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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:4幕:教導寮二級童~卒業

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94話:空の裏

 足が動いていた。


 動かしているのは自分のはずだった。けれど膝の曲がる角度も、踏み出す歩幅も、朔の意志とは関係のない場所で決められている。灰の野に敷かれた踏み跡を辿り、帰還の列がゆるやかに蛇行しながら外采門を目指していた。風はなかった。逆さ冠が消えてから空気が澄みすぎて、音の輪郭だけが妙に尖っている。誰かの草履の裏が砂利を噛む。法衣の裾が乾いた枯草を擦る。遠くで訓導の声がするが、言葉の意味が届かない。


 法力残量、移動距離、帰還にかかる時間。あるいは検疫の手順、報告書にまとめるべき事項の整理。朔の頭は常にそうだった。出来事を数え、並べ替え、最善の順序を導く。それが朔という人間の骨格だった。


 何も数えられなかった。枯草の色も、列を歩く人数も、頭の中を素通りしていく。


 右肩に重さがあった。


 鳴弦が止まっている。小さな爪が防穢衣の布地に引っかかり、灰銀色の羽は畳まれたまま微動だにしない。鳴弦の重さは鷹一羽の重さとは思えなかった。法力でもない。骨と羽と爪だけの小さな体が載っているだけなのに、体が傾ぐ。


 朔はそれに気づいていなかった。気づかないのではなく、気づくための余白がなかった。頭蓋の内側に膜が張ったように、すべてが一枚の壁の向こう側にある。


 列の斜め前を凌が歩いていた。髪に灰色の粉塵が薄くかかり、練刀を腰に佩いたまま歩いている。凌はこの四半刻の間に一度だけ振り返った。朔の目を見た。何も映っていないことを確認した。唇を結び直して前を向いた。


 凌はかける言葉を持っていなかった。感情を言葉にすることがこの世で最も不得手な人間が、他人の感情を言葉で救える道理がない。凌にできることはひとつだった——歩幅を変えないこと。朔がついてくる距離に、いること。


 善次郎は薙刀の柄を握ったまま歩いていた。亀裂が走った柄の木肌に掌が触れるたび、無意識に手が跳ねる。だが離さなかった。柄を離せば自分がどこにいるか分からなくなる。大楠の下で「外采寮に志望を出す」と言った日、掌から薙刀が落ちなかった。あの日と同じだった。手だけが正直だった。


 蓮は朔の半歩後ろを歩いていた。声をかけるのがいつもの蓮だった。「大丈夫?」と声をかけ、手を伸ばし、軽口で空気を柔らかくする。それが蓮の役割であり、蓮の得意なことだった。


 口が開きかけた。閉じた。


 浄身院の廊下で笑みが作れなくなった夜がある。「なんでもない」と言えなかった夜がある。あの夜を越えた蓮は知っていた——明るさでは守れない領域がある。声をかけることが正しくない間がある。いまがそれだった。


 蓮の手が朔の背に触れた。掌だけが防穢衣の上をなぞって、すぐに離れた。触れたことを朔に気づかせるためではなかった。自分がここにいることを、自分自身に確かめるためだった。


 外采門が見えてきた。


 結界の外に通じる門。あの日の朝——昨日の朝、朔はこの門を出た。出ていく門だった。結界の向こう側に一歩を踏み出す門だった。


 いま、帰ってくる。


 門の手前で列がゆるやかに圧縮された。前を歩く同期たちが門をくぐっていく。結界の内側に入る瞬間、空気が変わる。穢れの混じった乾いた風から、結界が息づく密度のある空気に。門をくぐるたびに体から何かが剥がれるように軽くなる——はずだった。


 朔は軽くならなかった。鳴弦の重さが変わらない。結界の内側に入っても、外側にいたときと同じだけの重さが右の鎖骨にかかっている。


 門を通り過ぎるとき、朔はふと列の人数を数えようとした。出たときと帰ってきたときで、人数が合うかどうか。——分析の癖がそうさせた。数えかけて、やめた。数えなくても分かっていた。


 出たときより、少ない。


 列の後方で白い布に包まれたものが運ばれていた。朔は振り返らなかった。振り返ることを思いつかなかった。空白の中にいるから、振り返るという選択肢が浮かばない。視界の隅で布の端がちらりと揺れたことを、目が捉えて、頭が処理しなかった。


---


 浄身院の検疫処理室は白かった。


 壁も天井も漆喰の白で、灯が均等に灯されている。窓はない。穢れの侵入を防ぐため、検疫室は結界の内側でも密閉された構造を持つ。法力で浄化された空気の中に消毒の薬草の匂いが薄く漂い、それ以外の音は癒し手たちの足音と衣擦れだけだった。


 朔は防穢衣を脱いだ。護帯を外そうとして、癒し手に止められた。


 「護帯はそのまま。先に法力回路の走査をします」


 癒し手の手が朔の腕に触れた。法力の脈動を読む掌が、手首から肘、肘から上腕へと辿っていく。淡々とした所作だった。診るべきものを診ている。壊れた箇所を探している。


 「法力の枯渇が深い。少し安静に」


 朔は頷いた。——頷くという動作が出たことに、朔自身は気づかなかった。しかし体が命じられたことに応じたという事実は、灰の野で歩いている間には起きなかったことだった。空白の底に、微かな浮力が生じている。


 壁を背にして座った。白い漆喰の壁に後頭部を預け、前を見ている。前には何もなかった。検疫室の反対側の壁があるだけだった。


 ——郁の顔がよぎった。


 唐突だった。白い壁の上に、白い壁とは関係のない像が映った。あの瞬間の郁の顔。結界の外で刃が迫る中で、郁が朔を見上げていた。


 微笑みだった。


 朔はあの表情を知っていた。篝が初めて影写しの一枚を見たとき。凌が初穂を獲ったとき。蓮が第二期患者の浄化処置を初めて成功させたとき。——「よかった」の顔だった。苦しみの果てにたどり着いた安堵が、唇のかたちをほんの少しだけ変える。そういう顔だった。


 あの瞬間に、郁はそれを浮かべた。


 自分の命が尽きようとしているあの瞬間に。首狩り刀が郁の体を裂いたあの数呼吸の間に。——なぜ「よかった」と笑えたのか。


 分析が、通らなかった。


 言葉なら分かる。郁は言った。「僕にも、守れるものがあった」と。あの声は朔の鼓膜に届いていた。意味は分かる。郁がどういう文脈でその言葉を発したか、論理の上では理解できる。


 しかし——あの微笑みの重さだけが、理解と感情のあいだで宙に浮いている。言葉にできる。しかし言葉の先にある実感に手が届かない。郁が最後に見せたあの表情を、朔の頭では分解することができない。


 鳴弦が動かなかった。右肩に止まったまま、首も動かさず、声も出さなかった。いつもの鳴弦なら白い壁に反射する灯の光を追って首を回す。検疫室に入った虫がいれば即座に反応する。しかし今は——石になったように静かだった。琥珀色の目が半分閉じている。


 鳴弦もまた、何かが変わったことを体で知っている。


---


 隣の処理台で凌が防穢衣を脱いでいた。荒い手つきだった。袖を引き抜くように脱ぎ捨て、癒し手が「武器は——」と声をかけた瞬間、


 「触るな」


 凌の声は低く、短かった。練刀の柄を握ったまま離さない。その一言に、灰輪で消耗したすべてが詰まっていた。凌の感情は言葉の長さに反比例する。長く語るときは余裕がある。一語に切り詰めるときは限界にいる。癒し手は一瞬ためらい、頷いて離れた。


 善次郎の薙刀が処理台の縁に立て掛けられたとき、柄の亀裂が「ぱきり」と乾いた音を立てた。亀裂が一寸ほど走り、木肌がわずかに開いた。戦闘中に入った罅が、外力から解放された瞬間に広がる。善次郎が一瞬だけ目を閉じた。開いた目は何事もなかったかのように正面を向いていた。しかし柄に添えた掌は、裂け目をそっと撫でていた。


 蓮は別の班の負傷者のそばに行きかけた。腕を伸ばし、法力を掌に集めて——癒し手に止められた。


 「あなたも患者です」


 蓮の口が閉じた。癒し手の目が蓮の手の甲に落ちた。蓮もつられて視線を下ろした。右の手の甲に、青紫の痣が滲んでいた。呪言渦の中で精度の落ちた癒除術を行使した反動。法力が末端で暴れた跡だった。


 蓮は何も言わず袖を引き下ろした。手の甲が衣の中に消えた。——かつて浄身院の鍛錬で赤くなった手のひらを軽口で流した蓮が、ここでは隠した。隠すものが「感情」から「戦場の傷」に変わっていた。


---


 帰還当日の夕刻だった。


 検疫を終えた全員が大広間に集められた。大広間——新芽の式と同じ場所だった。入学の日に大楠の下から移動して名乗りの儀を行ったあの広間。七年前、郁が声が小さくてやり直しになったあの場所。


 始まりの場所が、弔いの場所になっている。


 座席は班ごとではなかった。学年が一列に並んでいる。壁際に訓導たちが立ち、奥に厳島寮長の姿があった。灯が低い位置に並べられ、夕暮れの光が高窓の隙間から差し込んで、大広間を琥珀と藍のまだらに染めていた。


 朔は座った。鳴弦がいる。重さが変わらない。凌が左に、善次郎が右に、蓮がその隣にいた。誰も言葉を交わさなかった。


 大広間の隅の——三番班がいつも座る場所——そこが空いていた。郁がいつも座っていた場所。いつきの向かい、千早の対角。鳴弦が壁の桁に止まっていたあの角。


 いまは誰も座っていない。


 厳島寮長が前に立った。法衣の裾は微塵も乱れていない。灰輪で駆け回った後とは思えない佇まいだった。声が広間に満ちた。


 変わらない声だった。


 入学の日の口上と同じ声量、同じ声色、同じ間の取り方。——何百人を送り出し、何十人を見送ってきた人間の声は、感情で揺れない。声を揺らさないことが弔いだと知っている人間の声だった。変わらないことが——こんなにも残酷に響くとは知らなかった。


 最初に、名前が読み上げられた。逆さ冠に最初に斬られた少年の名だった。大広間に沈黙が落ちた。誰かが息を呑む音だけが聞こえた。


 続けて。


 「御影 郁」


 厳島の声が、郁の名を灰輪の灰簸と同じ温度で響かせた。抑揚がなかった。名前の文字がそれぞれ等間隔で置かれ、大広間の壁に当たって反響して消えた。


 ——鳴弦が声を発した。


 これまで一度も聞いたことのない声だった。細く、高く、弦を爪ではじいたような——呼びかけに近い一音。


 名前を呼んでいるような声だった。


 朔のそばで、鳴弦の首が動いた。広間を見回している。左から右へ、上から下へ。琥珀色の目が座席の列を一つずつ追い、高窓の光を追い、壁の桁を追い——何かを探していた。


 郁を探していた。


 七年間、毎朝起きると郁の枕元にいた。毎日、郁のそばに止まっていた。空を飛び、郁の目になり、郁の声を聞き、郁の手のひらに頭を擦りつけて眠った。その郁が——いない。


 鳴弦の首が止まった。


 見回すのをやめた。ゆっくりと首を引き込み、朔の髪に頭を押しつけた。翼が小さく強張っている。灰銀色の羽の先端がかすかに揺れて、朔の首筋に触れたり離れたりを繰り返した。


 人間が言葉で弔う中で。厳島が名を読み、同期たちが目を伏せ、訓導たちが黙礼する中で。——鳴弦だけがまだ郁を探していた。言葉を持たない生き物が、言葉より深い場所で郁の不在を叫んでいた。


 大広間が一瞬、完全な静寂に呑まれた。


 厳島寮長すら声を止めていた。鳴弦の細い声の余韻が漆喰の壁のあいだで揺れて、それが消えるまで待っていた。


---


 千早が立っていた。直立不動だった。


 両手は体の横にぶら下がり、拳を握っている。爪が掌に食い込んで、十本すべてが白くなっていた。うっすらと赤い筋が拳の隙間から見えた。千早の目は乾いていた。泣いていなかった。


 千早は班長だった。撤退を指示した。「退くよ! ここは私たちの手に負えない!」——正しい判断だった。教導寮で七年間叩き込まれた鉄則に従い、班員の安全を最優先とした。正しかった。


 正しい判断で、郁は死んだ。正しかったから——何だ。


 梶は座ったまま立てなかった。黙祷の号令で周囲が立ち上がる中、膝が笑って体を持ち上げられなかった。声を殺して泣いていた。鼻を啜る音すら噛み殺しながら、最も小さな泣き方をしていた。調子がよくて、声が大きくて、「まあ俺に任せとけ」が口癖だった梶が。郁が走ったのが見えていた。座り込んだまま動けなかった。動けなかった自分を——梶は許していなかった。


 いつきは目を閉じなかった。視線は大広間の隅に向いていた。郁の席を見つめていた。空っぽの畳の一角を、穏やかなはずの目が真っ直ぐに射抜いている。


 ——郁の目は速かった。


 上空の視界は下から触れるだけの感知とは次元が違う。速いから見えた。見えたから走った。それは技術者としての理解だった。郁が何を見て、何を計算して、何を選んだのか——いつきには分かっていた。分かっていることが、救いにならなかった。


 黙祷が終わった。


 千早が朔のところに歩いてきた。足音が大広間の板の間を叩いた。一歩ごとに千早の体が微かに強張っているのが見えた——しかし声は揺れなかった。


 「止められなかった。ごめん」


 硬い声だった。千早にとってこの言葉は謝罪であると同時に、班長としての報告だった。事実を伝え、責任を負う。十二歳がその重さを一人で引き受けようとしていた。


 朔は口を開こうとした。


 声が出なかった。千早の「止められなかった」が耳に入り、朔の中で「僕も」が鳴った。——鳴ったが、喉の手前で音にならないまま沈んでいった。


 いつきが千早のそばに来た。千早の右手を見た。千早の拳から血が滲んでいることに気づいた。いつきは何も言わず、自分の袖で千早の拳を包むようにそっと拭った。千早の顔が一瞬だけ歪んだ。——苦痛でも悲しみでもない、もっと複雑な何かが表情を走り抜けた。次の瞬間には千早は硬い表情を取り戻し、顎を引いて踵を返した。


---


 黙悼の後、殉職者の苗札が大広間の前方に並べられた。祖霊堂への安置の前の、一時的な供えだった。白い布の上に二枚の木札が置かれている。


 二枚目が——郁の苗札だった。


 朔は立ち上がった。自分が立ち上がったことに気づいたのは、膝が伸びきった後だった。足が苗札の前まで朔を運んだ。鳴弦が首をもたげた。


 苗札は変わり果てていた。


 新芽の式の日に渡された木札は、大楠の枝から削り出された薄い札だった。七年間、持ち主の法力を吸い、肌の温もりを覚え、汗と日差しを浴びて飴色に変わっているはずだった。


 目の前にあるのは別物だった。黒ずんでいた。穢れに曝されたことで木肌の繊維が侵食され、縁は崩れかけている。触れたら砕けそうな脆さだった。焦げたような、甘い腐臭ともつかない匂いがかすかに立ち上っていた。


 表面。「御影 郁」——墨書の三文字は辛うじて読めた。「郁」の字が、侵食された木肌の上でかろうじて形を保っている。入学の日に書かれた墨は七年の歳月で木に沁み込んでいたから、穢れにも完全には消されなかった。


 裏面。


 朔はそれを見た。


 空白だった。


 苗札の裏面は——何も書かれないままだった。配属先が記されることのなかった裏面。外采寮も、鎮護寮も、浄身院も、内工座も。いずれの名も刻まれることがない。七年間、無記のまま法力を吸い続けた木が、穢れに蝕まれて朽ちかけている。


 入学の日にあの苗札を受け取ったとき、裏面の空白は「まだ何も決まっていない」という意味だった。これから何にでもなれるという可能性の象徴だった。


 いまの空白は違う。


 もう何も書かれない。


 永遠に余白のまま——郁の七年は、ここで終わった。


 朔は苗札を見つめた。木の繊維が崩れかけた縁に、灯の光が当たって淡い影を落としている。黒ずんだ表面は七年前の滑らかさの面影もない。裏の空白だけが——穢れの侵食を免れた中央の一角だけが、かろうじて元の木肌の色を残していた。


 ——分析が戻ってきた。


 何の前触れもなかった。検疫室の白い壁で途切れかけた思考が、苗札の空白を見た瞬間に再起動した。まるで止まっていた水車に水が流れ込んだように、朔の頭が回り始めた。


 回り始めたそのすべてが——刃だった。


 あと数瞬。


 あと数瞬早く結界を完成させていれば。たったそれだけの差で結界は間に合い、郁は前に出なくてよかった。


 粗い結界ではなく。


 呪言への干渉を織り込んだ構造で結界を組めていたら。あの呪言渦の密度を事前に想定して、結界面の厚みを倍にしておけたら。崩壊と再展開を繰り返す間に摩耗する法力を計算に入れて、もう一段階早く最終結界の収束を始めていたら——


 全部、成立する。


 全ての「たら」「れば」が成立する。朔の分析は正確だった。正確だからこそ、自分に何が足りなかったかが精密に算出された。時間。法力。練度。経験。そのどれか一つでも足りていれば——あの数秒は埋められた。郁が体を差し出す必要はなかった。


 「僕にもできることがあるはずだ」——篝の隣でそう決意した四歳の朝。あの日から鍛えてきた。結界術を磨いた。影写しを作った。守篝を完成させた。護帯を里に配った。法具を生み出し、仲間の武器を整え、できることを増やし続けた。七年間、ひたすらに。


 それでもあの数秒——あの一呼吸が、足りなかった。


 「できることがあるはずだった。でもあのとき、僕には何もなかった」


 声にならなかった。口が動いただけだった。大広間の灯の光の中で、朔の唇だけが音もなく形を刻んだ。


 鳴弦が朔の髪に頭を押しつけたまま動かない。小さな体から伝わる体温がある。灰銀色の羽が首筋に触れて、その感触だけが世界と朔を繋ぐ細い糸のようだった。


 しかし朔にはまだ——鳴弦がそこにいることの意味が分からなかった。鳴弦がいること。郁の最後の言葉「この子の目は、きっと朔くんの役に立てるから」の意味。七年間の郁の想い。そのすべてが、自責の刃の下に埋もれていた。


 大広間を出た。


 外は暮れていた。結界の琥珀の光が空に薄く透けているのに、空気が冷たかった。晩秋の夕暮れは日が沈むと一気に温度を失う。それでも結界の内側は穏やかなはずだった。穢れのない風が、里の屋根瓦の上を凪いでいるはずだった。


 肌が粟立った。


 結界の中なのに。守られた空間の中にいるのに。朔の肌は冷えていた。水滴が地面に染みを作る。


 震える肩、鳴弦の重さだけが、変わらなかった。


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