友達がいたんだ

 数日が経っていた。


 朝が来るたびに天井が見え、天井を見つめるたびにあの数瞬が巡る。


 結界の収束にあとほんの僅か。呪言への干渉を織り込んだ構造で最初から組んでいれば。崩壊と再展開ではなく——頭の中の歯車は止まることなく噛み合い、同じ答えを吐き出し続けた。


 足りなかった。全部、足りなかった。


 食事は摂った。箸を動かし、咀嚼し、嚥下した。味は分からなかった。瑞が何か声をかけた気がするが、言葉の意味が耳の奥で散って消えた。


 枕元に温もりがあった。


 朔が目を開けると、鳴弦がうずくまっていた。灰銀色の羽を畳み、嘴を胸の羽毛に埋め、小さな体がごく僅かに上下している。朔が身じろぎすると、鳴弦が顔を上げた。琥珀色の目が朔を見た。


 この数日間、鳴弦は朔のそばから離れなかった。眠る朔の枕元にうずくまり、朝になると起き上がるのをじっと待っている。朔が立てばそばに飛び、朔が座れば膝の傍に止まった。鳴弦がそこにいること。それだけが、ここ数日で唯一変わらないものだった。


 身を起こした。


 鳴弦の目が朔の目を捉えている。朝の薄い光が障子を透かし、灰銀色の羽に淡い金の筋を落としていた。——この目を知っている。灰輪の空を飛び、朔の結界の外を見渡し、地上の敵を俯瞰した目。郁の「外の目」だった目。


 その目がいま、朔を見ている。


 ——声が来た。


 頭蓋の中で回り続けている歯車の軋みではなかった。もっと深い場所から、水底から気泡が浮かぶように、鳴弦の瞳の奥から——声が浮かび上がった。


 「朔くんと肩を並べて、里のために……生きたいな」


 郁の声だった。


 あの日——外采寮見習いの帰り道で、半分しか外に出ない声で郁が呟いた言葉。朔はあのとき何と答えただろう。聞こえていた。聞こえた上で何を返せばいいか分からず、ただ隣を歩いていた。


 いま、その声が来た。


 歯車は回り続けている。あの数瞬、呪言への干渉、結界面の厚み——全部、回っている。回りながら——歯車の音を覆うように、郁の声が載った。分析を止めたのではない。止まらない分析ごと、意志が掴み上げた。


 四歳の朝。篝の隣で目を覚ました。「僕にもできることがあるはずだ」——あの日の声と同じ温度のものが、いま胸の底で鳴っている。


 数日前、大広間で、あの数瞬が足りなかったと口が動いた。音にならなかった。正確に過不足を算出した頭が、その答えを刃に変えて朔を刺し続けた。


 いま——刃は消えていない。消えないだろう。これからも消えない。あの数瞬は永遠に足りないままだ。


 しかし——郁が見たかった景色の中に、朔はいなければならない。


 立ち上がった。


 鳴弦が枕元から飛び立ち、朔の右肩に止まった。小さな爪が布に食い込む。重さは変わらない。鷹一羽とは思えない重さ。けれどその重さが——今朝は、足を引く錘ではなかった。ただ——ここにいる、と告げる体温だった。


 衣を整えた。苗札を懐に入れた。門を出て、通学路を歩いた。


 足が地面を踏む感触があった。三日前、帰還の列を歩いたとき、足は勝手に動いていた。膝の角度も歩幅も朔の意志とは無関係だった。いまは違う。足裏が地面の硬さを返している。冬に近づく晩秋の土は冷たく締まって、草履の底を透かして冷気が昇った。


 空を見上げた。結界の光が朝日と交差して空の高い場所で琥珀色に滲んでいる。脈動が伝わってくる——遠い家屋の敷地結界と里の外殻結界が、交互に膨らみ、縮む。離れていてもこの脈動は続いている。朔と篝と基が組み上げた結界。


 通学路の木立が風に揺れた。銀杏の最後の葉が舞い落ち、朝の光を受けて一瞬だけ金色に灯ってから地面に伏す。鳴弦が首をかしげ、金色の葉を目で追った。その仕草が——あのころの鳴弦と同じだった。郁のそばにいたとき、同じように光を目で追っていた。


---


 新芽の式の日。七年前、大楠の下から移動して名乗りの儀を行ったあの広間。鎮魂の黙悼の日。数日前、郁の名が読み上げられたあの広間。——そして今日。配属発表の日。


 始まりの場所が弔いの場所になり、弔いの場所が旅立ちの場所になっている。


 座席は学年一列に並んでいた。朔は足を踏み入れた。高窓から差す晩秋の日差しが低い角度で広間を横切り、漆喰の壁に淡い格子の影を落としている。灯台の火が日差しに負けて小さく揺れていた。


 三番班の場所が目に入った。あの角だ。——見なくてもよかった。見なくても知っている。あの席は空いている。知っているから、朔はそこに目を留めなかった。視線を前に向けた。


 千早が直立していた。爪の痕はもう見えない。掌を握り込んでいた数日前の力が、今日は解けている。しかし千早の佇まいに弛緩はなかった。揺るがない姿勢——班長の姿勢。梶が座っていた。泣き終えた後の顔は、以前の調子のいい梶とは別人だったが、目は正面を向いている。いつきがその隣で、背筋を伸ばしている。


 凌が隣に座った。赤銅色の髪から灰輪の粉塵は落ちている。練刀はいつもの通り腰に佩いて、目は前を向いたまま動かない。善次郎が反対側に座り、練薙刀の柄を膝に寄せた。亀裂が走った柄は新しい木片で補修されている——善次郎が自分で繕ったことが、継ぎ目の粗さで分かった。蓮が善次郎の隣に座った。右手の甲の痣は袖の下に隠れている。目元には微かな隈があったが——朔を見た瞬間、口元がほんの少し緩んだ。繕いではなかった。朔が来たことへの、素の安堵だった。


 来賓席の端に、基がいた。鎮護寮頭領の法衣を正し、背筋を立て、朔の方を見ていた。朔と目が合う。基は目を閉じなかった。開いた目のまま朔を見ている。


 来賓席の対角に嶺壱がいた。里長として、総宰司として。鉄灰色の髪が来賓席の影に沈み、表情は読めない。嶺壱の半歩後ろに——慧の姿があった。


 厳島寮長が前に立った。


 法衣の裾は微塵も乱れていない。入学の日も、黙悼の日も、今日も——同じ佇まい。声が広間に満ちた。


 「配属発表を行う」


 短かった。前置きも訓辞もない。厳島にとって言葉は必要最小限の道具であり、今日この場に集まった生徒たちに必要なのは言葉ではなかった。七年間を過ごした者たちに語ることは——何もない。この場を出た後のすべてが、語られるべきことの代わりになる。


 苗札の、手順が示された。厳島が名を呼ぶ。生徒が前に出る。苗札を手渡す。厳島が裏面に配属先を墨書して返す。——七年間空白だった裏面に、初めて文字が刻まれる。


 「ただし——初穂のみ、配属先を自ら選ぶ権利を持つ」


 厳島の声が朔に向いた。視線と声が同時に朔を指す。


 「土御門 朔」


---


 名前を呼ばれた。


 立ち上がった。鳴弦がいる。大広間の全員が朔を見ている。訓導たち。来賓。同期。七年間を共に歩いた人々の目が——朔に向いていた。


 前に出た。懐から苗札を取り出した。七年間、肌に触れ続けた木札。表面に「土御門 朔」。裏面は——何も記されていない。新芽の式の日と同じ余白。あのとき余白は可能性だった。今日、ここに文字が入る。


 厳島の手に苗札を渡した。厳島が筆を取り、墨を含ませ、朔を見た。


 「志望を述べよ」


 朔は口を開いた。


 「外采寮を、志望します」


 声は震えなかった。意志が声を通した。あの朝、枕元で鳴弦の目を見たとき胸の底で鳴ったものが——喉を通って広間の空気を震わせた。


 一拍の間が落ちた。来賓席で基が朔を見ている。目を閉じない。閉じないことが——あの父の承認だった。


 続けた。


 「——全員で、帰ってくるために」


 声が広間を渡った。漆喰の壁に当たって返ってくる前に、鳴弦が翼を一度叩いた。


 「キィ」


 凛とした、短い一声だった。


 数日前、この広間を鳴弦の声が満たしたことを、全員が覚えていた。あのとき鳴弦は郁を探していた。広間のすべてを目で追って——見つけられなかった。


 今日の声は違った。探す声ではなかった。呼ぶ声でもなかった。——応える声だった。朔が立ち上がったことに、鳴弦が応えている。


 大広間が静まり返った。数日前の黙悼でも同じ広間が静まった。しかしあれは失ったものへの静けさだった。今日の静けさは——始まることの静けさだった。


 厳島が筆を執った。苗札の裏面に——「外采寮」の三文字が墨で刻まれた。筆圧の均された筆致が木肌に沁みていく。厳島が苗札を返した。朔が受け取った。


 苗札に——裏面に——七年分の時間が凝結していた。


---


 朔が席に戻った。厳島が次の名を呼ぶ。


 「志場 善次郎——外采寮」


 善次郎が前に出た。大きな体が列の間を通るとき、補修された薙刀の柄が膝に触れて静かに鳴った。苗札を受け取り、席に戻る。その途上——朔のそばを通り過ぎるとき、善次郎が低い声でひとこと落とした。


 「壁は前にいなければ意味がない」


 横目で朔を見もしなかった。独り言のように、足を緩めもせずに通り過ぎた。——しかし善次郎の声には、朔に向けた温度があった。


 「久我崎 凌——外采寮」


 凌が立った。苗札を受け取る所作に無駄がなかった。一言も発さず、苗札を懐に収めて席に戻る。——しかしその足取りが速かった。急いでいるのではない。迷いがないのだ。凌にとって外采寮は、初めから一択だった。


 来賓席で——嶺壱が一瞬だけ目を閉じた。ほんの一瞬。瞼が降りて、上がった。他の誰も気づかない時間だった。慧だけが、その一瞬を見ていた。


 「葛葉 蓮——外采寮」


 蓮が立ち上がった。苗札を受け取るとき、蓮の横顔に浮かんだものは明るさではなかった。繕いでもない。頬の筋が一本だけ引き締まり、目の奥に光が宿った——決意の顔。蓮が見せたことのない、第三の表情。


 四人全員が、外采寮にいた。


 配属発表は続いた。他の生徒の名が呼ばれ、苗札に墨が入り、返される。内工座。浄身院。鎮護寮。外采寮。それぞれの七年が、それぞれの裏面に文字を刻んでいく。


 全員の配属が終わった。


 嶺壱が里長として立ち上がった。来賓席から一歩だけ前に出た。事務的な声——総宰司の声。


 「承認する」


 一言だった。それだけで嶺壱は席に戻った。


---


 生徒たちが散じ始めていた。配属発表が終わり、大広間に残る空気が弛んでいく。七年間の最後の儀式が終わった安堵と、これから始まるものへの緊張が入り混じって、誰の足取りも定まらない。


 朔が席を立とうとしたとき、千早が来た。


 足音が近づいてくる。一歩ごとに板の間を叩く音が硬い。数日前、朔のところに歩いてきたときと同じ硬さの足音だった。しかし今日の千早は謝りに来たのではなかった。


 千早の手に——紐があった。


 薄鼠と琥珀の結縁紐。細く編まれた二色の糸が千早の指に巻きつき、掌から垂れている。


 朔は見た。——三番班の色だった。


 千早が結縁紐を差し出した。


 「御影の分だ。……持っていってくれ」


 声は硬い。数日前と同じ硬さだった。しかし今日の言葉は謝罪ではなかった。託すことだった。


 朔は手を伸ばした。結縁紐を受け取った。——手は安定していた。数日前、大広間の灯の下で唇だけが動いたとき、掌は強張っていた。今は細い紐の上に指が乗り、二色の糸の手触りが掌に沈む。薄鼠は冷たく、琥珀はわずかに温い。


 いつきが千早の横に立っていた。何も言わなかった。梶がその後ろにいた。朔と目が合った。——梶が朔の目を真っ直ぐ見ていた。調子がよくて声が大きかった梶が、初めて朔の目を、何も言わずに真っ直ぐ見ていた。


---


 教導寮の門を出た。通学路の分岐で足が止まった。


 帰路は左だった。土御門家への道。——足が右に向いた。


 祖霊堂への道だった。


 木立の影が長くなる季節の午後、祖霊堂は里の東の端にひっそりと建っていた。瓦屋根に銀杏の黄葉が散り積もり、柱の朱は褪せて柔らかな灰朱に変わっている。敷地に足を踏み入れると、空気の密度が変わった。結界の層が厚い。穢れを寄せつけない清浄な空間が、死者の名を守っている。


 殉職碑が立っていた。


 四歳のとき、父に連れられて初めて見た。碑面に刻まれた名前の数に、幼い目が丸くなった。知らない人の名前ばかりだった。善次郎の先輩の父の殉職報を、この碑の前で知った日がある。外采寮の見習いから戻った帰り道、立ち止まって碑を見上げたとき、名前が増えていることに気づいた日がある。


 今日——碑に新しい刻みがあった。


 「御影 郁」


 石に刻まれたばかりの文字は他の名前より浅い。年月を経た名前は石の面に沈んでいるが、郁の名はまだ表面に近い。文字の輪郭が鋭く、陽の光を受けて薄い影を碑面に落としている。


 朔は懐から結縁紐を取り出した。——薄鼠と琥珀の細い糸。千早が差し出した、三番班の色。


 鳴弦が身じろぎした。翼を畳んだまま、朔の手を見ていた。琥珀色の目が結縁紐を映している。


 朔は鳴弦の足に手を伸ばした。鳴弦は動かなかった。逃げもしなかった。足を僅かに浮かせて——朔が結ぶのを待っていた。


 薄鼠と琥珀の糸を、灰銀色の足に回した。細い紐が鉤爪の付け根を巻き、掌の中で小さな結び目を作る。結び目を締めたとき、鳴弦の足の体温を感じた。小さい。温かい。


 鳴弦は——翼を一度だけ、緩く開いた。畳み直した。そして小さく鳴いた。


 探す声ではなかった。大広間で朔の宣言に応えた凛とした声でもなかった。もっと静かな——風に紛れたら聞こえないほどの——ここにいるよ、と告げるような声だった。


 朔は碑の前で何も言わなかった。声にならなかった。しかし結縁紐を結ぶ掌が——朔の弔いだった。言葉を持たない手が、結び目のかたちで郁に触れていた。


---


 凌は帰宅した。


 久我崎家の長い廊下を歩く。足音が板張りの床に響いて消える。外采寮の苗札が懐にある。重くも軽くもない。


 書斎の前を通りかかった。


 通り過ぎようとした——足が止まった。


 以前は通り過ぎた。書斎の奥で嶺壱と巌が何を話していたか、聞こえていたのに通り過ぎた。その次も——知りながら通り過ぎた。


 今日は止まった。


 扉は閉まっている。あの日と同じように閉まっている。しかし——凌は知っていた。扉の向こうに、自分を想う人間がいることを。


 慧が書斎の角に立っていた。凌が来ることを知っていたように、壁にもたれて腕を組んでいる。


 「父上がお前の好きな煮物を台所に頼んでいた」


 慧の声は淡々としていた。声の抑揚も、表情も、いつもの慧だった。——しかしその一言に全てが詰まっていた。嶺壱が配属発表の後にすぐ帰宅したこと。凌の記憶にないほどの早帰りだということ。台所に凌の好きな煮物を頼んだということ。


 凌は何も言わなかった。一拍だけ扉の前で立ち止まり、自室に向かった。足取りは重くなかった。


 夕暮れの食卓に、嶺壱が箸をつけていた。凌が対面に座った。凌の前に煮物の椀が置かれている。湯気が細く立ち、根菜の甘い匂いが鼻先に触れた。


 嶺壱は凌を見なかった。凌も嶺壱を見なかった。箸が碗に触れる音だけが食卓に落ちた。——それでいいのだと、凌は思わなかった。思うことすらしなかった。ただ同じ食卓に座っていた。


---


 朔は土御門家の門の前に立っていた。


 日が暮れかけていた。西の空に晩秋の茶紅が薄く残り、その上に結界の琥珀が重なって空を二重に染めている。脈動が空気の底を伝わり、門に触れた掌に微かな振動が届いた。敷地結界の息遣い。篝がいる。基と瑞がいる。結界の内側に、帰る場所がある。


 門を開けた。


 篝が座っていた。


 玄関の式台に腰を下ろし、膝の上に手を置いて、前を見ている。朔が出ていったときと同じ場所だった。朝、「行ってらっしゃい」が聞こえた場所。——篝がそこにいた。


 篝が朔を見た。


 漆黒の瞳が朔の顔を映し、それから——右に移った。鳴弦がいる。灰銀色の鷹が朔の右に止まり、翼を畳んでいる。以前は郁の左にいた鳴弦が、兄の右にいる。


 篝は聞かなかった。なぜ鳴弦がそこにいるのか。聞かなかった。朔が見てきた景色を、朔の目と、鳴弦が語っている。——互いの嘘を知っている兄妹は、互いの痛みも聞かずに知る。


 篝の視線が降りた。鳴弦の足元に——薄鼠と琥珀の結縁紐があった。小さな結び目が灰銀の鉤爪に巻きついている。篝はそれを見た。


 篝は静かに、朔の顔を見上げた。


 朔が口を開いた。声が——出た。篝の前で、この数日間で初めて、声が外に出た。


 「友達がいたんだ」


 たった一言だった。「いた」。過去の形が口をついた。——もういない。もうそこにいない。けれど「いたんだ」には気づきがあった。朔は郁のことを、初めて友達と呼んだ。三番班の郁。同期の郁。鳴弦の主。——その人が友達だったと、鳴弦の重さと結縁紐の色が朔に教えた。


 篝は笑わなかった。


 七年前、影写しの中に「人がいる景色」を見つけたとき、篝は嬉しそうに笑った。「お友達がいるんだね」と。あのときの篝の笑顔は——朔の日常に誰かがいることが嬉しかった顔だった。


 今日は笑えなかった。朔の顔を見て、結縁紐を見て、鳴弦を見て。「いるんだね」が「いたんだ」に変わった意味を、篝はすべて理解していた。「知ってるよ」はこの日、出なかった。


 篝は手を伸ばした。朔の手を取った。小さな掌が、朔の指を包んだ。何も言わずに。言葉の代わりに、体温を渡した。


 鳴弦が翼を小さく畳み直し、朔の首筋に頭を埋めた。灰銀色の羽先が襟元に触れている。郁の左の鏡像。鳴弦がいる場所がそこであることを、今、篝が見ている。


 結界の脈動が、続いている。離れていても繋がっている。繋がっていることを、この脈動が証している。


 鳴弦がいる。篝が隣にいる。


 晩秋の夕が、静かに暮れていった。


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