78話:鷹の翼の下で
林が深かった。
教導寮の武術場を離れ、里の南側に広がる林間地帯に足を踏み入れると、頭上を覆う梢が空を細切れにしていた。冬の陽は低く、葉を落とした広葉樹の骨格のあいだから白い光が斜めに差している。針葉樹の濃い緑がところどころに暗い壁を作り、足元には苔と枯葉が湿って重なっていた。
「五年目だ」
日下部訓導の声が、林の入口で振り返るように響いた。
「平地で旗を取り合う段階は終わった。今日から地の利を使え」
模擬戦は林間で行われる。五年次の応用期——地形制約が追加された実戦に近い訓練。視界が遮られ、高低差があり、木々が法力の波を散らす環境。朔は周囲を見回した。見通しが悪い。燭明術・顕照で法力の揺らぎを追おうとしても、幹や根が波を乱反射させて精度が落ちる。
対班模擬戦。一番班と三番班。
旗を奪い合う。先に相手の旗を取った班が勝ち。殺傷禁止。
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作戦を立てる時間が与えられた。一番班は林の東側、三番班は西側にそれぞれ散った。
朔は凌、善次郎、蓮と円陣を組んだ。
「鳴弦に制空権を取られる」
朔が最初にそう言った。凌が視線を上に向けた。林冠の隙間から覗く灰色の空。鳴弦が飛べば、上空から一番班の配置は丸裸になる。朔の燭明術・顕照は地上からの波長感知だ。林間では木々が邪魔をする。探知の速度で郁に勝てない。
「勝てないものは勝てない。——だから、騙す」
朔の作戦は三つの段階に分かれていた。
第一段階。善次郎が樹相術・小杭で地面から人の胴ほどの杭を三箇所に隆起させ、表面に樹鎧の硬化樹皮を纏わせる。上空から見れば、木漏れ日の中に人影に似た輪郭が生まれる。
第二段階。朔が燭明術・幻姿で光の囮を生成し、さらに幻影で本体の位置を二、三間ずらして見せる。偽りの光と物理的な偽の輪郭の二重構造。
第三段階。偵察の混乱に三番班が対処している間に、凌が全速で三番班の旗に向かう。
「つまり俺は待ってりゃいいんだな」
凌が腕を組んだ。
「待つのが一番難しいんだよ」
蓮が笑った。朔は頷いた。蓮は旗の護衛に残る。
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三番班の側では、千早が声を張っていた。
「郁、鳴弦を先に飛ばして。あたしたちの動きを見られる前に、相手の旗の位置を押さえる」
郁が頷いた。左肩に止まっていた鳴弦に視線を向ける。小さな鷹が琥珀色の目を一度瞬かせ、郁の腕から音もなく離れた。灰銀の翼が林冠の隙間を縫い、上昇していく。
梶が拳を鳴らした。「任せとけ、旗さえわかれば俺が取りに——」
「湊、前に出すぎないで」
千早が遮った。梶の出力が安定しないことを知っている。梶を突撃に使えば暴走するか腰が引けるかのどちらかだ。千早は梶を陽動に組み込んだ。
「いつき、地面の振動で相手の接近を感知。郁が上を見て、いつきが下を見る。二重の目で囲む」
いつきが静かに頷いた。「足音は任せて」
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開始の合図が鳴った。
三秒。
鳴弦が上空から一番班の旗の位置と四人の初期配置を把握した。郁が鳴弦の視界を受け取り、隣のいつきに囁く。いつきが千早に中継する。三番班は開始三秒で一番班の陣形を掌握した。
一方、朔は地上から燭明術・顕照を展開していた。法力の揺らぎが木々の幹に散り、三番班の正確な位置を掴むまでに五秒以上かかる。その差は決定的だった。数秒の遅延が、林間では致命傷になりうる。
千早が動いた。郁の偵察情報を受けて即断。樹相術で灌木の密度を引き上げ、前方に盾となる茂みを押し出しながら前進する。木行適性を活かした地形操作——千早は五年の訓練で、灌木を実質的な障壁として運用できるまでに成長していた。
梶が迂回路に走った。林の南寄りを回り込み、雷火術で閃光と轟音を放つ。凌の火力には遠く及ばない。だが林間では音と光が反射して方向を錯覚させる。千早の作戦に組み込まれた牽制として、梶の八割の出力がちょうど噛み合っていた。
序盤は完全に三番班が押していた。
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朔は焦らなかった。
最初から鳴弦に制空を取られることを前提にしている。善次郎が地面に手を当て、樹相術・小杭を発動した。木の根の間から人の胴ほどの杭が三箇所で隆起し、表面に樹鎧の硬化樹皮が纏わる。枯れた色の樹皮が林の中に溶け込み、木漏れ日の下で人の影のような輪郭を作った。
同時に朔が燭明術・幻姿を展開した。光の屈折を操作し、自分と凌の囮をそれぞれ生成する。幻姿だけなら角度を変えれば見破れる。だが善次郎の杭が物理的な輪郭を持っているから、上空からの俯瞰では光の囮と木の杭の区別がつきにくい。
さらに幻影を重ねた。本体の一番班員の位置を二、三間ずらして見せる。鳴弦が見ている「正しい位置」が狂う。
鳴弦が上空から見下ろした。
林間に人影が増えていた。四人のはずの一番班の影が、七つ八つに見える。朔と凌の囮。善次郎の杭。木漏れ日と幻姿の光が重なり、どれが本物か判別するのに時間がかかる。
郁が鳴弦の視界を共有し、眉を寄せた。
「……多い。人影が、多すぎる」
いつきに伝えるが、いつきの地面感知でも善次郎の小杭と地面から生えた木の区別がつかない。
千早が即断を迫られた。偵察情報が信用できない——三番班にとって初めての状況。
「郁、鳴弦に低く飛ばせて。近くなれば見分けがつく」
郁が鳴弦を低空に誘導した。梢の高さまで降りた鳴弦が、木々の隙間から真偽を見極めようとした瞬間——
枝の影から蒼白い光が走った。
凌だった。法力を纏った刃を掠めるように振り、鳴弦を追い立てる。当ててはならない。殺傷禁止だ。だが刃が空を裂く圧は、鳴弦の本能を刺激するには十分だった。鳴弦が甲高く鳴き、反射的に高度を取り直す。
低空偵察が封じられた。
よく見える目を逆手に取る。鳴弦が見える範囲に偽りの像を大量に流し込み、見えれば見えるほど、どれが本物かわからなくなる。
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三番班が偵察の混乱に対処している間に、朔が本命の手を動かしていた。
善次郎が旗を背負ったまま密林の奥に移動する。善次郎自身も樹鎧を薄く纏い、小杭の囮との区別をさらに難しくした。——だが善次郎は本命ではない。
本命は凌。
囮と威嚇で鳴弦の視線を散らしている隙に、凌が全速で三番班の旗に迫っていた。灌木を衝撃波で叩き割り、直線距離を一息に詰める。足音を殺すことすらしない。速度そのものが武器だった。
郁が鳴弦の目で凌の動きに気づいた。しかし偵察情報の吟味に取られた遅れが、凌には十分すぎた。
「千早さん、右——凌くんが——」
千早が振り返った。「湊、右!」
梶の雷火術が放たれた。閃光が林を白く灼いたが、凌は怯まない。灌木の壁を割って飛び出した凌が三番班の旗を掴み取った。
「——終了!」
日下部の声が林に響いた。
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講評は林の入口に戻ってから行われた。日下部が腕を組み、両班の前に立った。
「三番班。序盤の偵察と連携は一番班を押していた。鳴弦の偵察を前提にした作戦は機能している」
千早がまっすぐ前を向いた。梶が横目で千早を見て、視線を戻す。
「八代、地形操作の判断は正しかった。梶、出力を抑えた陽動は正しい使い方だ。鹿野、振動感知の精度が上がっている」
いつきが小さく頭を下げた。日下部の視線が郁に向いた。
「御影の偵察は、この場にいる全員の索敵より速く広い」
郁が目を見開いた。日下部の声は平坦で、事実を述べているだけだった。全員の前で——朔の燭明術よりも、いつきの振動感知よりも、他の誰の索敵よりも速いと明言した。
千早が胸を張った。「当然でしょ」
日下部は一番班に向き直った。
「土御門。幻姿と小杭の組み合わせで鳴弦の目を飽和させたのは上の段階の戦術だ。相手の強みを潰すのではなく、強みを情報飽和に変えた。あれは鳴弦の視覚の精度が高いからこそ成立する——相手の長所を逆手に取った」
朔は頷いた。
「御影の目は速い。土御門の目は深い」
日下部の講評が、最後にそこで止まった。
「どちらも良い目だが、質が違う」
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訓練が終わり、三番班と一番班が林の入口で合流した。
千早が汗を拭いながら振り返った。「負けたけど、序盤は取れてた。ただ、郁の偵察がなかったら何もできなかった」
梶が叫ぶように言った。「凌、速すぎだろ。灌木ごと吹き飛ばすなよ……」
いつきが静かに返した。「でも梶の雷火術、凌の集中を一瞬散らしてたよ。千早さんが言った通りの使い方だった」
梶が一瞬黙り、「……お、おう。まあ、俺の得意分野だからな」と目を泳がせた。千早が横目で「はいはい」と呟いた。
その空気を眺めながら、朔は郁のそばに歩み寄った。
「序盤、鳴弦に配置を見られたときは参った」
朔の声に郁が顔を上げた。琥珀色の目が少し揺れている。
「あの偵察がなかったら、三番班の初動は成り立たなかった。——僕は鳴弦の偵察に勝てないから、騙すしかなかった」
郁の唇が動いた。「……そう、なの?」
まだ信じきれない声だった。朔は具体的に指摘した。
「善次郎が動いたとき、鳴弦は三秒で気づいた。僕の燭明術では五秒かかる。その二秒の差があったから、鳴弦が善次郎に気を取られる一瞬を計算に入れなきゃいけなかった」
数字を出した。分析の人間が分析で出した裏付け。二秒の差を朔は正確に測っていた。
郁が目を伏せた。
「……でも、結局見抜かれたんだよね。僕の鳴弦が善次郎に向いた隙を」
「それは僕が郁の偵察を本気で警戒したから、隙の二秒を探すしかなかっただけだよ」
一拍置いて、朔は言葉を足した。
「よく見えるから騙された。見えない相手には幻姿は効かない。郁の目が正確だから、偽の情報が本物に見えた。——それは郁の弱点じゃない。僕が郁の強さを利用しただけだ」
郁は黙った。風が林の梢を揺らし、冬の陽が木漏れ日の模様を地面に散らした。
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郁がぽつりと漏らした。
「僕は……鳴弦がいなかったら、何もできないから。鳴弦が見つけて、いつきくんが伝えて、千早さんが動かして……。僕は鳴弦を飛ばしてるだけで」
声が小さかった。いつもの郁の声だった。半分しか言葉にならない、尻すぼみの声。
朔は一拍置いた。
「でも、鳴弦を飛ばせるのは郁だけだ」
簡素な一文だった。朔が本当にそう思っているときにしか使わない言い方。事実として。
遠くで千早の声がした。「郁ー! 帰るよー!」
いつきが郁の横に立った。「行こう」
郁は頷いて立ち上がった。朔を一度振り返り——唇が動いたが、声にはならなかった。そのまま踵を返して走っていく。
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帰り道は途中まで一緒だった。
一番班と三番班が里の道を並んで歩いた。凌が梶に「お前の雷火術、出力はもう少し出せるだろ」と素っ気なく言い、梶が「え、あ、うん……」としどろもどろになった。善次郎は黙って歩いている。蓮が千早と何か話して笑っていた。
分かれ道で千早が手を上げた。「お疲れ!」
梶が振り返って叫んだ。「次は勝つからなー」
いつきが小さく会釈した。郁が最後尾だった。
三番班の背が遠ざかっていく。郁が一度振り返って朔を見た。何か言いかけて——やはり言葉にならない。小さく頭を下げて、走った。千早たちの背中を追って。鳴弦が高い空から降りてきて、走る郁の左肩に音もなく戻った。
いつもの光景だった。
朔はその背中を見送った。冬の低い陽が三番班の四つの影を長く引いていた。四つの影が道の角を曲がって消え、鳴弦の灰銀の翼だけが最後に見えて——それも消えた。
朔の足が止まったまま、一文だけ浮かんだ。
——郁の目は、僕の燭明術より速い。
それ以上は考えなかった。分析の人間が分析で出した結論。事実として、ただそこに置いた。




