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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:3幕:教導寮四級童~三級童

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79話:六つの道

 朝の通学路に、梅の匂いが混じっていた。


 冬が長い。けれど暦は確実に動いており、里の梅林が目覚め始めていた。教導寮への石段を上がる途中、塀の向こうの枝に白い蕾が一つ二つ膨らんでいるのが見えた。まだ花弁は開いていない。冷えた空気の中に、かすかな甘さだけが先走っている。


 「先輩たちも忙しそうだな」


 隣を歩く凌が顎で前方を指した。石段の上、大門をくぐったあたりで上級生たちが固まって立ち話をしている。声は届かないが身振りでわかる。何かを比べ合い、頷き合い、肩を叩き合っている。


 二級童——六年次の上級生だ。来春から見習い派遣が始まる。配属先はまだ確定していないが、各組織への見習い期間を経て実質的に進路が決まっていく。大門の前で交わされているのは、おそらくその話だろう。


 「お前はどこ志望?」「外采に決まってるだろ」——朝の空気を割って、先輩の一人が笑った。別の声が返した。「俺は鎮護だ。門の外なんか御免だね」


 凌が鼻を鳴らした。横目で朔を見て、すぐに前を向く。何か言いたげな気配があったが、言わなかった。朔もそれを拾わなかった。


---


 昼餉の卓で、蓮がその話題を拾った。


 大広間に並ぶ膳の湯気が天井に昇っている。汁物の匂いが温かく、善次郎が黙々と碗を空にしていた。凌は箸を止めないまま、対面の朔を時おり見ている。


 「あたしたちもあと二年したら、ああなるんだよね」


 蓮の声は軽かった。大広間の壁を見上げていた——歴代初穂の名が刻まれた木札が、高い位置から順に並んでいる。朔の名が三枚。その上に何枚も連なる先人の名にはすでに墨の褪せたものもあり、いくつかには小さく「殉」の一字が添えてあった。


 「まだ先の話だろ」


 凌が返した。声は素っ気なかったが、箸が一瞬だけ止まっていた。


 「そうだね」


 朔が相槌を打つ。善次郎は何も言わず、碗を置いて茶を啜った。


 蓮がそれ以上続けなかったのは、蓮の勘だった。場を読み、引く。蓮の明るさは、ときにこうした静かな判断の上に成り立っている。


---


 放課後、厳島寮長が朔を呼んだ。


 「少し時間を取れるか」


 教室の出口で待っていた厳島の声は穏やかだったが、廊下の雑踏には溶けない低さがあった。凌が朔の横を通り過ぎながらちらと視線を寄越し、先に行った。善次郎はすでに門を出ていた。蓮だけが「あたし待ってようか」と言いかけたが、厳島の視線を見て「じゃあ先に帰るね」と踵を返した。


 寮長室は大広間の裏手にある。戸を引くと、墨と古紙の匂いが立った。広くはない部屋だった。文机と書架が壁を占め、壁の一面に巻物が架けられている——歴代卒業生の配属先一覧。外采寮、鎮護寮、内工座、浄身院、検穢使、総宰司。六つの組織名がそれぞれの列に並び、墨書された名前が何十と連なっていた。


 厳島は文机の前に座り、朔に席を示した。


 「六年次から見習い派遣が始まるのは知っての通りだ。通常であれば六年次に入ってから、各組織からの受け入れが検討される」


 厳島の言い方は事実の提示だった。寮長の話し方には常に何かを試す気配がなく、ただ順を追って筋道を立てていく。


 「お前たちの場合は早い」


 朔は黙って聞いた。


 「各組織の頭領級から、私のところに口頭で話が来ている。正式な照会ではない。里は狭い——。お前たちの班が何をしてきたかは、現場の者たちから上に伝わっている。それを受けて、見習いで預かりたいという意思表示がいくつか届いた」


 厳島が朔を見た。堅い表情の中に、温かさの片鱗が透けていた。


 「お前だけでなく班員全員に個別に伝える。だが——まず初穂のお前に話しておきたかった」


 朔は頷いた。


---


 厳島は一人ずつ名前を挙げた。


 「葛葉 蓮」


 壁の巻物に視線を投げてから、厳島が言った。


 「浄身院から——澄明殿が正式な見習いとして迎えたいと言っている。蓮の癒除術の練度と、浄身院との連携の実績が根拠だ」


 朔の中で蓮の顔が浮かんだ。浄身院での二段階浄化。古参の癒し手たちが文句をつけなくなった日。


 「もう一つ。外采寮からも名が挙がっている。治癒要員としての見習い参加——蓮がいれば部隊の生存率が上がるという実利だ」


 「……浄身院と外采寮の両方から」


 「そうだ。両方から名前が挙がる癒し手は珍しい」


 厳島の声は淡々としていたが、その一言の重さを朔は理解していた。蓮が志望する外采寮と、蓮の才能が最も活きると父の澄明が考える浄身院。二つの道が蓮の前に置かれている。


---


 「志場 善次郎」


 「鎮護寮から関心が来ている。防風林の調査と再生——善次郎が地面に手を当て、枯れた根から生きた樹皮を引き出した報告が上がっている。結界の補修と里内環境の維持要員としてだ」


 「加えて、内工座の討物所からも。鋼一を通じた間接的な打診だ。善次郎の木行適性は霊木素材の加工にも向くと」


 朔はそこで一つの像を見た。善次郎が鎮護寮で里を守る姿。門の内側に立ち、帰ってくる者を迎える姿。父・鉄心と同じ道。善次郎にとって最も自然な選択に見えた。


---


 「久我崎 凌」


 厳島が言ったとき、朔の中で何かがわずかに引き締まった。


 「外采寮。前衛の戦闘要員として即戦力。——最も明確な関心だ」


 そうだろうと思った。凌が外采寮以外を選ぶ未来を、朔は想像できなかった。


 だが——厳島はそれだけだった。総宰司からの関心は伝えられなかった。久我崎家は総宰司の家系だ。嶺壱の名前が出ないことの意味を、朔は意識の片隅に留めた。長男の巌が後継者であり次男の慧が情報分析で父を支えているなか、三男の凌が外采寮に進むことは——久我崎家から「異端」が出ることを意味する。嶺壱がそれについて何も言わないことは、何かを許しているのか。あるいは——。


 朔はそこで分析を止めた。凌の家の事情は凌のものだった。


---


 「土御門 朔」


 自分の名前を呼ばれたとき、不思議と構えがなかった。


 「鎮護寮。結界術の次世代の担い手として。基殿の子であることに加え、結界際での応急補修の実績が報告されている」


 父の道。結界を維持し、里を内側から守る。朔の結界術は最高適性であり、鎮護寮頭領の直系として鎮護寮に入ることは最も順当な道だった。


 「内工座——斎具所と討物所の双方から。影写し、守篝、護帯の法具開発の実績。斎具所は特に玄外を通じて強い関心を示している」


 法具を作り続ける道。玄外のそばで、里の全組織に必要とされる道具を生み出していく。


 「外采寮」


 三つ目の名が出たとき——朔の呼吸が、微かに変わった。


 「実戦での汎用性と、法具装備の設計・運用能力。お前がいれば部隊の生存率が上がるという評価だ」


 厳島が沈黙した。朔を見ている。


 「三つの組織から名前が挙がるのは、教導寮でも稀なことだ」


 静かな声だった。厳島の声は穏やかだが通る——有無を言わさぬ重みを、声量ではなく間合いで作る人だった。


 「お前にはまだ時間がある。だが——考え始めておけ」


 壁の巻物に並ぶ名前の列。外采寮の列は最も長かった。ところどころに添えられた「殉」の小さな字が、墨の色だけが新しい。


 朔は頷いて、寮長室を辞した。


---


 教導寮の門を出ると、日が傾いていた。


 面談は思ったよりも長かった。凌たちの姿はなく、通学路には自分だけだった。石段を下りながら、三つの名前が頭の中で並んでいた。鎮護寮。内工座。外采寮。


 鎮護寮に入れば、父と同じ結界を守る。篝を最も近くで守れる。里の内側にいれば、篝の傍を離れずに済む。


 内工座に入れば、玄外と法具を作り続ける。影写しの先にあるもの、守篝の改良、護帯に続く新たな防穢法具——里の全組織に貢献する道。


 外采寮に入れば——結界の外に出る。篝の病の手がかりは外にしかない。凌もいる。けれど里を離れれば、篝の隣にはいられなくなる。


 分析が動いていた。三つの選択肢を並べ、それぞれの利点と代償を比較する——いつもの思考の型だ。


 だが止まった。


 どの道を選んでも、何かを手放す。代償の大きさを比較しようとすると——比較の軸が見つからなかった。篝の病と、凌との約束と、父の結界と、玄外の工房。それらに優劣をつけられない。


 解があるのかどうかすら、わからない。


 石段の下で足が止まった。梅の蕾がさっきより少しだけ膨らんでいるように見えた——もちろん錯覚だ。朝と夕で蕾が変わるはずがない。けれど朝に見上げたときとは、蕾の白さの意味が違って見えた。


 ——遠い記憶の底で、要の声がかすめた。


 「お前は外の方が向いている」


 いつ言われたのか、もう正確には覚えていない。兄が何の脈絡でそう言ったのかも。ただその一言だけが、朔の記憶のどこかにずっと沈んでいた。普段は浮かんでこない。何かに触れたときだけ——今のように——水底から泡のように上がってきて、水面に触れる前に消える。


 朔はその泡を追わなかった。追えなかった。


---


 分かれ道に差しかかったとき、三人が待っていた。


 凌が石垣に肩を預けて立ち、善次郎がその隣で腕を組んでいた。蓮は向かいの軒先に腰を下ろし、足を揺らしている。


 「遅かったな」


 凌が言った。素っ気なかったが、待っていたことは隠さなかった。


 「大事な話だったんでしょ」


 蓮が立ち上がりながら言った。聞いてはいない——けれど見ればわかる。


 朔は三人の前に立った。何を話すべきか一瞬迷い、そして迷うまでもないと思った。厳島が言った通り、班員全員に個別に伝えられる内容だ。


 「各組織から、僕たちへの見習いの関心が届いているらしい」


 三人の反応は、三様だった。


 蓮の目が一瞬だけ広がり、すぐにいつもの笑みに戻った。善次郎は眉一つ動かさなかった。凌は——石垣から肩を離し、背筋を伸ばした。


 静かな空気が四人を包んだ。いつもの分かれ道だった。四つの道がそれぞれの家に向かって伸びている。凌は北。善次郎は西。蓮は南。朔は東。何百回と繰り返した帰り道。蓮が話題を振り、凌が短く返し、善次郎が黙って歩き、朔が相槌を打つ——その呼吸がいつもと微妙にずれていた。


 蓮が口を開いた。


 「ま、あと二年もあるんだし」


 明るい声だった。蓮の声はいつだって場を照らす。けれど今日は、その光が返ってこなかった。凌が何も返さない。善次郎も黙っている。蓮の笑みだけが宙に浮いて、夕暮れの空気に溶けていった。


 沈黙のなかで凌が足を止めた。


 「俺は外采だ」


 唐突ではなかった。凌の声には迷いがなかった。


 「最初から決まってる」


 断定。凌にとって外采寮は選択ではなく前提だった。朔はそれを知っていた。凌がどこに向かうかは入学前の冬から——あの庭で並んで鍛錬したときから、すでに方角として定まっている。


 凌の赤銅色の目が一瞬だけ朔を見た。「お前も来るんだよな」とは言わなかった。けれどその視線の中に、朔との未来を当然のものとして含んでいる気配があった。


 朔は何も答えなかった。


 凌は何も言わず、先に歩き出した。北へ。長い影が石畳の上を滑り、角を曲がって見えなくなった。


 その場に残っていた善次郎が一歩踏み出し、朔の横を通り過ぎた。


 「また明日な」


 短い声だった。いつもの言葉。何十回と繰り返された、善次郎の帰り際の一言。けれど今日は、その「明日」の輪郭が朔の耳にいつもと違って響いた。この「明日」はいつまで続くのか——そんな残響が、善次郎の背中が西へ遠ざかるのに合わせて、ゆっくりと薄れていった。


 蓮が手を上げた。


 「じゃあね。——あんまり考えすぎないでね、朔くん」


 蓮は笑って言った。いつもの蓮だった。けれど「考えすぎないで」という言葉を朔に向けたのは初めてだった。蓮は南へ歩き出し、肩越しに一度だけ振り返って小さく手を振り、角の向こうに消えた。


 四人が四つの方角に散った。


 朔は分かれ道に一人で立っていた。夕暮れの光が低く差して、四つの道にそれぞれ長い影を落としている。凌の影も善次郎の影も蓮の影も、もう見えない。自分の影だけが東へ伸びていた。


---


 土御門の門をくぐると、庭先の空気がやわらかかった。


 屋敷の向こう、敷地結界の脈動がいつもより穏やかに見えた。基が毎日維持している結界の法力だ。金色の微光が梅の枝にかかり、蕾の白さをほのかに照らしている。


 篝が縁側に出ていた。


 膝に古い書物を広げ、指先でゆっくりと行を追っている。浄身院から持ち帰った巻物の写しだろう。夕暮れの光の中で、文字を一つずつ確かめるように読む篝の横顔は静かだった。髪が肩にかかり、少し癖がついている。


 朔の足音に気づいて、篝が顔を上げた。


 「おかえり、さくにぃ」


 いつもの声だった。篝の「おかえり」はいつも同じ温度だ。朔が何を抱えて帰ってきても、その温度は変わらない。


 「ただいま」


 朔は縁側に腰を下ろした。篝の隣。いつもの距離。書物の紙の匂いと、篝の衣に移った薬草のかすかな匂いが混じっている。


 篝は書物を閉じなかった。けれど指は止まっていた。朔の横顔を見ている。


 「今日は何かあったの?」


 篝の声は低かった。朔の空気を読んでいる。篝が朔の「いつもと違う」を見逃したことは一度もなかった。


 「ちょっと、先のことを考えることがあって」


 朔は短く返した。嘘ではない。省いただけだ。


 篝は一拍黙った。書物の表紙を撫でるように指を動かしている。何かを考えている仕草だった。篝が質問を組み立てるときの、あの間。


 「さくにぃは、どこに行きたいの?」


 ——問いは、静かだった。


 篝の声に駆け引きはなかった。純粋な問いだった。兄がどこに行きたいのかを、妹が聞いている。それだけのことだった。


 鎮護寮。内工座。外采寮。三つの選択肢が再び並び、利点と代償が整然と配置される——。


 止まった。


 さっきの石段と同じだった。分析が巡って、同じ場所に戻ってくる。最適解が出ない。しかし今度はそれだけではなかった。分析を止めたのは等価比較の不可能性ではなく、もっと手前にある何かだった。


 篝が聞いているのは「どの道が最適か」ではない。「どこに行きたいのか」だ。


 行きたい場所。


 朔は、その問いに対して分析を起動したこと自体が的外れだと気づいた。しかし分析以外の回路で答える方法を、朔は持っていなかった。


 「……まだ、わからない」


 初めての答えだった。朔が問いに対して「わからない」と返すことは、篝の記憶の中にはなかったはずだ。何を聞いても朔は考え、調べ、答えを出してきた。少なくとも「考えてみる」とは言った。「わからない」とは言わなかった。


 篝は朔の顔を見ていた。


 そして——何も言わずに、朔の手に自分の手を重ねた。


 小さな手だった。朔の手より二回りは小さい。冬の外気に触れていたはずなのに、篝の掌は温かかった。守篝の淡い光が首元で脈打ち、篝の体を穢れから遮っている。その光の内側にある温度が、朔の手の甲に伝わっていた。


 篝は何も言わなかった。


 朔も何も言えなかった。篝の手の温かさが、三つの道の重さを別の形で朔に伝えていた。この手のそばにいられる道を選べば、篝の病を治す手がかりには永遠に届かない。


 庭の向こうで梅の蕾が夕闇に沈んでいく。敷地結界の金色の光だけが残り、二人の輪郭をぼんやりと照らしていた。


 三つの道が朔の前にある。六つの道が班員の前にある。


 どの道を歩いても、誰かの隣からは離れる。


 その事実に——朔は今日、初めて気づいた。


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